「なごやん」激動の年譜

最終更新日 14/Apr/1997

幼年期 誕生から小学校卒業まで
少年期 中学校・高校時代
受験期 受験時代・浪人時代
大学期 大学時代
就労期 就職して現在まで  1992年  1993年  1994年  1995年……東京へ  1996年……ロンドンへ

1968年12月30日
 秋田県秋田市に生まれる。ちなみに体重は3,200グラムだったそうな。

1970年
 親の転勤で北海道札幌市真駒内に引っ越す。

1971年10月
 また親の転勤で熊本県菊池市へ引っ越す。

1972年2月
 札幌オリンピック開催。しかしこの時は札幌にいない。

1972年4月
 またまた親の転勤で北海道札幌市南区真駒内へ戻る。

1973年4月
 近所の真駒内明星幼稚園へ入園。幼稚園へ行きたがらないSHYな園児だった そうだ。

1974年1月
 またまたまた親の転勤で福島県福島市へ引っ越す。

1974年4月
 福島市立福島第三幼稚園へ入園。

1975年4月
 幼稚園の隣の福島市立福島第三小学校へ入学。

1981年2月
 はずみで受けた中学入試に合格。親もびっくり。

1981年4月
 福島大学教育学部附属中学校へ入学。

1982年10月
 中日ドラゴンズ優勝。その勇姿に惹かれ、ドラキチとなる。

1984年3月
 高校入試に何とかパス。
  東海ラジオ「とびっきりNiGHT!」 を聞き始める。水曜二部の中川雅恵のファンであった。

1984年4月
 福島県立福島高等学校へ入学。
 はずみで合唱部へ入部。学校内でも屈指の全国レベルの部であった。
 鉄道研究部へ入部。活動内容のわからない不思議な部であった。

1984年10月
 全日本合唱コンクール東北大会(於:青森市)で泊まった旅館が24時間入浴OK だったことで、数名で「朝風呂会」を結成。以降、精力的な活動を重ねること になる。

1984年11月23日
 第37回全日本合唱コンクール全国大会(於:大阪フェスティバルホール)で、 大失敗。16位優良賞に終わる。校長が直前に言った言葉「平常心」が話題の言 葉としてヒット。

1985年7月
 ラジオで聴いた森川美穂のデビュー曲「教室」に何かを感じる。

1985年9月
 福島県立図書館で、名古屋大学経済学部附属経済構造研究資料センター発行 の資料を読む。この時、志望校が名古屋大学経済学部に決まる。

1986年10月
 第39回全日本合唱コンクール東北大会(於:山形市)で、The Lamentations of Jeremiah(預言者エレミアの哀歌)を演奏し、コンクール12年ぶりの100点満点 をだしたものの8位銀賞。高校の合唱人生が終わる。

1987年1月
 共通一次で大失敗。事前出願だったため志望校変更もできず。

1987年2月28日
 二次試験のため名古屋入り。憧れの地に少々緊張。下見に行った名古屋大学 の広さに感激。

1987年3月1日
 A日程二次試験で名古屋大学経済学部を受験。それなりにやってみた。

1987年3月5日
 B日程二次試験で名古屋市立大学経済学部を受験。一次試験の受験票を忘れ 、パニックに落ちるが、後に郵送確認ということで受験できた。

1987年3月10日
 高校卒業式。悲喜こもごもであった。

1987年3月19日
 合格発表を見るため、青春18きっぷで名古屋へ出発。途中東京で「男女7人 夏物語」の舞台となった清洲橋へと行き、隅田川を見ながら感傷に浸る。

1987年3月20日7時
 東海夜行345Mで名古屋に到着。疲れた体を今はなき駅内銭湯「早川温泉」で 癒やす。

1987年3月20日10時
 名古屋市立大学経済学部不合格をこの目で確認。

1987年3月20日12時
 名古屋大学経済学部不合格をこの目で確認。激動の浪人生活に入る。

1987年3月21日
 帰りに立ち寄った清洲橋で、隅田川を見ながら傷を癒やす。

1987年3月22日
 東京か名古屋の河合塾へ!の希望も、親のそんな金は出せないの一言で一蹴され、仙台の学校法人河合塾提携文理予備校へ行くことにする。それも福島から普通列車で。

1987年4月4日
 文理予備校プレテスト。昼食時間に、仙台駅前まで行き、食事後ゲームセン ターに寄ってしまうほど気合いなし。

1987年4月6日
 文理予備校入校式(於:宮城県スポーツセンタ)。バスに乗り間違え、循環して仙台駅まで戻ってしまう。そして入校式に遅刻。しかし同じバスに同じことをしてしまった同志がいた。入校式のゲストは山本コータロー。「僕も浪人しました」の一言が悲しかった。

1987年6月
 「絶対名古屋に行ってやる!」と思い、とりあえず東海銀行仙台支店に預金口座を設ける。

1987年8月
 ドラゴンズ近藤が初登板ノーヒットノーラン!。けど今は引退してしまっている。

1987年9月5日
 予備校のチューターによる保護者同伴の進路指導。「志望校は?」「名古屋大学です」「まあ、がんばって下さい」の会話に、自分は東北大文系選抜クラスにいることを悟る。

1987年9月6日
 県営あずま球場に、ドラゴンズ対スワローズを見に行く。神主打法をまねしたゲーリー・レーシッチと、当時の目玉外人ボブ・ホーマーが印象的だった。しかし私は5対10で負けたこの試合で、2ホーマーを放った川又米利選手(通称米ちゃん)が、忘れられない。ちなみにこの東北三連戦で、ドラの優勝の芽はなくなった。

1987年9月7日
 予備校の後期の授業が始まる。そのとき友人と、「もう少し真剣にやらないと二浪するかも」と考え、遊びに対し相互牽制することで同意した。

1988年1月
 二度目の共通一次、完璧の出来。会場で部活の後輩に「先輩」と呼ばれ、あせる。

1988年2月27日
 金沢大学受験のため金沢入り。試験会場の下見の際に道を間違え、金沢桜丘高校ではなく星陵高校に行ってしまい、「これが小松の母校か」と感慨に耽る。

1988年2月28日
 二次試験A日程金沢大学経済学部の受験。日本史のヤマが大当たり。会心の出来だったので、家に電話をすると、併願私大の不合格を通告され、がっかり。この日、夜の金沢駅で冬季五輪での伊藤みどり選手の活躍を見る。

1988年3月4日
 名古屋大学受験のため名古屋入り。B日程は経済学部だけなので学内も寂しい。下見後バスで栄に出るなど慣れたものである。ちなみにこの日の夜は餃子の王将栄店で炒飯&餃子(ソーハンイーガコーテー)を食べ、王将初体験。

1988年3月5日
 二次試験B日程名古屋大学経済学部の受験。数学が例年より難しいものの、後ろから回収された解答用紙を見たところ、これは何とかなると確信。

1988年3月7日
 合格発表を見に行く旅費を貯めるため、ポスター貼りのバイトを始めるが難航。

1988年3月10日
 ポスター貼りでは無理と悟り、友人から紹介された火災報知器点検のバイトを始める。時給500円。

1988年3月18日
 明日から合格発表ツアー。今日は金沢大学の合格発表日だが、学校からの郵便通知以外に知るすべもなくいらいら。この日初めてスーパーコンビで当たり穴に入るものの、直後もう一球入りパンク。

1988年3月19日
 名古屋へと出発。今年も青春18きっぷ。途中郡山駅で買った福島民報の大学合格者記事で金沢大学の合格を知り安心する。

1988年3月20日7時
 昨年同様早川温泉で疲れを癒やす。

1988年3月20日9時
 高校の同級生Y氏と名古屋駅で落ち合い、名古屋地下鉄完乗ツアーに出発

1988年3月20日12時
 名古屋大学合格発表の時間。しかしなぜかこの時庄内緑地公園にいた。

1988年3月20日13時30分
 名古屋大学豊田講堂前到着。合格をこの目で確認。

1988年3月20日16時
 祝宴をということで、名鉄百貨店地下で総菜を買い出し。

1988年3月20日20時
 東海夜行に乗るために大垣駅へ。そこで高校の後輩に偶然会う。

1988年3月21日
 悠然と自宅へ帰る。

1988年3月23日
 入学手続きのため名古屋へ。午前中に行かなければならなかったため、夜行急行津軽を使う。手続き後、名物地獄の細道では、アメフト部に50分も止められる。結局男声合唱団に入ることにする。

1988年3月30日
 選考により入寮ができなくなったため、アパート探しに再び津軽で名古屋へ出発。最初のアパート桐林荘を、6畳一間、トイレ共同、家賃11,000円という破格さが魅力で決定。

1988年4月4日
 名古屋へ引っ越す。最初はラジカセとCDプレーヤーと段ボール3つと自転車だけしかなかった。

1988年4月5日
 大学でのオリエンテーション。その後買い出し。家でカレーライスを作るも、スプーンがないことに気づく。

1988年5月
 ゴールデンウィークだというのに風邪をひき、薬も買いに行けない苦しさ。一人暮らしのわびしさを知る。

1988年6月
 仕送り日まであと一週間だというのに、千円しかなかった。学校におかかのおむすび持参で行くようになる。この時バイトの必要性を悟る。

1988年7月
 初めてバイトをする。バイト先はサカイ引っ越しセンター。バイト後のどが渇き、ポカリのボトルを飲み干した後、CoCo壱番屋でカレーとともにピッチャーの水を飲み干す。ちなみにこの日の日当7,000円は、帰る途中、昭和区高辻のパチンコ勝利(現在はない)で全てスられる。

1988年8月
 サークル関連のキャンプへ行く。キャンプ自体より、帰ってきた直後に行った名古屋三越屋上のビアガーデンの方がおもしろかった。
 サークルの合宿が野沢温泉であった。途中の恵那山トンネル内でH君と「トンネルだトンネルだ楽しいな!」と歌い続け、顰蹙を買う。

1988年10月
 京都の兄のところへ遊びに行く。これが契機で、京都に何度も行くことになる。

1988年11月
 自転車のシャフトが折れ、重要な生活手段の危機。ダイエーで安い自転車を買い何とかしのぐが生活は苦しくなる。そのため、その活動方針が自分に合っていないと思っていた男声合唱団をやめることにした。

1988年12月
 桐林荘(築32年)に消防署の指導が入り、取り壊しの方針に。

1989年1月
 Xデーついに来る。属していた差別論セミナー内は大混乱。

1989年2月
 南区制80周年記念イベントのバイトのため、レインボーホールまで自転車で行く。内山田弘とクールファイブショーを2回見ることができた。しかし、「東京砂漠」はやはり前川清の声で聞きたいと思った。

1989年3月
 引っ越す。今度は台所が別で、10畳くらいのスペースがある部屋。

1989年4月1日
 消費税導入。この日朝、電話工事でたたき起こされ、その上明細書には消費税の文字が。家を出ずして消費税の洗礼を受けた。

1989年5月
 デザイン博会場の建設のバイトに行く。しかし、これがデザイン博会場に行く最後の機会だった。

1989年8月
 熊本へ転勤した親のところへ行く。博多、小倉、長崎と旅行しまくる。

1989年10月
 前期試験で英語を2つ落とし、最悪の事態に。リカバーを目指し、履修届提出にも熱意がこもる。

1989年11月
 学部ゼミの選考。直感で迷わず計量経済を選ぶ。

1989年12月
 長崎・五島列島へ転勤した親のところへ行く。青春18きっぷで行き、また船が満杯だったため、疲労のため船内でバタン。

1990年2月
 単発バイトでよく行っていた、運送会社から、「定期でこないか」と誘われ、了承する。

1990年3月
 何とか教養部の単位を取得。学部進学の権利を得る。

1990年4月
 成り行きで、ゼミの幹事となる。

1990年9月
 前期試験、指導教官の科目である「統計」の試験を寝倒し、35分遅刻する。 結局受験できず、再履修となる。

1991年3月
 自動車及び自動二輪の免許を取るために、合宿のため米沢へ。宿で毎日麻雀 をしていた。

1991年4月5日
 自動車学校の卒業検定を、二日酔いで受け、合格。うれしかったがが頭が痛 かった。

1991年4月
 新ゼミ生歓迎会を一次会今池鳥鈴、二次会仲田かめやというゴールデンコン ビで行い、迷幹事ぶりを発揮。

1991年7月14日
 就職試験のため仙台へ。まあまあのでき。終了後、青葉城へ行き、その後バレリーナで3回打ち止め。そして東京まで延びた東北新幹線に乗り、途中東京以外ノンストップで名古屋へ。

1991年7月
 仙台から遊びに来た東北大学院生E氏のお陰で、スオミの湯の存在を知る。

1991年7月29日
 ゼミ合宿(於:岐阜県恵那市 恵那荘)の夜の花火大会で、ロケット花火が口を直撃。やけどをする。

1991年8月1日
 就職協定の解禁日。なぜか私は翌日の第2回就職試験のため仙台へ向かう。途中福島の喫茶店「本街館」で、なぜか高校・予備校の同級生B氏に会う。この日初めてカプセルホテルリーブスに泊まり、快適さを実感する。

1991年8月2日
 論文試験。論文は好きなので、ちゃっちゃとやる。

1991年8月3日
 仙台に本社を置く某社の東京支社で面接。計量経済を専攻していることと、 件の花火のやけどが気に入られ(?)、3日後に本社面接をするようになる。

1991年8月5日
 面接のため再び仙台へ。この週は名古屋仙台2往復であった。カプセルホテルリーブスの風呂の窓から七夕の花火を見る。

1991年8月6日
 まず某社の面接が9時から。ただ応接室で、人がとっかえひっかえ変わり、雑談するだけだったが、「新潟県は何地方か」などという話題で盛り上がる。おかげで、午後からの集団討論と面接がやりやすくなった。

1991年8月7日
 朝、某社から内定を出したい旨連絡があった。5日間の快挙だったものの、第一志望の放棄が条件だったため、夕方に断る。

1991年9月
 就職最終面接。自分なりにやるだけのことはした。この時泊まった友人宅で、味噌トーストのうまさを教えてもらう。

1991年10月
 採用内定。交通費12万円をかけただけのことはあった。

1991年11月17日
 バイクを買う。スズキの超不人気車、「SX200」である。満タンで450キロ走 り、びっくり。

1991年12月
 線形推定するにもパソコンが家にないため、ゼミ室に入り浸りとなる。ゼミ 室内ではベントマンのコロッケ弁当や、ゆうげ(粉タイプ)そして松茸のお吸い物 が流行する。

1991年12月31日
 名古屋三越で販売機材搬入のバイト。何で大晦日にと思いながら仕事をした 。

1992年1月1日
 朝食を吉野家の朝定で済ませ学校へ。夕方、来ていた友人とともに麻雀をし にいく。ちなみにその日の夕食も吉野家の牛丼。

1992年1月2日
 徹マン後、吉野家で朝食を食べる。仮眠後スオミの湯へ行き、サウナで箱根 駅伝を見る。その後七洋会(ゼミOB会)の新年会へ顔を出す。その後、ゼミ室へ行 き卒論を進めるも、先輩が多数現れ、いろいろ話すはいいが、せっかくY氏が持ってきた富山名物ますのすしまで食べてしまった。

1992年1月15日21時
 卒論を打ち上げ、あとは印刷をして張り付けるだけとなった。

1992年1月16日0時
 ラジオから流れる「ジェットストリーム」が悲しかった。とうとう卒論の製本生協提出日になってしまった。横ではY氏が最後の追い込みに取りかかって いた。

1992年1月16日3時
 卒論完成。あとは製本だけである。

1992年1月16日4時
 家に帰り、とりあえず風呂に入りにスオミの湯へ行く。こういうとき24時間銭湯の存在は大きい。バイブラバスにつかりながら、疲れをとる。

1992年1月16日14時
 生協に製本を頼むため学校へ。Y氏はとうとう泊まり込んだらしい。

1992年2月
 兄が遊びに来る。初めてテレビ塔に昇る。

1992年3月1日
 ゼミの卒業旅行出発直前に、所属決定の通知が来る。ホッと一息。鳥羽の民宿で麻雀で盛り上がる。

1992年3月2日
 夜、篠島の民宿で、麻雀をするも、結局酒豪のI嬢とワインの飲み比べとなる。

1992年3月4日
 卒業旅行、四国・中国バイク紀行に出発。大阪の牛丼天国という店の名前に笑う。

1992年3月5日
 フェリー到着の朝4時から行動開始。全行程雨。高知で、桂浜へ行く。坂本竜馬を見、ポスターを買って15時にはカプセルホテルにチェックイン。係員は絶句。

1992年3月6日
 松山へ行き、道後温泉で暖をとる。

1992年3月7日
 尾道を堪能。映画「ふたり」のロケ地を巡る。バイクで渡船にも乗り感激。

1992年3月13日
 つくばに転勤で引っ越し中の親が立ち寄る。初めて名古屋城に入る。

1992年3月21日
 友人がお別れと称して泊まりに来たため眠れず。

1992年3月22日
 昼間は最後の奉公で、機材搬入のバイト、夜は別の友人が泊まりに来たため また眠れず。

1992年3月23日
 またまたバイト。全然寝ていない。

1992年3月24日
 0時発で津へ行き、机の搬入のバイト。帰ってやっと眠ることができた。

1992年3月25日
 卒業式。OB会の祝賀会の受付になんと愛知県知事が座っていた。そういえばOBでした。夜は我が家でパーティー。不夜城と化した。

1992年3月26日
 昨日の名残で、結局最後のB君が帰ったのが20時、明日は引っ越しだというのに、何も準備していない。

1992年3月27日
 徹夜した甲斐あって引っ越しに間に合う。何もなくなった部屋を見ながら、なぜか「我は海の子」を口ずさんでいた。その後、ゼミ室に寄った後、太平洋フェリーで仙台へ。

1992年3月28日
 21時間かけて仙台に到着。塩釜駅にバイクを置いて、つくばへ向かう。

1992年3月30日
 一路仙台へ。またリーブスへ泊まる。

1992年3月31日
 新居の職員寮へ。実に汚い。

1992年4月1日
 初出勤。少々緊張。職場に行ったところ私が「英語はべらべらドイツ語は読める」といった噂がたっており当惑する。この日、係長の「どうせ寮に行ったってめしなんてねえだろう」の一言で飲みに行くことになる。

1992年4月6日
 新任職員研修。夜、名古屋出身のF氏と初対面。名古屋での行動パターンが一緒だったと大笑い。

1992年5月
 高校時代の友人と竜飛岬&浅虫温泉0泊3日ツアーに。楽しかったが昼間に買ったホタテを、深夜東北道岩手山SAで焼いたり生で食べたところ、見事にあたり、福島から仙台へバイクで帰ってくる途中、車上でのたうちまわった。

1992年7月
  F氏ラングレーみなくんと県営宮城球場に中日対大洋戦を見に行く。乱打線であったが、9回裏、与田が打たれ延長へ。延長14回サヨナラ負け。夕陽が寂しかった。

1992年9月
 バイクで東京へ行き、走行距離11,111kmを記録。その一週間後塩釜市内で、スプロケのねじが折れ、バイクが走らなくなり、5キロ押してバイク屋へ持っていく。前の週でなくて良かった。

1992年10月
 ファミリーレストラン「Milky Way」のサラダバー・スープバーの存在に気づく。これが、この後の ファミレス乱用 の始まり。

1992年11月
 同期 K君と裏磐梯ツーリング。檜原湖畔で作った豚汁鍋が美味しかった。あまりの寒さに会津若松のジャンボ健康ランドに入る。これが健康ランド狂いの始まり。

1992年12月24日
 クリスマスイブだというのに職場に残るは男4人。寂しさのあまり、裏の雀荘「庵」へ行ってしまう。これがまあじゃんたいかいの始まり。

1993年1月2日
 大学ゼミOB会の新年会で名古屋へ。懐かしい面々と会う。泊まりはウェルビー今池。

1993年1月3日
 第一回 新春ナゴヤウダツアー 開催。

1993年2月
 古川市「ごぼごり」のS先輩の家で麻雀大会。「いなぽん」が競馬友達から借りた車で駆けつける。帰りは猛吹雪になっていたものの、古川を出ると晴れていた。そこで一言「死んでるな、ごぼごりは」。

1993年3月
 引っ越しを決意。物件を探しまくり、北仙台駅より徒歩8分2Kシャワー給湯付き33,000円という破格の物件を見つけ契約。

1993年3月26日
 引っ越し前夜、送別会そして2次会のカラオケをこなしたため、最終の東北本線で帰るはめになる。それから荷造り。

1993年3月27日
 引っ越し当日、K君のファミリアで運ぶこと4回、無事終わる。

1993年4月3日
 T係長との出会い。私の人生を変える人となる。

1993年4月6日
 歓迎会。2時間制限の宴会コースなのに3時間使う。「お祭りブロック」強化の瞬間。2次会はX橋たもとの飲み屋「はぎ」。この年は何十回行ったろう。

1993年4月20日
 東京へ出張。忙しく日程をこなし、仙台へ帰ってきたあと、仙山線ホームへ向かおうとした私に係長「もお帰るの?」。そのまま飲み会、そして2次会は「はぎ」へ。

1993年4月30日
 雪のちらつくこの日、有休を取り、運転免許の住所書き換えへ行った私。そのまま名古屋ツーリングへ出発。とりあえず会津のジャンボ健康ランドへ行き仮眠する。

1993年5月1日
 深夜3時より行動開始。日光、足尾などを抜け、外環道から首都高6号、中央環状と抜け、湾岸線へ。浦安のディズニーランド付近を80km/hで走行中、タイヤがパンク。左車線を走っていたことと、冷静な判断で転倒はまぬがれ、バイクを押して高速外へ。電話帳でバイク屋を探し、修理してもらう。そのまま木更津から川崎に抜け、箱根を越えて沼津まで。結構ハードな一日だった。

1993年5月2日
 沼津から名古屋まで。途中は雨雨雨……。静岡で「春一番」を打つ。

1993年5月3日
 昼過ぎ、栄でK君と落ち合う。とりあえず今池王将で飯を食い、F氏の実家を探す。「パーマのF(仮名)」の看板を頼りにたどり着き、とりあえず家の前で記念撮影。中身の濃い日だった。その後名古屋港から太平洋フェリーに乗り仙台へ。

1993年5月4日
 17時間船上にいる。風呂に何回も入った。仙台到着後、F氏宅へローヤルトップを持って行く。

1993年5月23日
F氏ラングレーみなくんと中日対ヤクルトを見に行く。前回活躍しなかった小島に「小島なげんでええぞ」と声援。応援団には新潟から「ガッツドラゴンズニイガタ」が登場。しかしトランペットなど鳴り物がなかった上、応援方法が違ったため不評を買う。周辺には名古屋関係者が多く、呼継小学校出身の禿げたオヤジがいたので「呼継アルシンド」と命名。そのうち口でトランペットをする阪神ファンのお兄ちゃんが出て来、応援団からの烏龍茶一本の差し入れで最後までやっていた。試合は9回表、見せ場があり「がらの悪い」ドラキチは「ガッツドラゴンズニイガタ」を押しやり好き勝手な応援にはいるが、結局負け。この日「新潟に行こう」という話が持ち上がる。

1993年7月3日
  F氏みなくんと新潟行き決行。ラングレーはテニスがあると行って雨なのに不参加。目的はただ行くだけ。途中私の名古屋時代のビデオからダビングした名古屋CM集のテープがバカウケ。特に「改源コデブロンS」のCMでは事故りそうになるほとうけた。とりあえずマリンピア日本海に行きラングレーに「今新潟にいるんだ。じゃあな」とだけ電話をかけ、潟東村へ。村役場前で記念撮影をして会津のジャンボ健康ランドへ向かう。

1993年7月4日
 早朝、会津から仙台へ帰り、昼から中日対大洋を見に行く。入り口でもらったマルハの「ゼライス」は、本来の目的に使われることもなく、球場内に捨てられた。口ラッパのお兄さんは今回縦笛を持参していたが、ラッパ隊が来ていたので、お役御免。試合は、無法者のドラキチの声援が通じたのか、中日の勝利。燃えドラを熱唱した。

1993年7月8日
 仕事終了後、F氏と名古屋に向けて出発も、仙台駅で切符をすべて紛失する。金をかき集め何とか切符を買い、一路名古屋へ。

1993年7月9日
 名古屋ウダツアー

1993年7月10日
 名古屋2日目、この日はまともな行動だった。夕食後、深夜バス青葉号で仙台へ。

1993年7月11日
 仙台着7時15分。一旦帰宅後、8時30分には職場へ。1泊4日の大紀行だった。

1993年9月5日
 F氏森川美穂コンサートを東京の日比谷野音まで聴きに行く。それもバスで。途中台風が来ているということで、東北道下り線は閉鎖。しかし我々は雨粒を見ることなく東京へ。コンサートは星空の下行われた。非常に感激。終了後御徒町の居酒屋「樽平」で飲み、木場の「東京木場ホテル(カプセル)」へ。充実した一日だった。

1993年9月18日
 前日0時まで仕事をした上、2時30分まで飲んでいたため、ゆっくり寝ていたかったが、隣の堤保育所の運動会のため、朝からうるさくて眠れない。そこへF氏からの電話。昼食を一緒にはんだや苦竹店で食べる。その後苦竹地区を探索。苦竹大劇場跡地や、開店直前のパチンコ369(ミロク)を見つけ、仙台トヨペットへ車検に出していたF氏の車を取りに行く。安く済んだという事で、2人でパチンコへ。とにかく出ない。結局儲かった分くらいすってしまったようだ。

1993年12月3日
 来春の第二回新春ナゴヤウダツアーの帰りのひかりの指定券が取れる。奇跡だった。

1994年1月2日
 大学ゼミOB会の新年会。終了後10人で行ったヒルトンホテルのラウンジで、「テーブルを動かせば全員は入れますよね」と言い、店員に「そういうことはできません」と怒られる。

1994年1月3日
 第二回新春ナゴヤウダツアー 開催。

1994年3月
 仙台から幕張メッセまで日帰り出張。その日は送別会があったため、18時には仙台に戻らなくてはならず、始発で東京へ向かい、日程をこなす。仙台で送別会に出席、何となく体調を崩していることに気付くも、最後までつきあい帰宅。翌日見事に風邪をひき、職場で2時間仕事をするもダウン。病院へ。医者から「こんな状態で働くな!」と叱られる。

1994年4月1日
 職場のシマの送別会で、松島大観荘へ。割引券が効き、結構安く泊まった。しかし飲んだくれ軍団の勢いは深夜になっても止まらず、1時30分になって「ラーメンが食いたい」との声、当然旅館内の店は閉まっているので、松島海岸駅前のセブンイレブンまで買いだしすることに。途中、坂道でこけ、買ったばかりのスラックスを破く。高い「ラ王」だった。

1994年4月
 ついにバイクのクラッチ板がいかれてしまい、廃車にすることにした。次のバイクはKLE250。走りは上々である。

1994年4月28日
 慣らし運転も兼ねたツーリングへ出発。今日は仙台から4号線を南下し、一路小山まで。途中雨にやられる。そこから50号線で高崎方面へ。宿泊できる健康ランドを電話帳で探すも見つからない。「まあ、いざとなれば高崎駅前のサウナがあるさ」と腹をくくり、17号線を南下すると、な、な、なんとそこには「群馬健康ランド"千湯"」の文字が。助かったとばかりすぐに入館。施設はかなり充実していた。そこで映画を見ながら熟睡

1994年4月29日
 今日は17号線を北上し一路新潟まで。目覚ましテレビを見ながら風呂に浸かり、6時40分には出発。途中朝御飯を食べ損ねコンビニで調達。三国峠は、群馬側と新潟側の整備状況が全く違い、「これが田中角栄の力か」と感じる。全て一般道だったものの、新潟には14時には到着。今日の目的地ホンマ健康ランドへと向かう。ここも施設…特にゲームコーナーが充実していた。ここでF氏ラングレー 、と合流。

1994年4月30日
 一番船で一路佐渡へ。私はバイク、2人はレンタカーで佐渡巡り。まずはゴールデン佐渡へ。人形の語る「早く外に出て、酒が飲みてえ!」の一言に大爆笑。次に西三川ゴールドパークで砂金すくいだが、これは水槽に入った砂金をすくうという実にインチキ臭い趣向。こういうことはやはりラングレーが上手い。そのあと小木でたらい船に乗り、昼食をとるも、港の食堂は最悪。「小木に比べれば」という言葉を生む。その後夕方の船で新潟に帰り、途中牛太郎で夕食を取り、またホンマ健康ランドへ行く。

1994年5月1日
 3人で新潟競馬場へ向かう。私は3レースで取り、\10,000程もうかる。帰りは小国峠経由で一路仙台へ。

1994年8月18日
 北海道ツーリングへ出発。今日は仕事終了後仙台港へ向かい、太平洋フェリーに乗船。事前にはんだや多賀城店で夕食を済ませておいた。部屋はやはり大広間。一人分のスペースが非常に狭い。もうすこし人間のことを考えろ太平洋フェリー!!あれじゃタコ部屋じゃないか。

1994年8月19日
 無事苫小牧へ着く。そこから一路占冠村へ向かうものの途中自然の見所はたくさんあるが、民家はない。やはり北海道!!。ライダーたちも挨拶してくれる。やはり北海道!!。そのあと富良野へ行き駅前でラベンダーアイスを食べ、一路札幌へ。途中悲別駅(旧上砂川駅)へ寄る。札幌に着いたのが19時、かなりハードな行程であった。夜はススキノの「ひつじや」というジンギスカン料理屋で夕食を取る。実に美味しいラムであった。この日はカプセルホテルで宿泊。「テレビの写りの悪い部屋なら」ということでなんとは泊まることができた。

1994年8月20日
 真駒内の、自分が昔住んでいた家に向かう。結構遠いことが初めて判った。それから札幌競馬場へ。使った分くらい取り返した。それから永遠と5号線を使い、一路函館へ。7時間はかかった。駅前で夕食を取り、フェリー乗り場へ。「キャンセル待ちです」との一言に冷や汗。「明日じゅうに帰らなきゃいけないんだけど…」外でうろうろともしたが、しかしどうしようもないということで、心を落ち着けるために(どこがじゃ)食堂でカレーを注文。食べ始めようとした瞬間、自分のキャンセル待ち番号が呼ばれ、1分でカレーをたいらげ、すぐに乗船。結構ラッキーだったかも。

1994年8月21日
 深夜青森へ到着。ベイブリッジを渡り、アスパム前で記念撮影。一路4号線を南下。ガソリンを入れたいがガソリンスタンドがない!!予定変更で八戸方面へ向かうもやはりない。途中サークルKの親父に聞いて行ってみたがやはりない。雨も降ってきて少々濡れてきた。その時4時半、ええい、しょうがないということで、新八健康ランドへ避難。とにかく休む。朝9時、出発し、八戸インター近くのスタンドで給油。八戸道へ入り、一路仙台へ。途中トイレ休憩1回、給油1回の計2回の休憩のみで走り続ける。途中築館から渋滞&雨雨雨…。とにかく走り続け、13時に泉インターに到着。通行券もお金も濡れていた。その日は帰ってとにかく眠る。

1994年9月20日
 仙台市青年文化センターへ森川美穂コンサートを見に行く。前から4列目、絶好のポジション。しかし前の方を除いてファンの盛り上がりはいまいち。さすがに綿棒を投げろとは言わないが、もうすこしねえ……。

1994年9月22日
 仙台で大水害。仙台駅も水で埋まる。我が家は高台なので大丈夫

1994年9月23日
 4日前か名古屋からわざわざら来ていたJR貨物氏と落ち合う。しかし件の水害で県内の交通機関は麻痺、JRも新幹線以外全部ストップ。しょうがないのでバスで青葉城へ。茶屋でずんだもちを食べ、市内へ戻る。SS30に上り、そのあとなぜかボーリング。何もすることがなく、H氏は予定を早め帰っていった。何しに来たんでしょうか

1994年12月3日
 来春の第三回新春ナゴヤウダツアーの帰りのひかりの指定券が取れず。結局こだまを使うことにする。

1995年1月2日
 大学ゼミOB会の新年会。終了後ゲームセンターに行き、結局10時半までそこで時間を使うことになる。

1995年1月3日
 第三回新春ナゴヤウダツアー 開催。

1995年1月
 残業でコンピュータの前でああでもないこうでもないとしていると上司がやってきて、「県外転勤良かったよね」との声。「ええ、希望してましたから」「県外と言ってもねえ、日本じゃないんだよ」えぇぇ!ただ驚く。1年東京勤務で、その後2年間のロンドン勤務だそうだ。

1995年1月30日
 出張先の札幌で、一緒に来ていた課長から正式にロンドン行きについて確認があった。もちろんYes。

1995年2月
 阪神大震災の傷跡も多く残る阪神地区への出張。会う人会う人、その時の話が出た。自分も宮城県沖地震の震度5の経験があったので、真剣に聴いていた。

1995年3月7日
 東京に出張した日の夜、以前世話になった先輩に会い、六本木で飲む。はじめて「金魚」に行き、そのおもしろさにはまる。

1995年3月29日
 松戸の寮への引っ越しのため、荷物を出す。しかし、この時期仙台で大きな学会があり、ホテルが取れなかったため、何もないアパートで寝袋生活をする羽目になった。

1995年3月31日
 シマの送別会を秋保温泉で決行!昨年同様パワフルな内容。カラオケでは閉店間際に蛍の光をアカペラで歌う程。

1995年4月1日
 秋保から帰ってきて、土曜だったが職場へ行き、残務を整理。その時来ていた数名にお別れを言い、そこからバイク屋へ行きバイクのオイル交換、そしてF氏と焼肉を食いに行き、彼の部屋に泊めてもらう。しかし結局パチンコNowやDaisukiを見ながらウダウダしてしまう。

1995年4月2日
 いよいよ移動日、バイクに荷物をつけ、仙台宮城インターから東北道で南下。途中横風が強く、80km/hで走ると横に振られることが多く怖かったが、外環道経由で、何とか6時間で松戸に到着。部屋にはいると、荷物で埋まっていた。やはり2Kの部屋から6畳一間に引っ越すのは無理がある。

1995年4月3日
 新勤務先へ行ってみると、そこには大学時代に卒論で苦しみあったY氏がいた。なんという奇遇だろう。彼はソウルへ行くそうだ。

1995年4月21日
 JR貨物氏が東京に出張ということで、東京地区にいる大学の同級生Y氏、I嬢、私と4人で飲むことにした。けどそれは口実、ただ日本酒が飲みたかっただけ。19時に新橋集合、銀座に安い日本酒の美味しい居酒屋を発見。存分に楽しむ。

1995年4月29日
 仙台へ行く。F氏の部屋に泊めてもらう。しかし結局パチンコNowやDaisukiを見ながらウダウダしてしまう。

1995年5月1日
 今日は休暇を取ったので、昔世話になった人に挨拶まわり。夜、前の職場の先輩と「場」ができ、打つことになる。美味しいカツカレーは食べることができたが、けっこう負けた。泊まりは雀荘上のホテル。

1995年5月2日
 始発の新幹線で東京へ。そのまま職場へ向かう。その日は結構ハードだったが、翌日からまた休みなのが助かった。

1995年6月14日
 免許の住所変更のため、休暇を取り、松戸警察署へ。その後、習志野陸運局へ向かい、バイクのナンバーを宮城から習志野に変更する。そのとき、使用者と所有者が違っていることを指摘されたが、陸運局の3軒隣が、バイクを買ったレッドバロングループの店だったため、すぐに店に行き変更をして大丈夫だった。

1995年6月17日
 宮城の銘酒「浦霞禅」と鯨料理を食べに、高田馬場へ。参加者はY氏、I嬢と私という構成。その店は怪しげな集合住宅の中にあり不気味だったが、料理は天下一品。しかし高い。また、日本酒が4合瓶1本より、1合づつ4本取った方が安いという変な店だった。その後カラオケに行きラーメンを食べて終了。帰りの東西線に乗ったとき、私は完全に酒が覚めていたが、同じ電車に乗ったI嬢も同様だったようだ。酒の弱いY氏には十分だったろうが、どうも高い酒は存分に飲むことができない。

1995年7月21日
 JR貨物氏が東京に転勤になったということにかこつけて飲み会を企画。参加者は彼といつものY氏、I嬢、私に後輩のM君が加わった。新橋集合だったため、結局場所は4月21日と同じ。

1995年8月11日
 またまた休暇を取り仙台へ。元上司の所に行ったら、もと先輩がたまたま来て、そのまま夜飲みに行くことになった。夜は盛り上がり、結局ホテルの門限を過ぎ、裏口から入る羽目に。

1995年8月12日
 深夜、F氏ラングレーみなくんと寮のライブラリーで打つ。開始前、面子が足りないため、みなくんの家まで出向き、洗濯中だったので、終わるまで待って会場に移動するという、綱渡りぶり。レートが低めだったため大きな動きはなかった。

1995年8月13日
 徹夜明け、F氏の部屋に4人は入れないので、車で寝る。睡眠時間2時間で白石市のスパッシュランド白石へ。プールで50メートル泳ごうとしたが、35メートル地点で呼吸困難になり断念。やはり徹夜明けはきつい。白石温麺が美味しかった。

1995年8月14日
 今日も休暇なので、女川まで列車で行ってみる。途中石巻からの列車は冷房なし!生ぬるい風を浴びながら海を見る。夜、またまた「卓」を囲むことになる。どうも仙台はまあじゃんづく。

1995年8月15日
 始発の新幹線で東京へ行き、そのまま出勤。これはやはり疲れる。

1995年8月16日
 松戸の寮から虎ノ門の職場まで、バイク通勤を試みる。さすがにお盆期間は道路がすいており、快適。

1995年8月26日
 山中湖ジャズフェスティバルへ。ハービーハンコックの名演奏を聞き感動。そこで終われば良かったのだが、泊まらず家へ。職場集合だったため、東京都心に深夜2時に帰り、そこからバイクで松戸に帰る。眠いからだで走る首都高箱崎付近は結構ハード。

1995年9月12日
 遅い夏休みを取り、バイクで名古屋へ。朝4時に松戸を出発。途中足柄SAで仮眠、牧ノ原SAで給油、浜名湖SAでまた仮眠し、11時前には名古屋へ。料金所で愛車KLEを外車と間違えられる。市内を「流した」後、泊まりは笠寺の湯とぴあ宝へ。ゲームコーナーが充実している。

1995年9月13日
 大学へ行き、恩師に会おうとしたものの、出張中ということで、ゼミの先輩に当たる先生のところへ行く。結構長居をしてしまった。この日の泊まりは、一度柴田のカプセルにトライしようと思ったものの、雰囲気が悪く断念、一度市内に帰り、お気に入りの飯田街道のラーメン屋に行き、味を堪能、結局常宿の「ユアーズ」に行くことに

1995年9月14日
 F氏と今池で落ち合い、ナゴヤウダツアーとなる。

1995年9月15日
 台風接近!!という恐怖を尻目に、16時に名古屋を出発。国道一号線で、途中豊橋のマクドナルド、静岡のケンタッキーフライドチキンで休憩、富士で給油し、箱根峠のファミリーマートで一休み、結局雨に一度もあたらずに日本橋に1時30分着。奇跡だった。

1995年9月16日
 暴風雨

1995年11月3日
 森川美穂コンサート(於:新宿厚生年金会館)へ行く。10年史ということで、デビューからの曲を何曲か披露してくれたのに感激、またアンコールではマイクを持たずに「輝きたい」を熱唱しまたまた感激。やはり彼女は歌が上手い。

1995年12月3日
 第四回新春ナゴヤウダツアー のための、帰りのこだま指定券をゲット。やはりこだまは狙い目。

1995年12月15日
 「日本酒を飲む会」も、今回は趣向を変えてもんじゃ焼き忘年会。仕事の都合で来れないI嬢を思いながらも、ただ騒ぎたい私、Y氏、JR貨物氏、M君の取り合わせで、食べ放題飲み放題のもんじゃ大会。店は月島の民家風の店。実に美味しく盛り上がる。

1995年12月27日
 「やっぱり忘年会をしなくちゃ年が終わった気がしない」というI嬢のリクエストがあったので、急遽第2回忘年会を開催することに。しかしながらみんなの都合がつかず、結局私とI嬢の酒豪コンビでの月島訪問となった。しかしながら飲んだ量はそれほどではなかった。

1996年1月2日
 七洋会新年会。今年もうちの年代がよく集まり、一部で盛り上がる。昨年の反省もあり、今回の二次会は中京村さ来でおとなし目だった。

1996年1月3日
 第四回新春ナゴヤウダツアー

1996年1月28日
 仕事で関空へ陸路で行く。16時集合だったので、難波からバスを使ったが、眺めが最高。時間に余裕があるならこのルートはお勧め。

1996年2月1日
 先の仕事の関係で、イギリス人を連れ、兵庫県温泉町へ。大雪だったが、そのため雪の露天風呂がイギリス人に大好評。雪玉を女湯に投げて遊ぶ。

1996年2月29日
 今日は、「餃子の王将にんにく(2/29)の日!」ということで、ポパイ定食復活期成同盟代表のN氏と、彼の愛車「シルビア」をならし、はるばる横浜から、餃子の王将千住大橋店まで行く。実に無駄な行動が私らしい。

1996年3月14日
 マライア・キャリーのコンサートのため東京ドームへ。彼女の歌は上手いものの、やはりドームでは音が悪い。帰りに扉から出るときの突風にエアドームの構造を感じさせた。

1996年3月26日
 地下鉄南北線延長開業!ということで、ポパイ定食復活期成同盟代表のN氏と、王将駒込店まで、今回開業区間に乗っていく。それにしても駒込駅周辺は寂しい。

1996年3月27日
 引っ越し。物が送られてしまった。しかしながら、荷物の値段を書かされるというところで、「国際引っ越しなんだ」と感じさせられた。

1996年3月28日
 仙台で、入院していたF氏の見舞いのため、仙台市立病院へ。抗体がないため退院できないそうだが、彼はいたって元気、相変わらずである。その夜は、知人とやはりまあじゃん大会。懲りない私である。「餞別は自力で取れ!」と言われ燃える。

1996年3月29日
 昔の上司・同僚に盛大な壮行会を開いてもらった。昔のノリで激しく飲めや歌えの大騒ぎ。実に楽しい一夜だった。

1996年4月1日
 始発で仙台から東京へ。大荷物で新橋から職場までバスに乗ったため大顰蹙。

1996年4月3日
 免許の事前更新のため、海浜幕張の免許センターへ。大荷物を持ちながら歩く姿に、「大変ですね」と係官にまで同情された。

1996年4月5日
 出発前に一度歌いまくろうということで、広尾のSMASH HITSで、朝まで洋楽を歌う。店が閉まった後、渋谷まで歩き、始発を待つ。こういう遊びも当分できないかと思うと、悲しかった。

1996年4月8日
 出発前夜、関空発だったため、名古屋のビジネスホテルに泊まる。東京駅で、「新幹線のチケットを、間違えて関空に送ったスーツケースの中に入れた」ことに気付き、切符を全て買い直す羽目に。まぁ何とか名古屋に到着。やはり住み慣れた街は歩きやすかったが、今日は「矢場とん」が休みであることを忘れており、店の前でボー然。仕方なく他の店で味噌かつを食べる。

1996年4月9日
 のぞみ&はるかで関空到着後、急いで送ってしまっていた切符の払い戻し。そして同僚3人と一緒に、ロンドンに向けて旅立つ。
 ヒースローでは中州のドン氏が待っていてくれた。タクシーでホテルへと向かう。20時の街がまだ薄明るかったのが印象的だった。

1996年4月10日
 初出勤。丁度出張が重なっていたようで事務所内に人がいない。とりあえず今日は家の入居があるので夜にチェックをする。家主の英語は分かりにくい。なんとか家の家具や調度品をチェックし終わり、21時半にはスーパーに連れていってもらい終了。当座の食材を買い、家へ帰る。
  ……続く(現在作成中!)


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