犬にかんすること

非科学的、かつ全く役に立ちません。

中村しんのすけ氏 近影

中村しんのすけ氏 近影


04/11/1998 アンケート結果公表

サンプリングのいいかげんな107人アンケート

よく読んでいる 9人 (8.4%)
たまに読んでいる 10人 (9.3%)
初めて読んだ。また読みたい 59人 (55.1%)
初めて読んだ。もうあまり読まないだろう 25人 (23.4%)
「犬」はあまり読んでいない 4人 (3.7%)


注意:最新のはなしが上。


23.きみはペット 07/08/2003

 4年ぶりにこのコーナーに戻ってきた。この間、毎日(場合によっては数日まとめて)なまじゅ日記を更新してきたが、最近はなまず飼育と無関係なことを書く日も多く、ちょっとマンネリ気味。4年の間に2度引っ越しをし、就職が決まり、外地 (北海道では本州のことを「内地」と呼称する。もちろん、自分たちが住んでいる土地は「外地」なのだ) 出身者にはつらい気候の広島市に在住しているが、相変わらず犬は飼っていない。ペットが禁止の賃貸マンションなので飼いたくても飼えないし、一人暮らしだと犬を飼うのは何かと不安だ。生き物を飼うのは簡単なことではない。なまずを2匹飼っているだけでも十分大変で、北海道から広島まで輸送するのは大仕事だった。毎週の水換えも慣れれば苦にはならないが、長期の旅行がためらわれるなど、制約も多い。こんなちっぽけな魚2匹で、僕の生活はずいぶん束縛されるのだ。もちろん、なまずたちにはその身の安全と引き替えにそれ以上の束縛を強いているわけで、こういうことを考えるのは人間様のエゴというものだろう。生き物をペットにするというのは、自分の趣味のためにその生き物の自由を奪うということなのだ。別に正当化する必要もないと思う。

 さて、ついこの前まで、TBSで「きみはペット」というドラマを放送していたのをご存じの読者も多いだろう。小雪演じる巌谷スミレというOLが、嵐の松本潤演じる合田武志(ペットとしては「モモ」)という若手舞踏家をペットにしてしまうという、やや設定に無理のあるドラマだ。スミレにとってモモは単なるペットなので、恋人は他にいるし、性的な関係も(少なくともドラマ終盤までは)ない。ある人は「これじゃあ生殺しだ」と言っていたが、全くその通りかもしれない。女性に飼われているオスの犬が生殺し状態にならないのは、種が違うから(直截的な表現をするなら「交配できないから」)であって、人間同士がペットになったり飼い主になって、しかもそれが異性関係だったりすると複雑な感情をどこにもっていったらよいか分からなくなったりしないか。実際、自分が男だとして、自分より立場が上の女性に甘えている時の感情というのはどういう感情なのだろう。ペット的な甘え方もあるし、異性として意識している甘え方もあるし、母子とか姉弟関係みたいな甘え方もある。きっちりと恋愛感情と区別できる場合もあるし、ごちゃまぜになって本人もどういう種類の甘えなのか分からないことも多いだろう。いずれにしても、おそらく純粋なペット−飼い主関係ではあり得ない種類の感情を抱く可能性は高い。

 我が家のなまずが実は高度な感情を持っているとしても、僕に対して複雑な感情を抱くことはあるまい。あくまで、僕はエサを持ってきてくれる存在であり、しなくてもいい掃除をする存在であり、たまに相手にしてやらないとうるさい存在であるだけで、異性であろうとなかろうとそんなことはどうだっていい。

 人間どうしがペットになったり飼い主になったりするのは、こういうふうに何かと難しい。しかし、人間としてなら相手に見せるのをやや遠慮してしまう甘えん坊な姿もペットとしてなら堂々とできる一方で常に「生殺し」の状態に置かれるという、心理的に不均衡で綱渡りみたいな状況を楽しんでみたいと妄想してしまう。そういう妄想をする時には、飼い主にも相応の資質を要求しているあたりが煩悩だろうか。いやらしいなんて思わないでほしい、これはペットの話なのだ。

22.なまずと命がけの犬 08/03/1999

 ゅさんになまず関係のページを紹介していただいた(なまず研究所や、南米産吸い付きナマズ大全を見てみよう)。北海道と言ってもやっぱり夏は暑いので、涼しげな水槽で何かおさかなを飼いたいと思っている。金魚はずっと実家で飼っていたが、それ以外におさかなを飼ったことがないので、これからあちこちwebを検索して調査してみよう。

 さて、犬の話。犬を見ていると、本当にどうしてやつらはこんなに全力で生きているのだろうかと不思議に思う。ちゃんとしつけられた犬でないかぎり、何かあるとすぐ走るし、えさをねだる時なんかはよだれだらだら垂らして、本当に命がけでエサ乞いをする。一見、エネルギーの無駄遣いをしているんじゃないかと余計な心配もしたくなる。
 こういうところ、にんげんの子どもによく似ているなと思う。子どもはよく走るしよく転ぶしよく泣く。何でも命がけなのだ。
 きっとクールな犬なんかも素敵なのだが(例えば足が長くて黒くて、お金持ちのおばちゃんがしゃなりしゃなり高級住宅街を散歩してご近所に自慢するみたいな)、どうしても犬のかわいらしさは、命がけのところにあるのではないかと思っている。そこのところ、金魚もエサをもらうときなど命がけで水槽の縁に寄ってきてぴちゃんぴちゃん言うものだから、かわいいと思う(でも、命がけのにんげんはちょっと怖い)。

 なまずはどうなんだろう。きっともうちょっとクール? いや、ぼへっとしてブスかわいいのがいいのだ。にんげんのブスは正直言って好きではないのだが(ブス撲滅委員会:「ブス」は容姿だけを意味するのではない)、動物のブスにはちょっとした風情がある。

21.犬とじゃれる 05/01/1999

 ほぼ4ヶ月ぶりの更新。今日は、研究室のボスのおうちで、パーティがあった。ボスのおうちでのパーティで僕がたのしみにしていることの一つは、おとなりの雑種犬とじゃれることだ。
 名前も知らないが、この犬、僕によくなつく。僕もつい調子に乗って、地べたにはいつくばって彼とじゃれあったりするものだから、洋服が毛だらけになってしまったりする。特に今は毛替わり時期なので、白い毛がよく抜けるのだ。

 今日はそれ以外に、パーティのお客さんの一人がでかい犬を三匹も連れてきたものだから、存分に遊ぶことができた。この三匹の犬、ピレネー、シェパード、ハスキー(たぶんそう)で、みんなものすごくでかい。特に、ピレネー。こいつはまだ2歳というだけあって、身体はでかいが、よく動く。性格は温厚だが、やはり子どもなのか、離してやるとそこらへんを駆け回って近所の犬を追いかけたりして、大騒ぎ。首輪を付けていないので、捕まえるのがたいへん。犬は首輪を捕まえて無理矢理連れていくことができるものだが、首輪がないとほんとうに操るのがたいへんだ。

 それにしても、なんで犬をなつかせるのは簡単なのに、女子をなつかせるのは難しいんでしょうね? ふぇろもんが違うのかな。

20.わがままとは 01/11/1999

 にんげんにも、犬にも、わがままなやつというのはいる。19回目のお話ではないけれど、猫型の人と言えば、なんとなくわがままっぽい感じがしたりする。犬っぽいと言えば、なんとなく従順で温厚な感じがするので、一見わがままではないと思ってしまうが、ちょっと待て。
 従順で温厚、しかも甘えん坊なにんげんほど、やっかいなわがままはいない。猫っぽいわがままならば、きっと、彼(彼女)は、自分で何でもできて、独立していて、その上で自己主張が強かったりするものだが、犬っぽいわがままの場合は、そうはいかない。犬っぽくわがままなやつというのは、自分で何にもできないから、恋人とか親とか、そこらへんの自分より強そうな人に甘える。甘えがうまくいかないと、不機嫌になる。相手にしてもらえないくらいなら、邪悪なことをして気を惹き、いぢめてもらおうとさえする。
 実際問題、相手にしてもらえないよりはいぢめてくれたほうが嬉しいのなら、わがままの素質は十分にある。

19.犬型とか、猫型とか 01/01/1999

 にんげんを性格で何種類かに分類する試みは、大昔から飽くことなく続けられてきた。ガレノスの4気質説とか、クレッチマーの類型学とか、ありがちな心理学史の入門書にはよく紹介されてる。ABO式の血液型でにんげんを分類するのも、日本ではよく行われる。にんげんは、とかく分類しがちだ。
 あなた犬型ね、とか君は猫みたいだ、とかよく言うのも、そんなのと同じ。A型とかO型とか言われれば、ああ、こんな人間かなんて思ってしまうように、犬型とか猫型とか言われると、やっぱり、結構具体的なイメージが浮かんできたりする。
 とすれば、われわれは、犬とか猫とか、ペットになる動物を擬人化して見ているのかもしれない。

 それにしても、なんでわれわれは分類したがるんでしょう? 血液型性格判断で一ばん不思議なのは、結局そこかもしれないと思った。というわけで今年もよろしく。

18.犬は文脈を読まない読めない読もうとしない 08/25

 忠犬ハチ公の話は有名過ぎるほどだが、あの忠犬は実のところ、いったい何を待っていたのだろう? と疑問に思った。そんなの、ご主人を待っていたに決まっている、駅前で帰らぬ主人を待っていたに決まっている、という答えが予想される。もちろん、僕が問うたのはそんな表面的なことではない。
 話を分かりやすくするために、例えば、人間がハチ公みたいに、帰らぬご主人を駅前で毎日待っているような状況を考えてみよう。人間は言葉が分かるから、ご主人が亡くなったことは当然知っている。そして、ご主人が死んでいることを知っていながら、忠誠心旺盛なその人間はご主人を待つ。これが例えば、ご主人が男で、待っているのが女なら、まるで演歌の世界そのものなのだが、それはそれで涙を誘う状況だ。ああ、かわいそうに。もう戻らないと知っていて、それでもああして待っているなんて、あの人をよっぽど好きだったんだねえ、あのこは。なんてことになって、メロドラマに飽きた主婦たちの、結構上等な肴となって話を盛り上げてくれる。
 でも、ここには犬の場合と決定的に、本質的に異なる、ただ一つの事実がある。犬は主人の死を「知らない」という点だ。主人の死を雰囲気からなんとなく知っていたという説明は、単に犬を擬人化しているだけで、事実ではない。犬は、なんだか知らないけど会えなくなってしまったことを「知っている」だけで、主人の死を「知っている」わけではない。つまり、犬は間違いなく、主人に会うことを望み、彼の中では生きている主人を待ち望み、そして、彼が知っているのは主人と今日も会えない、ということだけなのだ。
 ハチ公の話の悲哀はここにある。そう、あの話は結局、悲劇をただひとり知らないことの悲哀を描いたものなのである。

 うちの犬、賢いんですよ、言葉がわかるの。なんて自慢はよそう。犬は言葉を知らないから、無知だから、愛しいのだ。人間だと単に文脈を読めないやつ、で片付けられてしまうが。

17.続・慣れている 04/20

 自分が単なる通りがかりの犬だってことに気づいたにんげんはどうするか。これはすごく難しい話だと思うけど、だいたいいじけてしまって拗ねちゃうのが関の山。しつこいやつはすとーかーまがいのことをして相手をこそこそつけ回したりするかもしれないし、女々しいひとは部屋に帰ってこっそり泣いたりする。情けないけど、そういうところもにんげんの美しさかと思う。それでも強がるひとは、イソップの「すっぱい葡萄」の話ではないけれど、「あんな女はきっと性悪で、僕は単なる通りがかりの犬でよかったよ」なんて情けないことを言いふらして歩く(そのくせ、彼女が誰かと手をつないで歩いていたりすると、きっと密かに嫉妬する)。
 彼が本当の犬だったらどうだろう。彼はきっと「通りがかりの犬」で満足する。なぜなら、犬にとっては相手にしてもらうこと自体たのしい行為であり、目的がそこで完結してしまっているからだ。そこから考えると、にんげんは「相手にしてもらう」だけでは悲しい存在なのか。それは性的な関係を持つとか持たないとか、恋人であるとかないとか、そういう話ではなくて、「相手にしてもらう」ことで関係が完結してしまうことの悲しさであるのかもしれない。あなたは、そんな関係ならはじめから知らない方がよかったわい、と思ったことがあるかもしれない。たまにご飯を食べに行って、自分がおごって、じゃあまたね、って関係。それでもいいのだ、って思っているひとは、ほかで確立した交際をしているひとか、「通りがかりの犬」状態に気づかない鈍いひとなだけだと思う。
 でも、きっとあなたは幸せだと思う。相手にもしてもらえないよりはましでしょ。

16.犬いない 04/12

 札幌に移住して、2週間ほど経った。しばらく、犬を見ていない。いや、本当の話。というのも、私の今住んでいるところは、住宅街ではなく、住宅といえばマンションやアパートばかりなので、犬を飼っている人がほとんどいないためだ。
 函館の実家は住宅街のど真ん中にあったので、犬と遊ぶのに苦労はしなかったが、札幌ではちと犬を見るのがたいへんそうだ。暇があればあちこち散歩しようと思う。
 犬がいないからページの更新ができないってのでは困る。

15.ちょっと心配 03/19

 近所の雑種犬がいなくなった。コロっていう名前で、なぜかアパートで飼われていた犬だ。この犬はいつも放されていて、そこらへんの道路をうろうろしていたのだが、最近見かけなくなった。
 主人を失った犬小屋はもう壊れかけて雨風にさらされている。別にかわいがっていたわけではなく、天真爛漫に自由を謳歌していたコロを見かけないのは、ちょっと心配で、寂しくなる。
 早く戻ってきなさい、コロちゃん。

 最近、引っ越しなどで落ち着かないので、ページの更新が滞っていますが、気長に待ってて下さい。

最近読んだ・読んでいる本

<絵本>
 安野光雅 旅の絵本(〜IV) 福音館書店
 安野光雅 壺の中 童話屋
 レイモンド・ブリッグズ ゆきだるま 評論社
<ノンフィクション>
 柳田邦男 「死の医学」への序章 新潮文庫
<コンピュータ>
 宮下尚 便利に使おう Mule for Windows 活用入門 カットシステム

14.犬小屋さがし 03/05

 この前、4月から住む自分の犬小屋を探しに札幌に行った(4月から北大に進学が決定)。
 それで、不動産屋を探して、自分の条件に合う犬小屋を探したのだが、これがなかなかむずかしい。1件目に行った不動産屋では、受験生は、合格が決まる前に親といっしょに来て、決めてしまう、なんて話を聞かされる。全く、合格してから探せよな。

 私はごちゃごちゃと持ち物が多いので、なるべく広い小屋、と思っていたが、広いと遠い、近いと狭い、ってなもんで、都合のいい物件というのはなかなかない。2軒目の不動産屋も、この条件は厳しいすぎる、とおっしゃる。
 不動産屋同士の競争は意外なほど激しく、ある会社が「入居者募集」と張った張り紙を他の会社のものが自社の張り紙に張り替えてしまう。だから、「○×地建」の張り紙が、次の日には「○口ア×ム」になってたりする。どこも扱っている物件はほとんど同じだから、こういう修羅場になるみたいだ。

 結局、当初の予算より月額にして1万円程度高いマンションに決定(契約はこれから)。

13.声が出ない 02/21

 近所に声が出せない犬がいると聞いた。私はその犬をまだ見ていない。吠えているという様子は分かるのだが(ぜいぜい言うらしい)、声が出ないとのこと。これはそこの家族に聞き取りしたわけではないので、憶測になるが、声帯に何らかの手術を施して、吠えることができなくしてしまったらしい。
 うるさくて近所迷惑だからだろうか。にんげんさまというのは、ひどいことをするものだ。舌切り雀じゃあるまいに。
 自分たちのしつけが悪いのを犬の声帯のせいにして、自分勝手なものだ。残酷極まりない。自分だって「うるさいから」と手術のせいで声が出せなくなったらどんなに悲しいか、ちょっと考えれば分かること。こういう人たちに飼われた犬っていうのは本当にかわいそうだと思う。

 ちょっと怒っている。

12.犬の寿命 02/19

 飼い犬は健康であれば、15年くらい生きられるらしい。でも、ドイツ犬スピッツはその半分くらいしか生きることができないということだ( お嬢さま を参照)。どちらにしても、犬がにんげんさまよりずっと早く死ぬってことには違いない(お年寄りだと競争になるが)。
 犬を飼う時には、そういう意味で、当然死を看取る覚悟ができていなければならない。犬を飼うことが子どもを育てるのに役立つとするならば、それはまさに「死」の瞬間において完成する。
 1週間に1回レンタルペットを借りたり、買ってきた犬を育てきれずに途中であげちゃったりしたら、犬を飼う意味なんてにんげんさまのわがまま以外には考えられない。出会いから交流、死に至るまで犬の人生を共に生きることによってしか、私たちが彼らを理解することはできないと思う。

 犬は結果的に、にんげんさまの支配下にあることでその種を守ってきた。犬はにんげんさまに非常に依存的で、だから何の手続きもなく捨てられてしまったらのら犬になるしかない。犬を捨てた家族の親は、子どもにどうやって説明しているんだろう。あまりにかわいそうすぎる。
 犬を捨てるのを恋人を捨てるのといっしょにしてはだめ。新しい恋人をつくるのはそんなに難しいことではないけれど(いや、確かに難しいんだけどね)、犬が自力で新しい飼い主を捜すのは本当にたいへんだ。情けない顔をして雨の中物欲しそうににんげんさまを見上げたって、同情を惹きはしても飼ってもらうのは難しい。「好みの子を紹介してやるよ」なんて言ってくれる人はいないし、のら犬とにんげんさまの出会うコンパなんて絶対にない。

 だから犬を捨ててはいけない。責任が持てないのなら最初から飼ってはいけない。「子どもの教育に」なんて考えるのだったら、なおさら最終的な死から目を背けてはならない。

 あ、たまには恋人も散歩させないとだめです。

最近読んだ・読んでいる本

<絵本>
 安野光雅 天動説の絵本 ――てんがうごいていたころのはなし―― 福音館書店

11.しんのすけ失踪の顛末 02/16

 このページの先頭を飾っているしんのすけ氏が失踪した。2月10日のことだ。「さかりりでは?」という意見もあったし、「いぢめられていたら……」と帰還を危ぶむ声も挙がっていたが、彼は近所の家に保護されてあっさり見つかった。なんでも、綱を切って逃げて行ったそうだ。犬を飼っている人、首輪には連絡先の住所・電話番号を忘れずに。

特に、意味はないが……最近読んだ・読んでいる本

<絵本>
 ガース・ウイリアムズ ぶん,え/まつおかきょうこ やく しろいうさぎとくろいうさぎ 福音館書店
<小説>
 加賀乙彦 永遠の都(1-7) 新潮文庫
<コンピュータ>
 ローラ・リメイ+アーマン・ダニッシュ(著) 武舎広幸+久野禎子+久野靖(訳) HTML入門第2版 WWWページの作成と公開 プレンティスホール

10.慣れている 02/08

 通りがかりの家に飼われている犬でも、何回も顔を合わせたり、撫でてやったり、ちょっと遊んでやったりすると、こちらが通っただけで尻尾を振るようになる。慣れることで警戒を解き、遊んでもらえるという期待が、彼(彼女)に尻尾を振らせる。もっとも、こちらがその犬の前を通るというのは、何か用事があってのついででしかなく、犬と遊んでいる暇などないというのが、にんげん様の言い分。少なくとも、その犬と遊ぶためだけに、その家に行くなんてことはしないし、そんなことしたら、その家の人から変な目で見られちゃう。
 最近は車で動くことが多いから、こういう慣れた犬というのも身近にはいない。でも、うちは住宅街の本当にどまんなかにあるが、近所にのら犬が棲み付いていて、もう2年くらいになる(と思う)。この犬、白の雑種なので、勝手に「シロ」と名付けているが、近所の黒い飼い犬(「クロ」と、これも私が勝手に命名)の犬小屋を、雨とか雪になると占拠してしまう、図々しい犬だ。しばらく見ないと思っても、またふらっと帰ってくる。ちょっとうらやましいな、と思ったりする。

 それで、「慣れている」ということだが、にんげん同士もお互いに慣れるためにはそれなりの時間が必要になる。例えば、よし夫君が大好きなよし絵ちゃんに言い寄ろうとする。これは、人生の一大事だ。と、同時に実に楽しい瞬間でも、ある。その前に、よし夫君は、よし絵ちゃんに男がいないことや、時々ノートを貸してくれたりして親切にしてくれることや、前に自分のお気に入りのレコードを貸してあげたこと(ついでに彼女はターンテーブルを持っていなくて、テープにダビングしてあげたこと)なんかをいろいろ考えるかもしれない。
 そういう前提があって、よし夫君は、よし絵ちゃんに好きだと言う。よし夫君はよし絵ちゃんに慣れているつもりだからね。残念ながら、よし夫君は、自分がさっき出てきた「通りがかりの家の犬」だってことは気づいていない。

9.犬は女々しいの? 01/25

 さて、しばらく更新をさぼっていた。卒論でそれどころではなかった、という言い訳も可、だが、実は こずえっとお嬢さま のところで遊んでいてページ更新が鈍っていたのだ。このコーナーは、 ゆうじさん の「更新」ページでも取り上げられるという名誉を得たので(しかも、「定期的に更新されている」と紹介された)、更新しないわけにはいかなくなった。しかも、こずえっとお嬢さま からは、リンクのコーナーで、あまり犬に厳しくするんじゃないわよ、という厳しいご指導を受けているし、吉本さんからは、メイルで動物を差別しちゃいかんと叱られたので、やっぱりがんばって書かなきゃいけないみたい。

 やっと本題に入る。表題の「女々しい」、これ、性差別なことばですね。田嶋先生に叱られちゃいます。でも、これ以外にいいことばがないので、やっぱり使うのだ。

 犬というのは、本当ににんげんさまに身近だけど、いい加減馬鹿にされている。「負け犬」「羊頭狗肉」「犬畜生」「犬に論語」、英語でも「負け犬」のことを"underdog"とか言うらしい。「羊頭狗肉」は中国のことばだし、本当に世界的に犬は女々しくて頭が悪いみたいに思われている。けんかに負けた犬より情けない失恋男や、論語なんかほとんど読んだことのないにんげんさまなんてのはごまんといるのに。
 そこで、考えた。「負け犬」は、実は犬じゃない。「女々しい」ということばじたい、男性用のことばだが、「犬みたい」と馬鹿にするのも、犬に対してではなく、あるにんげんさまに対するものだ。犬はそんなたとえに使われてかわいそう。いやいや、「女々しい」男性を表すために使われる女性もいい迷惑。「女々しい」男性より情けない女性なんて実はいないんじゃないの。

 というわけで、「女々しい」のは男であり、「負け犬」なのはにんげんさまであるということが明らかになった。ちょっと脱線するが、「女々しい」男というのは、次の条件を満たす必要がある

1)「いい人」と言われる。そんなのほめことばじゃない、と分かっていない。
2)「かわいい」と言われたことはあるが「格好いい」なんて聞いたことなし。
3)恋人を独占したがるし、嫉妬深い。これ最悪。
4)小便を便器に座って行う。
5)よく怒るけど全然怖くない。文句も多い。少しは黙れ。
6)お金の勘定が細かい。基本的にデートも割り勘である。おごれよ、少しは。
7) 半ズボンがよく似合う。
8) 眉毛の手入れに余念がない。

 どうでもいいような項目もあるが、こんな感じかな。

8.犬はどうしてかわいがる 01/04

 さて、みなさんは犬をどうやってかわいがるのだろうか? 頭を撫でたり、骨をおみやげに買ってあげたり、散歩に連れていったり、まぁ、かわいがり方と言っても、男が女にするのと同じくらい、たくさんの方法がある。

 にんげんが外界を知るには、視・聴・味・触・嗅の5感が頼りになるが、それは犬も同じ。でも、犬は眼がにんげんほどよくないらしいから、嗅覚がたいへん発達しておる、というのは私が言うほどのことでもないくらい、有名だ。でも、にんげんが犬をかわいがるのに何かの匂いを使うというのは聞いたことがない。やっぱり犬とのコミュニケーションには、「なめる」というのが一ばん大事だと思われる。もちろん、「なめる」のは犬であって、にんげんが犬を「なめる」というのはあまりない。よく見知った犬なら、こちらが手を出しても、本気でかみつくようなことは、よほどのことがない限り、ありえない。犬はそれなりに賢いから、こちらが「痛い」と感じる強さをセンシティブに察して、決してそれ以上の強さでかみつくことはない。犬を怒らした場合はその限りでないのは当たり前だが。

 犬が腹を見せるのはにんげんへの信頼を顕わしているというのであれば、にんげんが犬に手を差し出す、首を差し出す、などの行為は犬への信頼を表現する儀式であると思われるのだ。そう、男が女に自宅の合い鍵を渡すみたいなこと。もっとも、こちらは犬に手を差し出すよりよほど危険だ。ま、悪いことをしない限りは全く問題ない。弱いところを相手に見せるのは、相手の信頼を得るためにどうしても経なければならない路だと私は思う。

 とにかく、犬にはなめらせるに限る。手でも顔でも汚いなんて言わないでどんどんなめらせよう。ただし、かみつかれても私はなんの保証もしない。犬が本気でかみついてきたときには、手を犬の口から抜こうとしてはいけない。牙がよけいに手に食い込むだけ。そういうばあいは、犬に腕を押しつけてしまえばいい。引かれるより、押された方が、犬はかみつけなくなる。にんげんにもそういうところがあるかもしれない。引いてみてだめなら押しの一手だ。

7.中村しんのすけ氏 01/01

 数日前、このページに犬の写真を掲載した。私の友人の飼い犬、中村しんのすけ氏だ。彼は拾われてきた雑種で、これといってなんの特徴もない平凡な犬。いや、私は犬とか猫とか動物に血統証を付けてステータス・シンボルにするのなんて大嫌いだから、平凡な犬、それも結構。
 ところで、彼(間違いなく、雄犬)はすぐに降参のポーズを取る。寝ころんでしまうのだ。こんなに無防備で大丈夫か、と思われるほど、にんげん様に無警戒。

 私は前に飼い犬を亡くして大変悲しい思いをしたから、おそらくしばらく犬を飼うことはない。というわけで、友人宅のしんのすけ氏が格好の遊び相手となる。それにしても、飼い犬を亡くするというのは特別のものだ。これは例えばお祖父さんやお祖母さんや親戚が死んだのとは全く別種の悲しみと思う。犬は絶対的に主人(の一人)である私に信頼を寄せていた。犬の世界はにんげんのものとくらべてずっと狭いから、犬の私への依存度は、にんげん同士のそれとは比べものにならぬほど濃密である。私は犬を亡くした当時、確か14歳くらいだったと思うが、激しく泣いたのを憶えている。犬がまだ5歳であったということもある。犬は長生きすれば15歳くらいまでは生きられるから、彼(=ゴロ氏)が亡くなったのは早すぎた。しかし、しかし、彼が15歳で死んだとしても、おそらく私は深く悲しんだと思うのだ。あの喪失感は大変なショック。そんな悲しみを私はもう味わいたくないから、犬はあれ以来飼う気にならない。

 ちょっと想い出してしまった。

6.誘惑するのはどっちだ?

 あいかわらず、犬のことを書いているのか男女関係のことを書いているのか分からないが、今回は題名どおり、男女関係における「誘惑」と、犬の問題をからめて考えてみる。と言うのも、最近、おもしろい本を読んで、それに感服したからに他ならぬ。

山田登世子 1997 ファッションの技法 講談社現代新書 \640

 犬とは全く関係ないが、たいへんおもしろい本だったので紹介する。この本のコンセプト(かどうかは保証しない)は、「誘惑するのは女」「男性にたいする女性の関係は、承諾と拒絶につきる」(ジンメルからの引用)の2文に集約される。男は、「わたしをあなたの好きなようにしていいわ」「わたしをどうぞ」とは決して言わない。と言っても、私はいまだこんな言い方をする女にも会ったことはないが。与えることができるのは女である、とは本当、見事。こんなことを書くとフェミニストから猛反発をいただくのではないかと内心楽しみなのだが、私は男女のダイナミックな関係を楽しむにはその差異をよく理解する必要があると考えている。「ジェンダー(簡単に書くと、生物学的ではなく、社会的に規定された男女の性役割のこと)をなくそう」とは思わない。男も家事をするべきだし、女の人が結婚後も仕事を持てるようにするのは当然。しかし、世の中から「女らしさ」「男らしさ」が消えたら、それほどつまらないことはない。少なくとも、私はそんな世の中は嫌だ。

 「僕を君の好きなようにしてもいいよ」

 なんてせりふは背筋が寒い。絶対にやめたまえ。あ、たまにはそうした性的倒錯を楽しむのも一興かもしれないけれど。

 そこで、犬の問題に移る。私は、猫と恋人はよく合うと言ったが、犬は服従のイメージがあるから、恋愛関係には不適切だと感じていた。しかし、整理して、

女……誘惑者、猫
男……被誘惑者、犬

 とみてみると、おもしろい。気取ったブランド猫と、泥だらけでよだれ垂らした雑種ののら犬の関係。男女関係の本質をここにみる、のはきっと私ぐらいだろうな。
 一時期、恋人のショルダー・バックを持つ、ファッションの何たるかを全く理解しないおバカな男が結構いた。まさに、この時の男は情けない負け犬の様相を呈してくる。持たせるのは勝手だし、また、持つのも勝手だが、人前ではやめてくれ、と思う。日本人の貧弱なファッションセンスを見せるつけるようだから。

 とにかく、街中には「捨て犬」がたくさんいる。

5.なつく犬となつかない犬の間

 犬にも個性があるから、すぐになつくやつとなかなかなつかないやつがいる。犬はにんげんに服従すると腹を見せて前足を曲げるが、こうさせたらにんげんの勝ちだ。腹をさすってやろう。にんげんと犬は平等ではないから、決して犬を「尊重」してはいけない。あくまでにんげんさまが「偉い」のだから、犬にもそのことをはっきりと認識させてやる。散歩の時だって、決して犬の引っ張る方向について行くべきではない。無理矢理方向転換をさせる。その結果、犬はにんげんさまを主人と認め、「なつく」のだ。

 「同じ目線で」などと甘い考えは捨てた方がいい。犬とにんげんの関係はとてもダイナミックだから、甘いところを見せてはいけない。

 もちろん、男女関係でこの考えを援用してはいけない。

よし絵「私、うどんが食べたいわ」
よし夫「いや、俺はそばじゃないと嫌だ」
よし絵「私、昨日そばだったの」
よし夫「いや、絶対にそばがいい。黙ってついてこい」
よし絵「……」

 こんなカップルもあるのだろうが、長続きしない。にんげんをなつかせようとするのはやめたほうがよさそうだ。よし夫君は、この後おいしくそばを食べただろうか。よし夫君がいくらがんばったところで、よし絵君をなつかせることはできない。ある意味で「支配」はできるかもしれない。けれども、「支配」された恋人ほどつまらないものはないだろう。にんげんは思い通りにならないからおもしろいし、SMじゃないんだから、自分が「ご主人」になったところで、その行く末には熟年離婚が待つばかり。

 ここで、2人はどうすべきか? 正解は、

よし夫「じゃあ、今日は間をとってパスタにしよう」

4.「犬顔」速報(ページ読者の方からの反応)

以前紹介した「犬顔」についてとあるネット上の知り合いからメールをいただいた。
「犬顔っていうのは、「クワッ」とはじけた顔です」とのことだ。おそらく、「クワッ」の具合によって、「柴犬顔」だったり「チワワ顔」だったり「雑種顔」だったりするのだと思う。で、有名人だったら、誰が該当するのだろう? これについてもさらに情報を収集する必要がありそうだ。

 なお、ある人物から、前回の「犬とにんげん」の項で例に出した「よし絵君」というのが、「それはぼくのハニーの名前と一しょだから、困る」との電話をいただいたが、変えるつもりはない。まぁ、「ハニー」とはせいぜい仲よくやりたまえ。君は「よし夫君」ではないのだし。

 このように、当コーナーでは読者とのインタラクティブな関係を大事にしている。

3.犬とにんげん

 「犬」のことを書くコーナーなのに、結局「にんげん」のことばかり書いていたようだ。犬とにんげんはずっと昔から仲がいいから、こんなことになるのだろう。にんげんにとって、犬は愛玩用であり、盲導犬であり、救助犬であり、牧羊犬であり、狩猟犬であり、犬ぞりの犬であり、そしてなによりも友達である、などというクサイ文句を書く気はさらさらないのだが、やはり犬とにんげんは大昔から仲よしだった。ばあいによっては食べられてしまったりするわけだが、つき合いは長い。

 ならば、仲がいいから理解し合っているのか、というとこれが難しい。たとえば、そこらへんにいるよし夫君とよし絵君は仲がいいとする。いつも2人でいるし、1人になってものろけ話で周りからも顰蹙(ひんしゅく)ものである。でも、それなら彼らは結婚するのだろうか、となると話は別だ。何年つきあってもにんげんとにんげんが理解し合うことは難しいから、結局破局を迎えたりする。どうしてだろう、あんなに仲がよかったのに、と思うが、結構必然的だったりする。

 よし夫君が悪いのかよし絵君が悪いのかは知れないが、最終的に2人は理解し合えなくなっていた。これが犬とにんげんの間にも起こりうる。それも、にんげんと極めて似たやりかただ。

 にんげんどうしのばあいには、よし絵君がよし夫君を「振った」(=「捨てた」)のだが、にんげんと犬とでは、前者が後者を「捨てた」(=「振った」)。にんげんどうしのばあいと異なり、逆はあり得ない。

 恋人のばあいも、結構一方的な破局は多いが、これが犬とご主人となると必ず一方的なのだから、犬はたまらない。ここらへんにも、犬が無条件ににんげんになつく理由がありそうだ。

2.「犬っぽさ」の考察

 すでに述べたように、犬のかわいらしさとは、第一に疑うことを知らないことである。そうならば、「犬っぽい」と言われる人たちは、きっと、疑うことを知らない、八方美人な性格だろう。少なくとも、その人が「犬っぽい」と言われるためには、どこか抜けていて、隙がなければならない。

 猫は恋人にたとえられるが、犬にそういうことがないのは、きっと「犬っぽい」人たちは、誰にでもしっぽを振ってしまうので、特定の関係を築くことが難しいためだ。あるいは、彼もしくは彼女があまりに「忠犬」であるために、新しい恋に踏み込めないからかもしれない。「放っておいてもなつく」とは、特定の関係を築けなくしてしまい、「疑うことを知らない」ために、古い恋人の裏切りをいつまでも信じることができずに、ゆえに結果としてハチ公になってしまっている。

 「犬顔」(いぬがお)というものもあるらしい。これは外見的なものだが、具体的にどんな顔かは知らないので、知っている人は、今すぐなかにしまでメールを書かなければならない。

 ところで、「仔猫ちゃん」というのは恋人の別称には違いないが、しかし女の人にしか使えない。女の人が男の人に向かって言うと怖い。

女「彼、私の仔猫ちゃん」

 なんて言ったら、きっとたいへんなことになる(もっとも、男だって小沢健二みたく自分の恋人を「仔猫ちゃん」というのは、清水の舞台くらいな勇気がいるだろう)。また、こういう場面も考えてみよう。

女「彼、犬みたい」

 やはり、「犬」と「恋人」はフィットしないと納得されるに違いない。「犬」→「ペット」→「しもべ」というように一般化されてしまう図式があるからだ。女主人と飼い犬みたいなカップルも確かに存在するのだが、それは別として。

1.犬はかわいい?

 前に小沢健二は自分の恋人のことを「仔猫ちゃん」と言ったが、猫と違って犬が恋人にたとえられることはあまりない。なぜか? 犬は基本的にこっちが放っておいてもなつくからだ、と私は勝手に決めつけている。「かわいい」というのは、どうやらここらへんからきているようである。もちろん、猫も「かわいい」のだが、犬のばあいの「かわいい」とは、意味が違う。

 犬とにんげんの関係は、「主人」が「ポチ」(でなくてもいいのだが)を拾ってきたり、もらってきたり、買ってきたりしたときにはじまる。心因性のショックを受けていなければ、たいてい、犬ははじめから人なつっこい。犬は、本来的ににんげんを疑うことなんか知らない。

 でも、にんげんはどうだろう。「コイツはちゃんと芸を憶えるだろうか?」「コイツは人を咬んだりしないだろうか」「変な病気を持っているんじゃないか?」「いつ逃げ出すか……」などと、飼い始めてから犬を疑いっぱなしである。結局、犬はにんげんより早く死ぬので、最期まで疑われっぱなしだ。

 疑われっぱなしの犬はカワイソウ。カワイソウな犬はそれでも人なつっこい。ここらへんに「かわいい」の原点がありそうだ。「かわいい」というのは、よく考えてみれば、ずいぶんと見下した表現ではある。力がなくて、人なつっこくて、頭もあまりよくない、というような語感がある。たとえば、「かわいい女性」と言ったら、誰も、会社の重役とか学者とかスポーツ選手とか、そういうイメージはわかないと思う。最近は、男性でも「かわいい」などと女性からほめられることがあるようだから、男女同権が進んできたんだなぁ、と実感する。そんなことをこの前、駅前のトンカツ屋で考えた。


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