1.はじめに(茨木市の地勢)
茨木地区は江戸時代より北摂の交通・商業の中心地として発展し、明治以降は三島地方の行政・教育の中心でもあった。さらに、大正・昭和に入ってからは大阪の衛星都市という側面が急速にクローズアップされ、人口が急速に増加していった。現在の茨木市は人口約25万人、名神高速・近畿自動車道などの高速道路が市内を通り、JR東海道本線・阪急京都線が市内南部を横断しており、北摂の行政・交通の要衝ということができる。
このような茨木市の、行政区画の変遷と財産区について考えてみたい。
2.茨木の行政区画の変遷
@明治期〜昭和初期の行政区画の変遷
茨木地方の村々は、明治5年の制度改革によって、島下郡第一区・第二区・第三区に属することとなった。ついで、明治8年4月には、島下郡は大小区制の第八大区となり、これを5ヶ小区52番組に分けたが、その組分けなどは変わらなかった。明治10年9月には番組が廃止され、小区の下に村がおかれ、さらに、明治12年2月には大小区が廃止され、郡の下に町村を分画制としておくようになった。その後、明治17年5月には、連合戸長制が改編され、この制度が改編された、明治22年4月の市政・町村制施行まで、続くことになる。なお、この頃、島上・島下両郡にまたがっていた鮎川村が島上郡に完全に編入し、東蔵垣内・西蔵垣内両村が合併して蔵垣内村と改称、戸伏・庄・中・橋内・牟礼の5ヶ村が合併して戸伏村となるなどの変更があった。
明治22年4月の市政・町村制施行により、大阪府では大阪市・堺市が市として成立し、その他の地域では町村を置いたが、現在の茨木市域には、13ヶ村が生まれ、旧村はその大字となった。
明治29年頃からは郡が統廃合され、31年6月に新郡制が実施されたが、この時茨木地方の村々はいずれも三島郡の管轄に入ることになった。また、茨木村は明治31年10月14日に町制を施行して茨木町となった。その後は、一部の町村の急激な人口増以外に、第二次大戦が終了するまで、昭和10年2月に溝昨村と宮島村が合併して玉島村になった以外に大きな変化は起こっていない。
A戦後の行政区画の変遷
茨木町を中心に茨木市を形成しようとする企画は、昭和10年頃から持ち上がっていたが、戦前は実現には至らなかった。現在の茨木市を成立させるための具体的な動きは、戦後の昭和21年8月に当時の春日村村長が茨木町に合併の相談を持ちかけたのをきっかけに、茨木町・春日村・三島村・玉櫛村の1町3村で合併委員を選出して新市の構想を練りはじめたところから始まる。そして、昭和22年3月に茨木町役場で第一回の合併調印式が行われ、その後紆余曲折がありながらも、昭和23年1月1日に上記1町3村が合併して、正式に茨木市が全国215番目の、大阪府下13番目の市として誕生した。
昭和28年9月に町村合併促進法が成立した頃、茨木市では、周辺の安威・玉島両村との合併の機運が盛り上がり、昭和29年1月末には安威村・玉島村が正式に茨木市に合併した。さらに、昭和30年4月3日には、福井村・石河村・見山村・清渓村が茨木市に合併した(但し、清渓村高山地区は茨木市へ合併の後、豊能郡東能勢村に編入)。その後、先に豊能郡箕面町と三島郡豊川村が合併して成立した箕面市から、昭和31年12月25日に旧豊川村の道祖本・清水・宿久庄の各地区と粟生地区の岩坂・間谷、それに小野原地区の松尾瓦工場地区が茨木市に編入となった。
昭和32年になると、3月30日に三島郡三宅村を編入したが、旧三宅村の一部地区の住民から反対の声が挙がったこともあり、旧三宅村小坪井東・小坪井西・鶴野地区が7月1日に三島町に編入されている。さらに、旧三宅村太中・乙辻地区などが住民投票を経て、昭和35年4月1日に三島町に編入されている。
昭和33年1月には吹田市東部地域(旧山田村の大字山田小川・山田別所・山田上の一部)が茨木市に編入されており、また、昭和34年4月1日には、旧三島村の大字総持寺・中城の一部が分離し高槻市に編入されている。
このように編入・合併・分離をくり返しながら今日の茨木市域が決定したようである。
3.茨木市の財産区
茨木市の財産区は、現在58財産区があり、そのほとんどが旧村を母体とした大字財産区である。これらの財産区の過去の変遷や、現在所有している財産については、不明な部分が多いが、明治から今日までの間に、いくつかの財産区が消滅した他は、大小に幅はあれども、財産区は市内に残り存在しているようである。
茨木市財産区一覧表
1.茨木市大字茨木財産区 31.茨木市大字馬場財産区
2.茨木市大字上中条財産区 32.茨木市大字二階堂財産区
3.茨木市大字下中条財産区 33.茨木市大字十一財産区
4.茨木市大字倍賀財産区 34.茨木市大字目垣財産区
5.茨木市大字上穂積財産区 35.茨木市大字野々宮財産区
6.茨木市大字中穂積財産区 36.茨木市大字島財産区
7.茨木市大字下穂積財産区 37.茨木市大字安威財産区
8.茨木市大字奈良財産区 38.茨木市大字福井財産区
9.茨木市大字郡財産区 39.茨木市大字大岩財産区
10.茨木市大字郡山財産区 40.茨木市大字安元財産区
11.茨木市大字畑田財産区 41.茨木市大字生保財産区
12.茨木市大字五日市財産区 42.茨木市大字桑原財産区
13.茨木市大字上野財産区 43.茨木市大字泉原財産区
14.茨木市大字田中財産区 44.茨木市大字佐保財産区
15.茨木市大字西河原財産区 45.茨木市大字千堤寺財産区
16.茨木市大字耳原財産区 46.茨木市大字銭原財産区
17.茨木市大字太田財産区 47.茨木市大字長谷財産区
18.茨木市大字太田ノ内高田財産区 48.茨木市大字清坂財産区
19.茨木市大字太田ノ内上野財産区 49.茨木市大字上音羽財産区
20.茨木市大字太田ノ内新田財産区 50.茨木市大字下音羽財産区
21.茨木市大字総持寺財産区 51.茨木市大字忍頂寺財産区
22.茨木市大字中城財産区 52.茨木市大字粟生岩坂財産区
23.茨木市大字戸伏財産区 53.茨木市大字宿久庄財産区
24.茨木市大字鮎川財産区 54.茨木市大字清水財産区
25.茨木市大字水尾財産区 55.茨木市大字道祖本財産区
26.茨木市大字内瀬財産区 56.茨木市大字蔵垣内財産区
27.茨木市大字真砂財産区 57.茨木市大字丑寅財産区
28.茨木市大字沢良宣東財産区 58.茨木市大字宇野辺財産区
29.茨木市大字沢良宣西財産区
30.茨木市大字沢良宣浜財産区
(以上58財産区)
茨木市総務課資料より
4.財産区の変遷例(旧豊川村立会山の売却をめぐって)
旧豊川村内にあった立会山は、江戸時代より大字宿久庄・大字清水・大字粟生の共有部落有財産(入会地)であった。明治22年4月1日からの町村制の施行に伴って、宿久庄村・清水村・粟生村に小野原村・道祖本村を加えた5ヶ村合併が行われ、豊川村が成立した。この時、立会山等の部落有財産は豊川村が制度上の管理団体となり、豊川村長の管理下に置かれることになった。その後、昭和31年11月3日に豊川村は豊能郡箕面町と合併し箕面市となったが、旧豊川村東部地域(大字道祖本・大字宿久庄・大字清水・大字粟生岩坂・大字粟生間谷の一部・大字小野原の一部地域)が、その直後の昭和31年12月25日に茨木市に編入した。
旧豊川村の一部地域が茨木市に編入したとき、大字部落有財産の管理者が茨木市長と箕面市長に分かれることとなったことなどから、江戸時代に成立した粟生・宿久庄・清水の三大字が共有する入会林野は、それぞれの大字地籍を単位とした財産区の所属地方自治体の変更に伴って、管理者が変化することとなった。さらに、粟生地区は岩坂が茨木市に、間谷の一部が箕面市に所属となったため、立会山(入会林野)の部落有財産は4財産区(粟生・宿久庄・清水・岩坂)が共有することになった。
そして、豊川地区では昭和40年代に入ると、いくつもの開発計画が展開されていったが、阪急電鉄株式会社が大規模開発の可能な地域として、箕面市大字間谷、茨木市大字宿久庄・同清水・同岩坂などの共有山に目を付け、各大字財産区に開発要請を行い、これを受けた形で各大字財産区では要請の検討を行い、共有山の売却を決定していった。昭和46年の年初には、各財産区世話人代表者名をもって、「財産区財産処分申請書」が茨木・箕面両市長に提出され、財産管理者の承認が求められるなどの動きがあった。そして、昭和46中に財産の処分が確定し、各大字財産区財産として地上権利者による利用が行われてきた共有山の大部分が売却処分されて消失した。
なお、大字旧地上権利者や財産区に対しては、従前からの権利を補償する立場から、土地売買契約書等に基づいて、巨額の補償金が支払われることになったが、このような補償金の使途などについては、法律上の制限があった。このため、各大字では補償金の内の各大字への分配金は、農業事業や消防器具購入・自治会館建設費などに充てたところが大半であった。
このようにして、江戸時代から続いた部落有財産が処分されたのであった。
5.おわりに
明治期より現在までの行政区画の変遷と、財産区の存在とその変遷を調査したが、特に財産区の変遷や現在の詳しい内容(各財産区にどのような資産があるのか等)については、資料が全くといっていいほどなかった上、茨木市当局からもはっきりとした回答が得られなかったため、不完全なものに終わってしまった。しかしながら、一部の財産区の分割や資産の売却について一部資料が残っていたおかげで、内容が判明したことは幸運であった。
自分が日常生活していく中では、明治期の旧村などの存在が今に関わることはあまりないが、市の統合の歴史と共に、普段ほとんど気にしない、財産区などについて知ることができ、調査期間中は有意義な時間を過ごせたと思う。
最後に、調査・資料収集に協力していただいた、茨木市総務課・茨木市教育委員会に謝意を表したい。
参考資料:「茨木市史」
「立会山史」
調査協力:茨木市総務課
茨木市教育委員会
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