灌漑農業の普及と塩類集積の問題について


 〜中国(華北)を中心に〜

 作物を栽培するにあたり必要な水が自然の状態では確保できない場合に、河川などから必要な水を耕地に注ぐ技術として、灌漑を利用することがある。灌漑は古代メソポタミアで発明されて以来、不毛の地を穀倉地帯に変えるなど、人類の食料供給に多大な貢献をしてきた。灌漑は、いわば集約農業が可能か否かの鍵ともいえる。もし、灌漑技術が存在しなければ、世界の主要穀倉地帯の収量は今日の半分以下にしかならなかったと言われている。しかしながら、灌漑は、農地の冠水と塩類集積・帯水層の水位低下と汚染・水生生物の生息破壊など土壌のみならず周辺環境にも大きなインパクトを与えている。ここでは中国北部(華北地域)を例に取り上げながら、灌漑技術が引き起こす環境問題について考えてみたい。
 世界の土地総面積は1億3400万平方キロメートルで、その約3分の1が農用地であるといわれている。この中で、実際に灌漑がおこなわれているのは約250万平方キロメートルと推測されている。国別の灌漑面積を見ると、中国はインドについで第2位であり、農用地に占める灌漑面積の割合も高くなっている。世界の灌漑農地面積は20世紀に入ってから急速に増加しており、発展途上国を中心に灌漑計画もかなり存在しているため、今後も増加傾向にあると考えられる。しかしながら、中国においては1978年をピークに大幅な面積減少がある。これは、1980年以降、農産物価格の低迷や灌漑計画に対する国際的な資金援助の急減・灌漑プロジェクトの建設コストの上昇等の経済的条件の悪化の他に、灌漑農業が実施地域の生態系や環境に及ぼす影響への懸念が存在しているからである。灌漑用の水を地下水を利用しておこなわれる場合が多くあるが、地下水は地下の帯水層に降雨の一部がしみ込み、極めて長い時間をかけて地下水の一部へと変化していく。地下水の量は膨大なのだが、灌漑のための汲み上げ量が地下水の増加量を上回ると、地下水位が徐々に低下し、その地域の水の収支バランスが崩れて、生態系に影響が出てくることになる。中国(華北)においてはここ数年、毎年1メートルも地下水位が低下しているため、農業の存続自体が不安視されるようになってきている。また、これとは逆に、適切な排水が行われていない灌漑では、地下水位が上昇し、その結果として、農作物の根は酸素飢餓をおこし、農作物の育成が低下する。
 灌漑農業が地球環境に与える影響として最も大きいと考えられるのが、土壌内の塩類集積現象である。地中の土壌溶液が蒸発に伴って下層から土壌表面に上昇し、大気との境界面で水分だけが蒸発して、土壌中に混ざっていたり岩塩層として地下に埋蔵されていた塩類が蒸発できず表面にたまり、徐々に濃縮していくことを、塩類集積現象と呼ぶ。日本のように降水量が多いところでは表層付近の塩類が洗い流されるので、塩類濃度が高くなって農作物に悪影響を与える場合は一般的にはあまりなく、ビニールハウス内や干拓地等で、みられるだけである。しかし、乾燥地域などでは降水量より蒸発量の方が断然多いので土壌内の塩類は、上層へ上層へと移動し、集積していくことになる。かつては河川の氾濫などによって集積した塩分を洗い流すということが可能であったが、中国(華北)等でもダムの建設により、洪水の恐れがなくなったことと引き替えに、土壌に集積した塩分を自然が流し去る方法が失われてしまったのである。その結果、作物の収量は低下し、生産能力の極めて乏しい塩類化した土壌だけが残されることになる。現在、中国(華北)では高塩分・高アルカリ土壌の面積が700万ヘクタールにのぼっていると推定されており、ここから、中国(華北)の灌漑農地で塩類集積による収量低下が起きていることがわかる。塩類集積の深化と拡大は、地域の水循環のバランスを狂わせ、塩類の局地的な集中、土壌としての機能低下及びそこに育成する植生の変化や消失をもたらし、有害物質の食物連鎖・帯水層の枯渇・河川や湖沼水の枯渇・魚類の死滅(河川等の水中の塩分の極端な増加のため)等に現れている。そしてこれらは、表土流出に繋がり、砂漠化へと向かっていくのである。
 土壌の浸食や砂漠化を阻止するために灌漑を行ったのだが、塩類集積によってかえって砂漠をつくり出してしまう、ということもある。塩類集積という問題に対して、人類が抜本的な対策を持ち合わせいない現在、世界的にみれば、灌漑農地が増えれば増えるほど、耕作不能になる農地もまた増大していってしまうという宿命を抱えている。人口の増加が続いている現在の世界の状況から考えて、農業は今後ますます増産を迫られることは間違いなく、増産のためには灌漑は欠くことのできないものである。ということは、これからも、灌漑による増産と、塩分集積や湛水化による減産とのせめぎあいが続くことになろう。

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