2. 血液型性格判断はなぜ問題なの?

 「血液型性格判断なんてただの遊びなんじゃないの?」 ―― 違います。


(1)なにが問題か?

 血液型性格判断では、A型の人は几帳面、B型の人はマイペース、O型の人はおおらか、AB型の人は二重人格、などという記述がなされています。つまり、その人の血液型がわかると、いとも簡単に性格を予想することができる、というのが売りのようです。そのような特徴は、私たちが住む世界の不確実性(=相手の状態や意図が完全には分からない、という点において)を低減させてくれるという期待を抱かせます。血液型に頼ることで、面倒なやりとりをせずとも、相手のことが分かるのなら、私たちは、相手のことを知らないために起こる争いや気まずい出来事を避けることができるかもしれません。
 ところで、血液型は、滅多なことがなければ変わりません。つまり、血液型性格判断によれば、その人のだいたいの性格は、遺伝的に規定されることになります。もちろん、性格ないし気質の一部は遺伝するかもしれません。しかし、みなさんもご存じのように性格は遺伝だけではなく、むしろ環境が大きな要因となって形作られていくものです。血液型という遺伝要素だけで性格が決まるのであれば、世界中の心理学者は失業し、道徳教育も用なしです(性格や気質という言葉をここでは簡単に使っていますが、性格と環境の関係については性格心理学における長い議論の歴史があり、本当のところこんな簡単に割り切れる問題ではありません)。

 確かに血液型の相違が生理的な影響から、性格に何らかの影響を及ぼしている可能性は最終的には否定できません。しかし、現在そのような影響は証明できておりませんし、血液型と性格の関連を認める立場の人たちは、「A型はこうでB型はこう」と血液型だけで性格を判断しようとする傾向があります。

 血液型性格判断が問題なのは、それが科学的に妥当でない(=実際は血液型と性格には関係がない)ということよりも、むしろ、それが差別的な構造を持っていることです。日本人の血液型分布は、おおよそ

A:O:B:AB=4:3:2:1

 となっています。血液型性格判断には、認知的な側面だけではなく、感情的な側面があるということが明らかにされています。つまり、「AB型の人間とはウマが合わない」とか、「私、結婚するならA型の人がいいなぁ」というような、価値判断を含んでいる、ということです。ここで注目すべきは、多数派であるA型やO型の性格が社会的に望ましいものとされている反面、少数派であるAB型は、悪い性格特性と結びつけられることが多い、ということです。これは、「誤った関連づけ」(illusory correlation)と呼ばれる現象です。つまり、次のような状況を考えてみます。

  人数 犯罪者
Aグループ 100人 20人
Bグループ 20人 4人

 この例では、AグループもBグループも同じく1/5が犯罪者です。しかし、私たちはBグループのほうに犯罪者が多いと考えてしまいがちです。少数派の望ましくない行動は目立つ傾向があります。

 実際、自分がAB型であるということを恋人に隠している女性もいるそうです。また、恋愛や結婚に血液型を持ち込んで、特定の血液型の人とは相性が合わないと、はじめから色眼鏡で人を判断する人もいるようです。なんてもったいないことをしているのでしょう。もし、あなたの血液型とA型の相性が悪いとしたら、あなたは世の中の異性の4割と相性が合わないことになるのです。もったいない。

 血液型性格判断で一番問題なのは、このように少数派を差別したり、相性とか性格を、きちんとつき合いもせずにわかったつもりになってしまうことです。新規採用や特定のプロジェクトに参加する社員の選定に血液型を導入している企業もあるというのだから、あきれます。また、園児に血液型別に着色された帽子をかぶせ、血液型性格判断を教育に「生かしている」幼稚園があるそうです。恐ろしいことです。そのような教育は、子どもの可能性を著しく狭めるものであるにも関わらず、テレビではそれなりに好意的に紹介されています。


(2)マスコミの影響

 血液型性格判断を普及させるのに大きな役割を担っているのが、新聞やテレビなどのマスコミ媒体です。特に、

1997年6月15日放送 発掘! あるある大事典「検証・血液型性格のウソ・ホント」

 という番組を見られた方もおられると思いますが、これはひどい番組でした。番組の内容については、岡山大学の 長谷川先生のページ の「血液型性格判断資料集」をごらんになってください。私はテレビ局に抗議のメールを送ったのですが、返事は来ませんでした。ウソだらけの番組を放送しておきながら、勝手なものです。なお、「あるある大事典」はその後もインチキ番組の放送をやめていません。それにも関わらず(それだからこそ?)、それなりの視聴率を維持しているらしく、人気番組ということになっています。


(3)理解のない研究者はいるか?

 一部に、社会的な現象をまじめに心理学の問題として取り上げることに対して、否定的な研究者がいるようです。血液型と性格の問題は「科学的ではない」として取り上げたがらない風潮があるようです。この問題については、最近は改善されていると思われますが、私自身調査していきたいと思います。
 一部に、血液型の「当てっこ」を楽しんでいる研究者もいるようで、ある心理学系大学院のホームページの院生の紹介に血液型が掲載されているところから考えても、相当問題の根は深いな、と思わざるを得ません。
 私は、血液型性格判断がここまで普及し、俗説として定着した大きな原因の一つとして、学者の怠慢があるように感じています。血液型性格判断は、十分研究する価値のある社会現象です。もちろん、一時期の血液型性格判断ブームに少し遅れて血液型性格判断研究ブームがあったことは否定できないでしょう。社会心理学は、たいへん流行に敏感です。研究が単なる流行から、あるいは社会的流行の要請から行われたのであれば、そろそろ血液型性格判断に関する性格・社会心理学の研究はその使命を果たしたと言えるかもしれません。しかし、私は現在まで行われてきた血液型性格判断に関する研究は不完全であると感じています。血液型性格判断は、台湾などでも盛んに行われているようで、インターナショナルな研究を行うことで何か見えてくることがあるかもしれません。例えば、日本人の血液型分布と台湾人の血液型分布の差異(血液型の分布は人種ごと、都道府県ごとに異なります)と、流行している血液型性格判断のタイプとの関係を見るのは興味深いと思います。このような方面から、日常知としての血液型性格判断の非科学性を捉えることができるかもしれないからです。日本ではA型の性格特性とされていることが台湾ではO型になっていたり、などということはあり得そうなことです。


(4)心理学者以外の方の反応

 血液型性格判断を心理学の問題として扱うばあい、統計処理や実験によることが多いのですが、このことに関しての反論があります。まず、心理学のテストないし調査では、血液型による性格の差異を測ることができない、というものです。心理学の尺度を用いた研究では、血液型と性格には「どうやら意味のある関係はないらしい」という結果になっていることに対しての反論のようです。
 つまり、「きちんとした」尺度を作成し、それで血液型と性格の関係を測定すれば、違いが分かる、とするものです。

 もちろん、心理学の尺度は完全なものではないし、そもそも完全であるべくして存在しているのでもありません。質問紙などによる自己報告型の尺度は、行動の一般法則を究明する上での1つの方法でしかありません。そういう意味で言えば、「心理学のテストないし調査では、血液型による性格の差異を測ることができない」というのももっともだと思われます。しかし、「心理学のテストないし調査で」「測ることができない」ほどの小さな違いを測ることは、なにか役に立つものなのでしょうか?

 有名人の血液型をあげて分類し、血液型と性格の違いを立証しようとする試みは、ナンセンスです。まず、有名人だけのデータでは母集団に比べてデータが少なすぎるので、統計的な検定に耐えることができません。さらに、統計的に有意になったとしても、抽出されたデータに、母集団を代表しているという保証はありません。偏ったデータを用いていれば、当然、χ2乗検定などによって、「違い」が出てくるでしょう。一般的に「血液型と性格」に関係があるということを証明しようとすれば、やはり無作為抽出による偏りのないデータを用いなければなりません。

 「ない」ことを証明するのは論理的に不可能です。血液型と性格に関係が「ない」ことを証明することも、やはり不可能です。しかし、現在、「血液型と性格には関係がある」ということも証明されてはいませんし、多くの「研究」は否定されている現状から考えても、鼻息荒く「血液型と性格には関係がある!」と主張することはやめたほうが賢明だと私は考えます。


(5)差別は心理学の専門外?

 心理学的な立場から「血液型性格判断」への反論をする場合に「差別」の問題を持ち出すことは、心理学の専門外ではないかという反論を聞きました。「血液型」で差別があるのなら、身長とか容姿とか、そういった目に見える形での差別のほうが大きな問題ではないか、という論理です。
 確かに世の中には、目に見える形での生得的な特徴(身長とか体重とか容姿とか)による差別がたくさんあります。顔が大きいと悩んだり、太っていることで「デブ」といじめられたり、障害を持つことで煙たがられたり。そういう問題は、身体的な特徴による(その中のいくつかは生得的な特徴による)差別が存在することの証拠の一部です。

 心理学者はこれまで、そのような問題に対して様々なアプローチで研究してきました。帰属のバイアス(歪み・偏り)の問題としての「光背効果(halo effect)」研究からは、容貌の美しい人はいい人のように思われやすいという結果が出ています。バーンらは、男女関係において30分のデートならば、パートナーの容姿が美しいほど、またカップルの類似性が強いほど、相手の対人魅力を高く評価する傾向にあるということを見いだしました。
 性差別の問題については、以前は「女性は説得されやすい」とか「女性は同調しやすい」などという研究がなされていましたが、最近ではそういう結果は、研究方法が男性向けの偏ったものであることに起因するものだ、ということになっており、「性差」の多くは生得的なものではなく、社会的に獲得された「ジェンダー」だというのが一般的になりつつあります。
 私がここで言いたいのは、「差別」は決して心理学の専門外ではなく、むしろ重要な概念である、ということです。

 また、この議論には「差別とは何か」というたいへん難しい問題が横たわっていることも考える必要があるでしょう。血液型のばあいを考えると、次のことは言えそうです。

  1. 血液型性格判断」は、先天的で基本的に変えるとことができない血液型で人間を分類しようとする。
  2. 血液型による性格判断を不快に感じたり、明確に不愉快に思っている人が存在する。
  3. ビジネスや恋愛に用いられることで、一部の血液型の人に不利益が生ずるおそれがある(あるいは既に「生じている」)。
  4. 性格形成における遺伝の影響を過大視するあまり、その人の努力とか生育環境が軽視されるおそれがある。
  5. 1〜4の弊害に比べ、血液型で人間を分類することの利益が不明確。


(6)データと説明

 血液型と性格に何らかの因果関係があると主張するとき、最も手っ取り早いのは、データを持ち出すことです。例えば、ある質問項目に対する回答が、血液型によって歪んでいることを統計学的に妥当な危険率で示すことです。
 もちろん、ここにはデータの取り方の問題とか、質問項目の選出の問題がありますが、ここで触れるのはそういうことではありません。つまり、血液型別に歪んでいると統計学的に示されたデータで、果たして「血液型によって性格が異なる」という因果関係を証明することが妥当か、という問題です。
 例えば、ある質問項目(いくつかの項目のセットでもいい)で、分析の結果、A型とO型との間に有意な差が生じたとします。その項目には、A型の人のうち、50%が肯定的な回答をしているにもかかわらず、O型の人は30%しか肯定的な回答をしていませんでした。
 しかし、厳密な血液型鑑定の結果、A型であると質問紙に記入していた人のうち、実際にはAB型だったり、B型だったり、O型だったりした人が少なからずいることが明らかになります。その結果を考慮して血液型別に分析しなおすと、今度は有意差が得られませんでした。
 これは、私の考えた1つの例に過ぎませんが、データの解釈には常にこの種の危険が付きまとってきます。ここの例では、「A型である」という認知が質問項目への回答の歪みを生じさせたと説明するのが妥当だと思われます。

 データを生かすも殺すも理論次第です。理論などいらない、データさえ得られれば関係が証明できる、という考えは、重大な誤りを犯す危険があります。つまり、血液型によって異なるとする傾向が、実際に遺伝学的な血液型によるものなのか、自分が「その血液型である」という認知によるものなのか、ということを説明できなければなりません。A型の人は年々「A型らしく」なってきているというデータがありますが、これも認知の重要性を示す証拠の1つだと思います。血液型と性格の間に何らかの関係があると考えている人たちは、このような疑問に答えてはいません。しかし、絶対に考えなくてはならない問題であると思います。


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