SEA SIDE"MEN"BLUES


 「太郎。ほれ、暇ならアイスでも買ってこい」
じいちゃんはいつもの笑ってるか怒ってるのか分からない顔でお小遣いをくれた。 そしていつものように『愛ちゃんは太郎の嫁になる♪』という唄を口づさみながら、 ひまわりが咲く庭へ行ってしまった。
 僕は暇じゃない。
ボーッとしているように見えても、夏休みの"日記"の宿題に頭を抱えていたのだ。
「…そうだ、延期になったあの"鎌倉の花火大会"のことを書こう」

 夏休みが始まる前日のこと。ロッカーの中の物を持って帰るようにという先生の指 示に、辟易していた。 この暗い湿った監獄のようなロッカーで梅雨を過ごした絵の具道具が、カビていない わけがない。 30メートルの飛びこみ台かから、プールに身を投じるより意を決して絵の具道具に手 をかけた。

「田舎に行くから8月10日の花火には行けないなぁ」
と、すぐ後ろから相澤ナナの少し低くて妙に大人っぽい声が聞こえた。 その言葉を背中で聞いていた僕だけれど、 小学生とは思えないほどの端正な顔立ちの彼女が、少しうつむきながら 話している姿は容易に想像できた。

運が良く、絵の具のパレットはカビの餌食にはなっていなかった。 けれどもなぜか、庭のひまわりが枯れてしまった時のように悲しい気持ちになったの だ。

 台風の為に花火大会が延期になった。 相澤の言葉をふいに思い出していた。
「今日って18日だよな・・・」
僕はなぜだか、初めて自分の意思で購入したお気に入りのナイキのTシャツを 着て浜辺へ向かっていた。 花火を見るために集まった人ゴミの中に、相澤ナナを見たのは本当に一瞬だった。 すぐにまた人ゴミに飲まれ僕の視界から消えた紫の浴衣の彼女は、 打ち上げ花火のように儚く、美しく見えた。

はたと鉛筆を置いた。
そんなことではない。僕は今、日記を書かなくてはいけないんだ。 鎌倉の花火大会≠ェタイトルではないか。・・・相澤≠ェタイトルではないの だ。 うなぎ上りで淋しさが心を占領し始めた。
「夏が、永遠に続けばいい」、不意にそう思った。そうすれば、この宿題をやらなく てもいいし、 相澤の浴衣姿も儚くはない。蝉も永遠に鳴き続け、ひまわりはいつでも太陽をたっぷ り浴びていられる。 いつのまにか僕は日記を放って玄関を飛び出し、渚橋を目指していた。 周りの景色が見えないほど思いきり走った。 片瀬川も越えた。ぐんぐん、ぐんぐん、永遠の夏に向かって…。

 めっきり社会人が板につき、夏休みというちゃんとした休みが取れなくなった。 朝母親が、昨日の雨のせいで鎌倉花火大会が延期になった、という話しを していたからだろう。そういえば小学生の頃にも、延期になったことがあったな、 ふと思い出した。夏が終わるのが怖くてしかたがなくて、永遠の夏≠ 本気で探そうと思ってた僕がいた。
今考えると、クラスメイトに恋をして("恋"とは言えども、下心はなかったと思う が)、 夏休みの宿題に思い悩んでいたあの頃こそが、まさに"永遠の夏"なのだと思った。

「もう9月か…」家路には、いつまでも変わらない片瀬川が艶づいている。

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