とんちんかん道具館


取材編「続・名品の行方」
地金に模様 名工の技

 「昭和の名工」の1人、3代・善作(本名、松原重次郎)は、なぞの人物である。

 大工道具の名品を収納する神戸市の竹中大工道具館には、3代・善作がつくった三本の鑿が収蔵されている。

 その展示説明。

 「初代・善作には2人の男の子がいた。長男・徳次郎が善作2代目を継ぎ、次男・重次郎が善作3代目を名乗った。重次郎は名工といわれ、卓越した技を持っていた」

 「敗戦後間もなく大阪の町を歩いている姿を目撃されたのを最後に行方を絶った」

 この展示を4月のこの欄で紹介した数日後、奈良県山辺郡都祁村吐山で代々農業を営んでいる中尾政彦さん(65)から封書が届いた。

 ……3代善作は私の村に住んでいました。善作の道具は私の家の道具箱で、妖しい文様を浮かべて眠っております……

 妻と3人の子を連れた善作が大阪から疎開してきたのは、太平洋戦争が激しさを増した1943年(昭和18年)の事だった。善作はこのころ30代後半だった、と中尾さんは言う。

 善作は、農家の納屋を借りた。昼間は炭を真っ赤におこして仕事をし、夜は妻子とともに土間に寝た。しばらくすると妻と子は善作を残して大阪に戻っていった。

 善作はときどき、自作の刃物を農家に預けては金や米を借りた。中尾さんの家にはそのいくつかが残っている。銘はあったりなかったりする。

 9本組鑿=大は幅一寸二分(約3センチ6ミリ)、小は幅一分(約3ミリ)。どの1本にも地金に美しい模様が浮かんでいる。

 鉋=「善作」の文字が刻まれている。

 げんのう=「本家・善作」の文字と、紋のようなマークが刻まれている。

  中尾さんの家に近い魚屋では、善作の出刃包丁がいまも使われている。

 善作は戦後10年ほどして村を去った。その後の善作を語る人はいない。名工を語るのは、道具だけになった。

(小林 好孝)
 
尚、この記事は「朝日新聞」1999年6月6日付に掲載されたものです。

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