総合コース「平和研究」レポート
“差別のない世界は実現可能なのか”
おそらく、人間が人間でありはじめてから今日までの、ほとんどの時間に、例えそのような概念がなくとも差別というものが存在していたことは間違いない。少なくとも、身分制度が確立された時期から後には、差別というものは今日まで途切れることなく人類社会のなかに存在してきた。そして現在も、地球上のほとんどすべての場所で、様々な形の差別が存在し続けている。個人対個人の差別だけではなく、国家・民族・宗教などや経済的・社会構造的な差別・蔑視も数えきれないほどある。これらの多くは、国家・民族・宗教間の対立や、経済的格差・社会構造上の問題などが複雑に絡み合って発生していると考えられる。力の強いものが弱いものを圧迫することによって、強いものから弱いものへの差別、弱いもの同士の差別がいくつも起こってしまうことは人類の宿命であるように思える。
差別のない世界を実現することは、平和な世界を実現させるということと共通する部分がかなりあるように思える。そして、そのどちらもが、人間が人間である限り実現することは不可能ではないかと私は考える。何故なら、差別とは人間の嫉妬・蔑視など人間の心理に必ず存在するものが引き起こすものだからである。また、戦争も、人間の心理のなかに嫉妬や欲望などが存在している限り、人類社会のなかに起こり続けるであろうし、嫉妬しない・欲望のない人間などあり得ないと考えるなら、戦争も人間はなくすことはできないであろうと私は考える。しかしながら、差別を、戦争の起こる回数を少しでも減らすことは可能であろう。人間の心の中に嫉妬や蔑視・欲望などが在るのと同じように、人間には自制心というものが備わっており、他人から学び、他人を尊敬することが出来るのだから。
特定の支配階級が形成されたりすると、その支配階級は被支配者達を支配しやすくするために、被支配者達の間に差別的な政策を行って支配を永続的なものにしようとすることがしばしばあった。具体例として、日本において、江戸時代に形成された身分制度のなかに、士農工商の他に、“えた・ひにん”と呼ばれる被差別階級をつくり、彼等に対して農民が優越感を持つことにより、江戸幕府に対しての不満をそらそうとしたという事例を挙げることが出来る。そして、この被差別階級は明治以後も表面にはあまり出ないながらも、日本社会にその差別構造を残している。このような日本における差別構造は、被差別部落問題として現在も完全な解決に至ってはいない。しかし、いくつかの変化の過程を経て、現在はかなり、解決に向かっていると考えることもできる。少なくとも、1945年以後の日本において、公的・法的に日本国民の権利に差異を一切設けていないことから、法律的には日本社会の中に出生などでの差別は、嫡出子・非嫡出子の問題などを除けばほとんどくなっているということが出来る。しかしながら、人間の心理の方は差別を求めているかのようで、現在においても非差別部落出身者が就職・結婚などで差別されることはかなりあるようである。このような状況を改善するには、やはり、差別を必要としない、心理的にゆとりのある社会を形成する必要があるのではないだろうか?
人類社会が差別を必要としているかのように思えるほど、差別が世界中で氾濫している理由は、やはり多くの人間に心理的余裕がないからなのではないだろうか。そして、差別が人間対人間・社会対社会で何らかの差異が存在していることから発生していると考えるなら、極論するならば、差別をなくすにはすべての差異をなくしてしまえばよいということになる。しかし、経済的な格差をすべてなくそうとした“社会主義国家群”のほとんどが失敗して消滅し、現在残っている社会主義国家もほとんどが建国当時の理想を失っている状況からも、そのようなことは不可能に限りなく近いと考えざるを得ない。また、差異・格差が生み出す向上心などが、人類の科学的・社会的進歩(現在の社会が100年前・200年前…1000年前よりも進歩していると考えた場合の進歩)に繋がっていることは間違いなさそうである。さらに、人間は1人1人が全く違った個性を持っており、全ての国家はそれぞれに力に強弱があり、全く違った社会構造になっているものである。このような差異・格差を無理矢理なくそうとすることは、全体主義への途をたどることにもなりかねない危険なものであり、避けるべきものであると私は考える。それよりも、差別を出来るだけ少なくするには、人間が・国家がそれぞれの違いを認め、その上で互いに競争していくことが重要なのではないだろうか。
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