環境倫理1
トキの焼き鳥が食べられないことについて
(1)はじめに
以前、高校時代の友人達と焼鳥屋で飲み、食べていた時のこと、昔から時々奇矯な発言をいきなりすることのあった友人(仮にAとしておこう)が突然「トキの焼き鳥が食べたい、大将、トキって一串いくらぐらい?」などと言い出した。はっきり言ってそのとき私は、トキといわれてどんな鳥のことかとっさには出てこない状態であった。それは店の大将も同じであったらしく、「はぁ、トキねぇ、うちにはそんな鳥はおいてないですねぇ」などと答えていた。少し間をおいてからやっと特別天然記念物で既に絶滅が確定しているとも言える、あのトキであると気がついた私たちは一斉に「そんなもん、売ってるわけないやろ!」と突っ込んでいたが、Aはそんな突っ込みなど、意にも介さず、自分の偏った知識をひけらかすかのように「トキって学名が確かニッポニア・ニッポンとか言ったはずだ。つまり、日本にはトキはいっぱいいるはずじゃないか。佐渡にトキを飼育しているところがあるって聞いたことがあるぞ」などと言っている。おいおい、そりゃ、昔はトキは日本にはいっぱい居ただろう。でも、今ではほとんどいないはずだぞ(正確には、佐渡に一羽だけ生存している・・・はず)。Aは、ほっておくと次に雷鳥が喰いたいだのヤンバルクイナが喰いたいだの言い出しかねない様子だったので、一緒にいた医者の卵であるBが「トキは既に絶滅寸前なの。昔いっぱいとっちゃったから、もう日本には1羽か2羽ぐらいしかいないんだから、そんなもん、焼鳥屋にあるわけないでしょ。万が一、トキが焼き鳥にされるとしても、それが君の口に入る事なんて99%ありえないの。」と説得に乗り出した。すると、「1%ぐらいは可能性があるじゃないか」とか幼稚園児のような反応を見せるだろうと思われたAは、おとなしく「そうか、トキはもう絶滅寸前なんだ、じゃぁ喰えないのもしょうがないか」と納得した様子をみせた、が、それは一瞬だけのことで直ぐさま「何で絶滅寸前の状態にまでなるんだ、誰がトキをそんなに喰ったんだ?」などと言い出した。昔の人がトキを食べたとは限らないと思うのだが、そんなことは彼にはおかまいなしであり、さらに「昔の日本人は自分たちの都合で俺がトキの焼き鳥を食べる権利を奪った。誰がそんなことを許したんだ!」と叫んでいる・・・。
(2)生存権と世代間倫理
この時の騒ぎの元凶であるAと年末に再開した時に、この話を思い出した。そして、ふと思ったわけである。この話には、環境倫理、とりわけ自然の生存権と世代間倫理の問題が含まれているのではないだろうか、と。まずは、トキが焼き鳥として食べたくとも食べられない状況にある事について、環境倫理の命題として考えたときの論点を整理してみよう。
1.自然の生存権
自然の生存権(あるいは生物保護)として考えられるものに、「人間のみではなく、生物種・生態系・景観などにも生存の権利があり、それを人間が自己の都合で奪ってはならない」、というものがある。つまり、人間中心の物事の考え方をするのではなく、人間も地球上の生物の一種類であり、他の生物と同じ位置に存在しており、人間が他の生物の上位に位置している訳ではないという考え方である。
この考え方は、人間にはトキを絶滅させる権利は無いという結論へとつながっていくと私は考えている。また、さらにそこから進んで、人間にはトキを食べる権利は無い、というところまで行き着くかもしれない。いずれにせよ、ここで問題となるのは、トキを絶滅させる権利の事である。現在、トキが1000万羽いたと仮定したとき(そんなにトキがいたら、それはそれで怖いかもしれないが)、人間は果たしてトキを保護しようとするであろうか。まぁ、1000万羽いる段階でそれはありえないであろう。少なくとも、私の知る限り、動植物の保護運動が盛んになるのは数が減っているという情報がオープンになって以降のことである。そういう意味では、自然の生存権といえども、全ての種に対して声高に叫ばれているものではなく、種の減少により、希少種となる危険性がある種や希少種となってしまった種に対して人間はこれを適用していると考えられる。
2.世代間倫理の問題
はじめの私達の会話に関して、世代間倫理で問題になる点といえば、Aが叫んだ「昔の日本人は自分たちの都合で俺がトキの焼き鳥を食べる権利を奪った。誰がそんなことを許したんだ!」という部分に集約される。まさに、誰が、トキを絶滅させることを許したのだろうか。
世代間倫理を「現在世代は、未来世代の生存可能性に対して責任がある」と解釈したとき、トキが日本に数多く生息していた時代の世代は、今現在の我々の世代に対してトキを生存させておく責任がある、という風にとることができる。その考えからいくと、少なくとも、我々の世代が生きたトキを見る(あるいは知る)権利は、我々以前の世代、もっと言えば乱獲をしていた世代が責任を持たねばならないはずである。
これを、現在と未来の関係で少し形を変えて眺めてみるとこういうことになるのではないだろうか。例えば、今現在、日本中にいると思われ、農業に従事している人たちからは明らかに敵扱いされているカラスが、100年後に絶滅寸前になったとしたら、100年後の人々は、「100年前の人達が、カラスの生存の権利を無視して、カラスの生活の場を次々と奪っていき、絶滅に追い込んだ」と我々の世代を責め立てるかもしれない。それに対して現在の農家の人達は「自分たちの生活の権利が優先だ」と応酬するのではないだろうか。
同じように、トキの乱獲も、終戦直後の食糧不足の状態では、トキの生存よりも我々人間の生存が優先されたため、という論理も成立すると思われる。
3.トキが焼き鳥として食べられない責任は?
トキを焼き鳥にして食べる、というAの欲望は少なくとも現在では不可能である。タイムマシンが発明され、それを使用して過去へ戻るとか、遺伝子工学が急速に発達してトキの遺伝子(多分保存されていることでしょう)を使って、トキが復活して大量にトキが生まれる、といった、現状では起こりそうもない状態にならない限り、Aがトキを食することは不可能であることは間違いない(もし、それ以外に手段があるとしたら、中国に数十匹だけいるという中国産のトキを無理矢理焼き鳥にしてしまう、という犯罪的行為を行った場合のみである)。少なくとも、今現在のトキは焼き鳥に適していない。これは間違いの無いことである。しかしながら、かつてトキは戦後の食糧難の時代に人々によって文字通り「焼き鳥」にされ、人々の胃袋を満たしていたことは間違いなさそうである。この当時の人々は、トキという、何処にでもいる鳥を捕まえて食べていたのであり、そこに倫理的に非を問うことは、我々が鶏を食べることに非を唱えるのと同じ様な論理なのではないだろうか。
トキの絶滅に対して環境倫理、特に世代間倫理の観点から非を唱えることができるとしたら、トキの数が減少期にあった世代の人々に対してということになると考えられる。
(3)トキは保護すべきだったのか
私自身は、トキの焼き鳥を食べてみたいという気はあまりないが、少なくとも焼き鳥を食べたがったAの、トキの焼き鳥を食べる権利が少なくとも今から50〜30年程前の時代の人達に奪われたという点に関しては同意できる。
トキの絶滅は、単純にトキが人間によって乱獲されたために数が減って起こった出来事という風に割り切る事も可能であろうが、私はそのような割り切り方はしたくない。何故なら、トキの絶滅の原因が単純明快なものと言えるかどうか疑問だからである。私は、トキ絶滅の原因は大きく分けて2つあると考えている。一つは美しい羽を利用するために殺されていったというもの。そしてもう一つが食用である。
絶滅に至る以前の段階でトキを保護すべきであったか否かという点に関しては、私はトキを保護すべきであったと考える。その理由として、基本的には人間に他の種の生存権を奪い絶滅させる権利はないと考えているからである。ただし、ここには例外もある。例外として挙げられるものに、その種が絶滅することによって人類が生き延びることが出来るというような極限状態がある。人間が飢え死にしないためにはトキを絶滅させるまで食べざるをえない、というのであれば、人間がトキを絶滅へと追いやることは許されるのではないか、と私は考えている。しかしながら、トキの羽を利用するための乱獲は、人間には許されるべきではないと考える。また、人間が環境を変化させたことによって種の絶滅が招かれるのならば、これも倫理的には異を唱えたいと思う。
世代間倫理の問題から見たトキの保護であるが、少なくとも現代世代には未来世代に対して、未来を予測し、その予測において未来世代が明らかに現代世代に因果関係が起因していると思われる困難を蒙ることに対して責任があると考えている。その点から、トキの焼き鳥が食べられない事態は、トキが日本中に生存していた時代の人達に責任があると考えられ、我々と我々以降の世代に対しての責任を完遂しなかったということができる。
(4)おわりに
トキの焼き鳥が食べられなかったAは、過去の人達に対して声高に責任を問うていた。それにたいする反論は当然、存在するし、そこには合理的な理由もある。ただ、これだけは間違いない。絶滅してしまったものは帰ってこないし、一度変化してしまったものを元に戻すことは至難の技であり、不可能に近い。我々がこの先、未来世代から責任を問われる事態は起こりうるだろう。できれば、責任を問われる回数が少しでも少なくなるようにしていきたいものだ。既に、トキの焼き鳥は食べられない。同様に、鯨肉も食べることが難しい状況になってきている。気をつけていないと20年後には、今、あたりまえに食べているものが、過去のものとして語られている状況があるかもしれない。
<参考文献>「環境と倫理」加藤尚武編
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