第4章 人口急増都市における中心市街地活性化のあり方に関して

〜三田市と川西市を事例として〜


中心市街地の空洞化は、人口増加が止まった地域や人口の減少が始まっている地域だけではなく人口増加が続いている都市に於いても明確になってきている。ここでは、兵庫県の三田市と川西市という共に人口の急増を経験した都市の中心市街地活性化政策を分析・比較してみたい。

〔1〕三田市

1.三田市の概況

三田市は兵庫県南東部に位置し、人口約106357人(1998年3月末現在)の大阪・神戸地域のベッドタウンとして1990年代に急激に人口を増加させた、典型的な人口急増型都市である。特に1988年からの10年間は、人口増加率日本一を10年連続で達成しており、都市拡大のすさまじさを物語ると共に、その急激な人口増加による都市内のひずみの大きさを考えざるを得ない。三田市において主に人口増加の受け皿となったのは旧市街地がスプロールした形でのミニ開発等ではなく、計画人口が10万人を越えている北摂三田ニュータウンのうちの三田市内建設の3地区(フラワータウン・ウッディタウン・カルチャータウン)及び相野駅付近に民間業者が開発したつつじヶ丘地区(人口約1万人)等の大規模開発であった。
三田市は三田駅前から武庫川を越えた三田本町地区までの旧市街地と北摂三田ニュータウン6の一部であるフラワータウン・ウッディタウン・カルチャータウンなどの新市街地、母子・木器・高平・志手原等の農村部という主に3つの地区に分けられる。

2.中心市街地の範囲と概要

(1)中心市街地の範囲
三田市における中心市街地の定義は、人によって違ってくる。駅前地区だけだと思っている人もいれば、横山やシビックゾーンも範囲に入ると思う人もいるだろう。ここでは、三田市中心市街地活性化基本計画が定めた、三田駅前地区などの三田町・相生町の一部・横山町の一部・天神町の一部・西山地区の一部・シビックゾーンなど約200haを中心市街地として考えていきたい。
(2)中心市街地の概要
約200haと若干広めの範囲を中心市街地として設定している三田市であるが、特に商業・業務に関しては三田町とシビックゾーンが中心となる。業務集積は三田駅前地区とシビックゾーンに集中しており、逆に商業集積は三田駅前地区から中央町・本町地区などに広がっている。それでは、各地区について具体的に見ていきたい。
@ 三田駅前地区
JR福知山線・神戸電鉄三田線三田駅前に広がる三田駅前地区は、かつては商業集積として栄えたものの、現在はニュータウン開発やモータリゼーションによる地位低下からは逃れられてはいない。駅前地区は現在再開発の途上にあり、A・B・C・Dの4つのブロックに分け、
Aブロックには、核となる百貨店(阪急百貨店と出店を協議したが阪急側が百貨店形態での出店を断念)と専門店、公的施設と立体駐車場を設置する。
Bブロックには、量販店および駅前市場を配置して、上層部に住宅を設ける。
Cブロックは、シティホテル、結婚式場、公益的施設、事務所等を含む多目的ビルを計画。
Dブロックは、駐車需要に対応するための立体駐車場を予定。
という形で再開発を目指しているが、残念ながら予定通りには動いていない。この駅前再開発の問題に関しては別に章を設けて論じる。
A 本町地区・中央町
本町地区には主に本町通りセンター街と、武庫川沿いの新地いなり筋商店街が展開しているが、この2つの商店街はかなり趣を異にしている。本町通りセンター街は三田市サイド扱いは一般的に近隣商店街となっているが、旧三田藩の城下町として発展してきた歴史から、三田市内はもちろん、吉川・篠山等の近郊全域を商圏としている商店が多く、外商等でも収益をあげる店舗が多い広域型商店街といった雰囲気がある商店街である。一方の新地いなり筋商店街は地域密着型の近隣商店街と考えてよい状態である。
B シビックゾーン
三田駅からはかなりの距離があるシビックゾーンには、現在のところ、兵庫県三田総合庁舎や三田警察署、三田消防署、三田郵便局などの公的施設が集中している状態である。このシビックゾーンが中心市街地に含まれている点については、地元からもかなり疑問の声があがっているが、その点については、後述する。
C中心市街地内の交通

3. 中心市街地活性化基本計画について

(1) 三田市中心市街地活性化基本計画
中心市街地活性化法による支援プログラムを受ける為には地方自治体は中心市街地活性化基本計画を策定する必要がある。三田市の場合1999年3月に「三田市中心市街地活性化基本計画」を策定している。
(2)三田市中心市街地活性化基本計画の概要(出典:三田市中心市街地活性化基本計画)
三田市中心市街地活性化基本計画は、三田駅前周辺の既成市街地を中心とする約200haの地区を中心市街地と設定している。計画の基本的な方向としては、
・ 多様性に満ちた三田らしい都市の顔づくり
・ 多世代交流の場づくり
・田園文化都市にふさわしい憩いの場づくり
・誰もが安心・快適・便利に暮らせる生活環境づくり
・ 環境にやさしいまちづくり
・ 地域・市民・地元事業者の新しい関係づけによる新しい価値づくり
を挙げている。
計画の特徴としては
・ 武庫川を中軸とした緑のネットワークの形成とプレジャーパークを目指す
・ 再開発事業を核に広域商業ゾーンを展開すると共に、商業観光ゾーンを武庫川南部に展開することによって、人の回遊を創出する。
・ コミュニティ・ビジネスの育成と商店街活性化を一体的に推進するしくみを検討する。
などを計画案は挙げている。
(3) 計画案策定の経過
三田市中心市街地活性化基本計画は、平成10年末から都合4回の策定委員会と、数回の小委員会を経て1999年3月に策定されている。策定にあたっては、23名の策定委員(市民6名・商業者6名・学識経験者5名・兵庫県及び住宅都市整備公団3名・三田市役所3名)による策定委員会が組織されている。
しかしながら、この策定委員会が中心市街地活性化基本計画の内容をより有意義にしたかという点ではかなり疑問が残る。数名の策定委員7にインタビューを行った結果、1回2時間程度の策定委員会が4回開かれた程度であり、当初は市民や商業者へのアンケート等も行う予定がなかったという話があり、三田市当局のこの計画に対する意識の低さを浮き彫りにしている。また、策定委員の一部からは提示された資料はほとんど「三田市新総合計画」からの抜粋となっており、新たな対策等はほとんど話し合われなかったとの意見も出ていた。このあたりの三田市の姿勢は、中心市街地活性化に対する意識に疑問を抱かせ、補助金獲得が目当てではないか、との疑問の声が出てしまう元凶となっている事は間違いない。
(4)計画案の問題点
@シビックゾーン
中心市街地の範囲にシビックゾーンを含んでいる点は、この計画が本当に中心市街地の事を考えて策定されたものなのかどうか疑問に思われる最大の点である。
シビックゾーンは、三田駅前からはかなりの距離があり、徒歩での移動はかなり困難であると言わざるを得ない。しかも、バスの便も決して良いとは言い難い状態の現状では、この地域に公共施設が集中している事による三田市民、特に交通弱者である高齢者や障害者、それに若年齢層などにとってはデメリットばかりが目立つ存在である。しかも、従来駅前地区や本町地区などにあった施設が「規模拡大」や「車による利便性の確保(駐車場の確保)」の名のもとに次々とシビックゾーンへ移転したことも中心市街地(特に商業地)の衰退に繋がった理由の一つと考えるられる。このような施設等を更に整備する事は、中心市街地活性化には繋がらないばかりか、逆に中心市街地を衰退に追い込んでしまうのではないだろうか。その意味では、三田市中心市街地活性化基本計画は根本部分に問題を抱えていると言わざるを得ない。シビックゾーン自体が、公共施設の集中的配置という政策をとりながら、一方で駐車場を各施設が個別に用意しているなど、有機的な結合が一切なされておらず、単純な車移動のみを前提とした設計でもあり、市民の事を考えて整備しているとはとても言いがたい。
A道路整備計画が多すぎる
この基本計画で最も目立っている事業計画といえば道路整備計画であると言っても過言ではない。本来、中心市街地は歩ける街であるべきであると私は考えているが、その逆に道路を新規に整備する事ばかりを考えている状態では、中心部は決して活性化しないのではないだろうか。道路を整備する事によって自動車による来街者が増える、という論理が聞かれるが、自動車による来街者に倍する数の通過交通等の新たな交通需要を呼び起こすと考えれば、環境面からも或いは安全面からも道路の新設はこれ以上は不要なのではないだろうか。それよりもむしろ今ある道路を整備し、安全にしていく方がはるかに格安なコストで済み、またそこに活性化へ向けての仕掛けを容易に設定できるのではないだろうか。
BTMO構想の為の人材は確保できるのか?
多くの中心市街地活性化基本計画に掲載されている構想に「TMO(Town Management Organization)」がある。三田市もこの構想を基本計画に掲載しているが、何をどのようにするつもりなのかがいまひとつ不明確であり、また、TMOを運営するための専門的な人材をどのようにして確保するのか、といった議論を全くせずに、「とりあえず」商工会に委任しようとしている姿には、 TMOをどのように活用していくか、といったビジョンなしに、単純にマニュアルに書いてある事柄を記載しただけ、といった感はぬぐえない。
計画案策定後の1999年9月に、三田市商工会がTMO準備検討委員会を発足させているが、市街地の整備改善と商業活性化について考える、といった認識しか持たれていない様であり8、果たして効果的な組織が設立できるのかという点に関しては大きな疑問が残る。

4. 中心市街地活性化の動きについて

現在、三田市に於いては三田駅前再開発計画が進行中であり、これが中心市街地における活性化の動きの中ではかなり大きなウェートを占めていると言っても過言ではない。また、その他にシビックゾーン計画も中心市街地に大きな影響を与えるという意味では、大きなウェートを占めていると言える。ここでは、それぞれのプロジェクトの動きについて経過と現状を分析してみたい。
(1) 三田駅前再開発の動き
三田駅前の再開発計画は1975年の駅前地区市街地の再開発基本計画作成委員会発足をもって事実上スタートしたことになる。しかしながら、それ以後の動きは極めて遅く、基本構想がまとまるのは8年後の1983年まで待たなければならなかった。同年、三田駅前地区Aブロック再開発推進協議会が発足し本格的な再開発の動きが始まったが、Aブロックの都市計画決定がなされたのが1990年と非常に遅く、この間Aブロックの核店舗誘致の交渉が行われてきたが、大丸百貨店等の候補からいずれも断られる状況となり、最終的に出店交渉の相手は阪急百貨店(本社大阪市北区)に絞られ、出店交渉が正式に開始されたのは1993年秋になってからのことであった。三田市と阪急百貨店の間で出店の覚書きが交換されるに至ったのは1995年11月であり、ここに核店舗問題は一応の決着を見たかにみえた。しかしながら、その後三田市を取り巻く商業環境の激変を理由に阪急百貨店は1999年12月にフルライン百貨店形態での出店を断念すると発表しており、Aブロックの再開発は再び暗礁に乗り上げることとなった。この間に、Aブロック地区の事業計画決定告示(1996年)、「シティオさんだ」オープン(1998年7月)Aブロック立体駐車場着工(1999年、完成予定は2000年春)といくつかの動きがAブロックに関しても見られた。また、1996年7月には三田駅前再開発事業Dブロック地区再開発準備組合が設立され、1997年9月には兵庫県都市計画審議会においてDブロックの事業計画も承認され、1999年2月にDブロック地区再開発準備組合は三田駅前再開発事業Dブロック地区再開発組合へと発展している。
 
1970年12月 県公報において市街化区域及び市街化調整区域都市計画決定
1975年8月 駅前地区市街地の再開発基本計画作成委員会が発足 
1976年6月 三田駅前地区再開発基本計画の調査報告書が発表される 
1979年5月 三田駅周辺地区まちづくり研究会が発足 
1980年5月 三田駅及び同周辺整備計画協議会が発足 
1981年7月 市総合計画基本構想を発表 
1982年4月 県三田総合庁舎の完成式。三田保健所施設の落成により完成 
1982年6月 市総合計画審議会が基本計画案を答申 
1982年11月 三田駅前市営二輪車整理場(駐輪場)の完成式 
1983年5月 三田駅前地区市街地再開発事業の基本構想がまとまる 
1983年8月 三田駅前地区Aブロック再開発推進協議会が発足 
1983年  三輪石名線着手
1986年11月 福知山線宝塚−新三田間の複線化
1987年3月 国鉄三田駅の橋上駅化完成記念式典 
1988年4月 三田駅前一市役所前間の停車場線が開通 
1989年5月 市営三田駅前自転車駐車場を開設 
1990年5月 市新総合計画基本構想がまとまる 
1990年7月 三田駅前再開発事業(Aブロック)が都市計画決定 
1992年6月 都市計画道路三輪石名線の武庫川左岸部分が開通 
1993年秋 三田市と阪急百貨店が出店交渉を開始
1995年11月 阪急百貨店と三田市が出店合意の覚え書きを交換
1996年4月 市消防本部新庁舎が業務を開始(3日竣工式) 
1996年4月 市総合福祉保健センターの竣工式。
1996年5月 市商工会館・三田経済交流センターの竣工式 
1996年5月 三田駅前再開発事業Aブロック地区の事業計画決定を告示 
1996年7月 三田駅前再開発事業Dブロック地区再開発準備組合設立
1997年9月 三田駅前再開発事業Dブロック地区が県都市計画審議会において事業計画承認
1997年11月 三田駅前再開発にともなう駅前広場工事に着手 
1998年7月 三田市が阪急百貨店出店に関して「大店法3条申請」提出
1999年2月 三田駅前再開発事業Dブロック地区再開発組合設立
1999年9月 パスカル三田オープン
1999年12月 阪急百貨店「三田への百貨店形態での出店を断念」(新聞報道)

三田市中心市街地活性化の動き(※4)

(2) 駅前地区以外の活性化に関する動き
@ 本町地区・中央町地区
本町地区や中央町地区の商店街では、活性化策として空き店舗対策事業や1999年に配布された地域振興券とセットにしたプレミア付き商品券の販売などを行ってきている。しかしながら、これらのソフト面での対策はさほど大きな成果を上げているとは言い難い。又、ハード面では、本町西山線の拡幅などが1970年代から常に議論の対象となってきたが、何らの進捗も見られない状況であり、本町地区や中央町地区に対して何らかの活性化政策を行政が行ってきたといった形跡はほとんど見受けられない。
A シビックゾーン
シビックゾーンを中心市街地に含める事についての是非については前述の通りであるが、現在シビックゾーン内には道路計画を含めて様々な公共施設の建設が始まっている。特に1996年以降、三田市消防本部・総合福祉保健センター・商工会館・三田経済交流センターと立て続けに建設されている。一方でソフト面に関しては、この地区は業務地域という特性から居住者も商業者もほとんどなく、全くといって良いほど何らの施策も施されていない。
5.三田市民の中心市街地に対する認識
三田市は、中心市街地活性化基本計画に関して市民にあまり説明をしたように筆者は感じられなかった。そこで、1999年12月上旬から中旬にかけて、三田市民及び三田市中心市街地地区の商業者に対して意識調査9を行った。以下はその時の結果を基にした三田市民の中心市街地に対する意識に関する分析がある。
@ 三田市中心部に関する認識
三田市の中心部はどこなのかという点に関して、三田市当局は駅前を中心としたいわゆる中心市街地活性化基本計画で定めた地域であるとの立場に立っている。しかしながら、三田市民がどのように考えているのかという部分に関しては全く別の状態を示すのではないかとの予想を基に、「三田市の中心部はどこか?」という質問を複数回答可能とした上で行った。結果としては、三田駅前及と本町地区の中心市街地活性化基本計画に定められた地域が半数を占めたが、フラワータウン・ウッディタウン等のニュータウン地区を挙げた市民も40%近くになり、ニュータウン地区のみを中心部と認識していた人も25%近くにのぼった。この結果からは、三田市の中心部がいわゆる中心市街地からニュータウン地区にシフトを始めているという分析が可能である。
また、「よく利用する商業施設は?」との問に対しては、フラワータウンセンター・エルムプラザというニュータウンの大型商業施設が過半数を占め、宝塚駅前や梅田などの市域外地区の利用が三田駅前地区・本町地区の合計を上回るなど、中心市街地における商業地位の低下が明確に現れていると言える。この結果で特に注目すべき点としては、宝塚駅前・川西駅前・神戸・梅田などの市域外商業施設の利用者が非常に多い事である。三田市民の3分の1以上が市域外の商業施設を「よく利用する」と回答しているということは、それだけ市内の商業施設に魅力が乏しいという考え方ができる。
さらに、三田市の中心市街地が衰退した理由としては、「駐車場の未整備」「自動車のアクセスが不便」「公共交通機関のアクセスが不便」などの、アクセス問題が原因と考える人がかなり多かった。また、大型店やロードサイドのS・Cとの競争に敗れたから、と考える人も多くおり、この問題の複雑さを示している。
A 中心市街地活性化に対する認識
まず始めに、「中心市街地の活性化は必要か」という問いを行った。この問いに対する三田市民の回答は「必要だと思う」50%、「必要ではない」20%、「どちらともいえない」30%という結果になった。この結果から考えると、中心市街地の活性化を必要と感じていない市民が20%、回答保留も含めると半数が中心市街地活性化に対して必要性を認めていないと判断することもできる。このような現状の中で大金を投じて中心市街地活性化を推し進める為には、やはり「必要でない」「どちらともいえない」という回答の市民の大半が納得する理論付けが必要なのではないだろうか。
次の市民の中心市街地活性化法に対する認識を問うたが、「名前を聞いたことがある」という回答と「知らない」という回答がほぼ同数でそれぞれが45%を越えており、「よく知っている」という回答は数名にとどまった。一方商業者に関しては、「知らない」という回答は皆無であったものの、「よく知っている」という回答は約20%と筆者の予想ほどには高くなかった。この事から、中心市街地活性化法という法律自体は国と地方自治体にとっては重要かつ大きな意味を持っているものであったとしても、それが市民や商業者に明確には伝わっていないという事がわかる。一方で、三田市民にとって身近な問題である「三田市中心市街地活性化基本計画」に対しては「計画書を読んだことがある」「内容を聞いたことがある」が約35%あったが、同時に「全く知らない」という回答も40%以上あり、「存在は知っているが内容は知らない」という回答も含めると60%以上が「基本計画」を知らないという事でもあった。この数字に対する評価は、立場によって非常に異なるものになることが予想される。筆者のように、中心市街地活性化には市民の合意形成が必要であると考える立場からすれば、三田市における市民の中心市街地活性化法及び中心市街地活性化政策に対する認識は低いと言わざるを得ない。しかしながら、商業者と行政を中心に中心市街地活性化を進めるべきであると考えるなら、前述の数字はむしろ多いぐらいであり、市民の中心市街地活性化政策に対する関心は高いと言うことも可能かもしれない。
さらにアンケートにおいては、三田市の活性化政策はどのようなものか、という問も用意した。これに対する回答は「駅前再開発についてしか興味がないのではないか」という回答が最大値を占め、それに「シビックゾーンや道路整備などのハコモノ整備ばかり考えているように見える」という回答が続いていた。このように、三田市の中心市街地活性化対策を冷ややかに眺めていると判断することができる。あるいは、三田市の中心市街地活性化政策に対する批判が強いと言うこともできるのではないだろうか。

〔2〕川西市
1.川西市の現況
川西市は大阪府と接する兵庫県南部にある人口約15万5千人の郊外型都市であり、大阪都市圏のベッドタウンとして1970年代から急速に発展を続けてきた。市域は南北に長く、阪急電鉄・能勢電鉄川西能勢口駅周辺を中心とした南部既成市街地と、能勢電鉄平野駅等を中心とした中部地域、能勢電鉄山下駅を中心とした北部地域という3つの地域に分けることができる。また、川西市における人口増加のタイプを北條蓮英は駅周辺のスプロールと市の北部でみられた民間ディベロッパーによる大型開発の2つに分類できる。さらに、川西市都市計画マスタープラン(1997年作成)によると、商業系の土地利用は中心商業地としての川西能勢口駅周辺と近隣商業地としての能勢電鉄山下駅及び多田駅周辺、さらには沿道サービス地として多田東谷線・呉服橋本通り及び川西猪名川線の一部並びに川西伊丹線が想定されている。
2.川西市中心市街地の範囲と概要
川西市は1999年12月末現在のところ、中心市街地活性化基本計画を策定しておらず、市として公式に中心市街地の範囲を明示してはいない。しかしながら、川西市における中心市街地は川西能勢口駅周辺であると考えること11はそれほど難しくなく、本稿でもその前提に基づいて論を展開していきたいと考えている。
3.川西能勢口駅前再開発
@再開発の過程
川西能勢口駅前再開発は1973年度に駅周辺約38haを対象にした整備基本構想によってスタートし、現在も継続中である。A〜Gの7地区に分けられた事業計画のうち、3地区が未だ事業化されていないが、他は事業完了又は事業中である。また再開発計画と平行して阪急電鉄・能勢電鉄の川西能勢口駅付近の連続立体交差事業による高架化が行われ、また、国鉄(当時)福知山線川西池田駅の移設も計画され、1982年に東へ駅が300メートル移動する事となった。
B 再開発の特徴
川西能勢口駅前再開発の最大の特徴は、百貨店などの商業機能のみでなく、市立図書館や「みつなかホール」・多目的ホール・カルチャーセンターなどを集中的に立地させたことであろう。通常の再開発においては、核店舗としての百貨店や大型スーパーの誘致と業務系ビル、それにホテルと駐車場に居住用のマンションといったメニューが決まっていて、再開発組合や行政がその中から選択しているだけなのではないかという疑問が生じるほど同じ様な姿になるが、川西においては、通常の再開発の姿に平行して様々な公共的施設の集中配置を行っており、これによって街の利便性及び活気が一気に上昇した事は間違いない。
川西市駅前再開発関連年表
1970年 川西能勢口駅前再開発A地区住宅改良事業開始
1971年  花屋敷1丁目住宅地区改良事業の事業認可
1973年  「駅周辺都市整備計画基本構想」策定
1974年  B地区市街地再開発準備組合
1975年  C地区再開発基本計画作成
1976年  栄町A-1地区住宅地区改良事業の事業認可
1978年7月  B地区を第1工区と第2工区に分割。
1979年12月  C地区再開発に関して都市計画決定
1980年3月  「阪急・能勢電川西能勢口連続立体交差事業」計画決定
1980年5月  B地区市街地再開発組合設立
1981年8月  C地区事業計画決定
1982年  小花新町地区再開発準備組合設立
1982年7月  C地区核店舗に阪急百貨店が内定
1984年5月  C地区住宅部分完成
1985年4月  B地区「パルティ川西」オープン
1985年6月  B地区第1工区完成
1985年9月  B地区第2工区再開発協議会設立
1986年12月  B地区第2工区再開発の都市計画決定
1986年12月  G地区計画決定
1987年7月  B地区第2工区再開発組合設立
1988年8月  小花新町地区再開発組合設立
1989年4月  C地区商業棟完成、「アステ川西(含む阪急百貨店)」オープン
1990年12月  阪急電鉄下り線高架切り替え
1992年1月  「パルティK2」着工
1992年12月  阪急電鉄上り線高架切り替え
1993年1月  G-1工区市街地再開発組合設立
1993年3月  「シャンテ川西」着工
1994年1月  「川西能勢口駅東地区第1工区市街地再開発組合」設立
1996年2月  小花新町地区再開発事業完成、「シャンテ川西」完成
1996年3月  能勢電鉄高架切り替え
1996年4月  B地区第2工区完成、「パルティK2」完成
1996年6月  「みつなかホール」開館
1998年9月  「中央北地区住宅街区整備準備組合」設立
1998年12月  「中央北地区住宅街区整備事業計画」都市計画決定
1999年  「中央北地区住宅街区整備事業組合」設立
1999年  川西能勢口駅東地区第1種市街地再開発事業完了、「ジョイン川西」が誕生
「広報かわにし」等を基に小川が作成
4.川西市の中心市街地に対する意識と取り組み
川西市は中心市街地活性化法に基づく中心市街地活性化基本計画を1999年12月現在作成していない。その理由としては、補助金獲得の為の活性化基本計画では中心市街地活性化法の主旨・精神に背くものであり、誰の為の中心市街地活性化であるのかについて十分に議論を深めた上で策定するかしないかを決めたい、というものであった。また、市域が南北に長く川西能勢口周辺の中心市街地以外にも地域核が数カ所あり、中心市街地活性化法が使いづらいという問題も、川西市が中心市街地活性化基本計画を未だ策定していない理由であるが、これは基本計画の策定を否定するものではなく、有効な中心市街地活性化政策を模索しているといった方が正解の様である。
中心市街地活性化基本計画の策定へ向けて、川西市では現在政策室・再開発課・商工課・都市計画課等のメンバーによる横断プロジェクトチームを作り、計画案の方針について詰めを行っているという。
川西市がこのように、中心市街地活性化対策に対して政策的に余裕を持っている理由としては、再開発計画がある程度進行しており、中核施設等の整備が終わっている事、それ故に川西能勢口駅前周辺は他都市と比べてもかなり活気があり、現在早急な対策を必要としていないことなどが考えられる。

〔3〕三田市及び川西市の中心市街地活性化政策に関する分析と評価
中心市街地の形成過程はともかくとして、三田市と川西市は人口急増という同じ経験をしており、また、1970年代後半に駅前再開発構想が持ち上がって以降、中心市街地における再開発が行われてきたという意味においても類似している都市と考えることができる。しかしながら、今日の三田市と川西市の中心市街地が置かれている状況はあまりにも対局に位置していると言わざるを得ない。では、この違いはどこから生まれたものなのであろうか。また、駅前再開発を含めて中心市街地活性化の必要性が強い三田市は、川西市の政策から何を学ぶべきなのかをこの章では考えてみたい。
@ 計画範囲
三田市の中心市街地活性化基本計画における中心市街地区域は約200haであるが、三田駅前再開発計画は約5haと範囲的にそれほど大きくない。一方で川西市の川西能勢口駅前再開発は約35ha以上を再開発しており、文字通り中心市街地の大部分を更新するものであった。
A 施設配置
三田市における中心市街地の施設配置はシビックゾーンを除けば、市役所と再開発地区の百貨店及びホテル計画がある程度であり、その他の公共施設や集客性の強い施設はシビックゾーンやニュータウン地区に散在してしまっている。これに対して川西市では再開発地区周辺に百貨店・大型商業施設3ヶ所・大型スーパー2店・図書館・カルチャーセンター・音楽ホール等の集客性が強い施設が集中は位置されており、川西能勢口駅から徒歩圏内に市役所も配置されている。
川西市の施設集中配置は様々なメリットを産み出しているが、何よりも「人が自然と集ってくる」という意味に於いて最大の効果を発揮していると判断できるのではないだろうか。この点に関しては、三田市は駅前再開発地区には百貨店及びホテル程度しか計画がなく、公共施設が郊外へ大量移転してしまったため、集客という観点においては大きな問題を抱えていると言わざるをえない。さらには、三田市駅前再開発計画において核店舗の決定がズレ込んでおり、出店予定の阪急百貨店が、最近になって出店に尻込みする理由として、三田駅前地区以外の地区において大規模商業施設の建設が計画されていることが考えられるが、三田駅前に図書館や公共ホール等が集中配置されて、街のにぎわいがある程度予測できれば、阪急側としても決断を鈍らせる理由は少なかったのではなだろうか。
少なくとも、川西駅前と三田駅前で百貨店を出店する時のメリットを比較すれば、明らかに川西の方が有利である。それは後背人口等の問題だけでなく、川西駅前が阪急百貨店を中心としながらも、回遊性の高い空間を構成しており、決して百貨店に頼った構造になっていないのに対して、三田駅前の再開発計画は明らかに百貨店に頼り切った空間構成を行っており、他の目的で三田駅前を訪れて、ついでに百貨店を訪れる客があまり考えられない構図であり、三田駅前は都市型百貨店を建設する所としては致命的な問題が存在していると言えるかもしれない。


(C)Copyright Tomohiro Ogawa 2000
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