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《essay・10/29》
人生はしみわたるハッカの臭いにも似て‥‥「ペパーミント・キャンディ」

 実は日本資本(NHK)も参加している韓国映画。
 アジア映画というとストーリーのシマリがないおちゃらけエンタメか、さもなくばやたら重厚晦渋なののどっちかってパターンが多くて‥‥とイマイチ入り込めないオレのような客にとって、「クーリンチェ少年殺人事件」とかこの映画のように率直に親しめる映画に出会えることは幸運というべきだろう。
とはいうものの、けっして甘いストーリーではないし、むしろ「人生は残酷だ」という諦念が前提にあるほろ苦い映画だ。
 屈折した人生を送ってしまい、鉄道自殺を実行してしまう主人公の惨めな結末がいきなり冒頭で語られる。映画は、そこからゆっくり彼の人生のフィルムを巻き戻すように、逆向きに展開していく。エピソードがさかのぼるごとに、前進する電車の後ろから見渡した光景を、逆回しにしたフィルムが挟まる。
 人生の節目節目で悪しき結果を呼び込んでしまうツキのない男、その度に屈折を深めていく彼だが、その彼の人生は、いったいどんな駅から出発していたのだったか‥‥
 残酷な人生を語りながらも、不思議なノスタルジーに満ちた、感動的な映画である。見た後に確実に「何か」を残してくれるだろう。
1999年韓国・日本映画
監督:イ・チャンドン
出演:ソル・ギョング、ムン・ソリ、キム・ヨジンほか

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《essay・10/28》
「漂流街」縦横無尽のデタラメ映画。

 いよいよ、本宮ひろ志原作やSPEED主演などの冠ナシの、三池ホームグラウンド的テイストの映画が全国メジャー配給で公開!クールな感じの予告編の効果もあってか、試写会に集まった観客の胸はけっこう期待感に満ちていた(ように思う)。
 しかしフタを開けてみると、あいかわらず、ウェルメイドさに気を使わないモツ鍋ヤミ鍋系八方破れ映画。いきなり、冒頭の「埼玉県戸田市笹目」という無茶な設定から一部観客の爆笑を呼ぶ。その後もコンスタントにネタが連打され、とりあえず話題のネタには事欠かないが、一部で先んじて話題になっていた「マトリックス」ギャグがezWeb版の「映画大王」では思い切りネタバレしていたのには驚いた。かりにも大王なら、ネタバレみたいな下品ミスはやめてくれーい。
 予告編でもバーンと「LOVE」という文字が掲げられて、しかもヒロインがミシェル・リー(様)とあって、愛と野望の逃避行みたいな感じなのかという不安もちょっとあったが、要はキャラたちの野獣的過剰的ほとんどお笑い的情熱を発火爆発させ、血煙り街道をひたすらバク進させるための動機づけとしてマァ「Love」があるみたいな感じで、ロマンスで泣かせるような要素は皆無なので安心。特筆すべきは、クールな中国人役もマァマァ似合ってんじゃないの、というレヴェルでおとなしく居座っている及川ミッチーを押しのけての堂々悪党ぶりが素晴らしい吉川晃司の存在感である。次作「天国から来た男たち」も大いに期待させます。
 デタラメごった煮ヴァイオレンス映画。女を殴る男、仁義を裏切る覇道ヤクザ、出血、下血、ゲロ、トリ、ホモ、卓球、なんでも出てくる映画なので、嫌いな人はトコトン嫌いだろう。実際、試写会後に「いつから寝てたかしら」って言ってる人とか、「物語がないよ〜」と至極まっとうな批判を述べている人などもいたが、「いやー笑った笑った」という健康な感想を述べながらも目の端に異様なノリの光りをたたえる一部の観客がいたコトも忘れてはなるまい。とりあえず、笑うつもりで見てみれ!
2000年日本映画
監督:三池崇史
出演:TEAH、ミシェル・リー、及川光博、柄本明、吉川晃司ほか

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《essay・10/23》
ラストで爆笑!「五条霊戦記」

 見てる間ずっと思っていたが、永瀬正敏はいてもいなくてもよかったんじゃねーか。
などと思ってしまうほど、各キャラクターの色が薄く、妙に気取った演出もともなって感情移入しにくい、タルい映画になっていた。
そんな中でも完全に「その他」キャラのはずのゲスなチンピラ野郎が妙に光ってたのがひじょーに気になる(笑)
で、ああ〜ダルいなぁー。大体なにがしたいのこの映画で、などと思いながらダラダラ見ていたら、いきなりラストで大爆笑。
なんだぁ。こういう事がしたかったんなら、早くやって下さいよぉ〜。 いやぁ笑わせてもらいました。ですが爆笑のラストに到るまでの妙に気取った展開で星マイナス2なのだった(非情)。
やっぱ、このカッコつけっぷりは、仙頭武則の意向なのか?最初のスタッフクレジットでも一番表示時間が長かったのが「プロデューサー 仙頭武則」だったように思う。奥山和由脱落後、日本映画界自己顕示欲ベスト1の栄誉を捧げたい。
2000年日本映画
監督:石井聡互
プロデューサー:仙頭武則
出演:隆大介、永瀬正敏、浅野忠信、岸辺一徳、國村準ほか

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《essay・10/9》
権力のゆりかごは揺れているか?「クレイドル・ウィル・ロック」

 1930年代という狂騒の時代の中、ひとつの社会派演劇をめぐってわき起こる表現者たちの一大群像劇。
 上演を中止させようとする権力側とそれに抗う貧乏俳優たち、観客たち、オーソン・ウェルズ。いまどき珍しい、こんなに骨太な熱いハナシを持ってきながら雑誌などの寸評がイマイチ冷たいのは、メイン・ストーリーの演劇「クレイドル・ウィル・ロック」が、社会主義リアリズム演劇であり、主人公たちの行動が共産主義運動と切り離せずには語れないものを持っているからかもしれないし、あるいは寸評する人が単にキャラがいっぱい出てくる群像劇がキライだったのかもしれない。いずれにせよ、私自身は熱く涙してしまった。なにしろ、社会主義はともかく、群像劇が好きなタチなもので‥‥。
 もちろん、ティム・ロビンス監督の意図はこの映画によって世界共産革命に資するということではなく、表現する者の「不屈の意志」とでもいうべきものを訴えかけることなのはあきらかだ。オーソン・ウェルズの爆発的な情熱(あまりに過剰なんで、登場するたびに爆笑しちゃうけど)、反共勢力に立ち向かう劇場支配人の誠実さ、芸術家を金で飼い慣らそうとする支配層に唾するリベラの絵筆‥‥平行して語られるこれらは、恐慌の30年代という同時代の枠を突き破って、好景気に湧く現代アメリカに突きつけられる、誇りという名の拳なのだ。
 ストーリーも画も実に分かり易く直接的なので、インテリ好きのする映画ではないだろうし、小林よしのりとか愛読してる人にも(笑)多分不快なんだろうけど、わかりやすい映画が嫌いな人でなければ感動できることでしょう。ちょっと我々一般日本人にとっては不親切ともいえる知識的前提が多いけれども、この映画の登場人物たちと同じ空気を吸い、同じ鼓動を共有する根性さえあれば、多少の設定のわかりにくさはクリアできることと思う。実際、ブレヒトとかハーストとか何の説明もなく出てきたりするので、1930年代の文化に全く興味のない人には少々ツラい部分もあるかもしれない。(隣の女の子は始終時計を見ていた)オレもディエゴ・リベラとかフリーダ・カーロについてはパンフ読まさせていただきました。
1999年アメリカ映画
監督・脚本:ティム・ロビンス
音楽:デイヴィット・ロビンス
出演:エミリー・ワトソン、ハンク・アザリア(マーク・ブリッツスタイン)、ジョン・キューザック(ネルソン・ロックフェラー)、ジョーン・キューザック、フィリップ・ベイカー・ホール、ジョン・タートゥーロ、ビル・マレー、スーザン・サランドン、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、アンガス・マクファーデン(オーソン・ウェルズ)

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《essay・10/1》
切ないながらも輝く「ボーイズ・ドント・クライ」

 悲惨な映画である。一片の救いもありはしない。が、私は感銘を受けた。
 1993年のネブラスカ州フォールズ・シティという小さな街の、小さな仲間内で展開する悲劇。その舞台の中心に立っているのは一人の「少女/少年」だ。
 女の体でありながら心は男、髪を短く刈り込んで男の外見をして、恋した女性に近づいた彼は、その女性の親族から変態、化け物と呼ばれ、訴えられる。いきなりやるせない展開だが、そんな時に出会ったフォールズ・シティの若者グループは、彼を女性と知らないままに仲間として迎える。行き場の無い町、壊れかけたバランス、だがそこは彼にとって心地よい疑似家族のようだった。彼が「恋」をするまでは。
 アカデミー賞当時のマスコミ報道では「性同一性障害」の主人公、というコトバでくくられてしまっていた本作だが、ドラマの中のヒラリー・スワンクに「悲劇のヒロイン」じみた感じは微塵もなく、特殊な境遇をカタルシスのネタにする野島伸司ドラマ的タチの悪さは感じられない。
 社会に疎外された者たちが、性的に疎外された者をさらに疎外していくという展開の切なさは、「あっちの趣味」の人達の悲劇なんぞという枠にとらわれず、むしろ人間一般の切なさとして迫ってくるのだ。あくまでも「性」はドラマの引き金であり、映画は危険なバランスの中でとにもかくにも生きようともがく人々の姿を正面から捉えている。この視線が素晴らしい。悲惨だが、そこに光るものを見つけずにはおられない映画である。
1999年アメリカ映画:FOXサーチライト・ピクチャーズ/ザ・インディペンデント・フィルム・チャンネル・プロダクション
監督:キンバリー・ピアース
脚本:アンディ・ピーネン、キンバリー・ピアース
音楽:ネーサン・ラーソン
出演:ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガード
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《essay・9/26》
ブレイブハートもひどかったが‥‥「パトリオット」

 「あっ、またメル・ギブソンのアップだ!ヤメテー!
オレに対する嫌がらせかとすら思える、ワースト俳優とワースト監督のタッグ(ケビンコスナーとワースト12を争います)。これでエメリッヒいつものSF大作なら見なかったと思うが、なにしろオレの弱いジャンルを突いてきやがったもので、つい見てしまった。そう、この手の近世歴史劇に弱いのである。池田理代子の「エロイカ」とか好きな人は、エメリッヒということは重々承知しつつも、ちょっとは見たいと思った‥‥でしょ?
 しかしまあ、やはり予想どおりの浅薄な映画なのであった。大体メル・ギブソンみたいなヤツに「家を守るために立ち上がる父親」なんて役がつとまるはずもなく、ただ叫んだり泣いたり目ぇカッ開いたりしてるだけで、全然胸に迫るモノがない。これ見てると、ロン・ハワード監督の「身代金」でのあのキャラは、別にシナリオがショッキングだったわけではなく、単にメルギブには頭の壊れた父親役しかできなかっただけだったのかって気も。
 拾いモノとしては悪役のジェイソン・アイザックスのしなやかな悪役ぶり。これはなかなかヨロシイ。もうちょっとセンスのある監督の映画で、悪辣貴族とかナチの将校とかやっていただきたいものです。
 さて、SF映画から一転して歴史劇のエメリッヒ監督ですが、この大雑把な話で唯一気を使いそうなのがこの時代の黒人の描写。どうすんのかなーと思って見てると話の後半でのとあるシーン。
「なんかこういうシーン見たことあンな‥‥あっ、ジェダイの復讐だ!」
さすがオタク監督。黒人=イウォーク族で問題解決ってことか‥‥って大丈夫なのかこの程度で。
2000年アメリカ映画:コロムビア提供
監督:ローランド・エメリッヒ
脚本:ロバート・ローダット
音楽:ジョン・ウイリアムス
出演:メル・ギブソン、ヒース・レジャー、クリス・クーパー
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《essay・9/24》
かなり入りたい!!「マルコヴィッチの穴」

 "Being John Malkovich"
というイカすタイトルの後、何が始まるのかとワクワクして見ていると、始まるのはバルトークのコンチェルトに併せた人形劇。
ちょいと「ふたりのベロニカ」を思い出してしまうこの入りに、ウーン、やっぱりアート・フィルムなのかな?と思うとガンガン話は浅薄な私の予想を逸脱し、奇々怪々な方向へ突っ走っていくのだった。
 盛大な悪ふざけか?哲学的実存的ストーリーか?
 どう結論づけるかは観客の勝手だが、とにかく破格、縦横無尽の面白さ。
困るのは、次の日学校で友達に「ビーイング・ジョン・マルコヴィッチ見たよ!」と嬉々として言っても「へー、どんな話なの?」と聞かれると「ウッ、それは」と二の句が継げなくなるということだろうが、考えてみれば、二分で話が要約できる映画が大手をふるこのご時世、そんな映画を見に行けるということだけでも幸いと思え!とにかく行け、この野郎!と叫びながら友達の首を絞めるべし!
 まあ、たとえストーリーを説明するのに成功したとしても、まさかそんなストーリーだと友達は信じてくれないだろう。「頭大丈夫?」って聞かれるかも。とにかく、そんな具合にブットビのストーリーなのだった。
 ちなみに、ジョン・マルコヴィッチ大ファンのオレとしては、マルコヴィッチ・ネタ(笑)の方でも大いに笑わさせていただきました。本人の演技も堪能。こんな風に自分をネタにした映画に嬉々として出るあたり、まったくイキな男よ、マルコヴィッチ。
1999年アメリカ映画:ユニヴァーサル提供
監督:スパイク・ジョーンズ
脚本:チャーリー・カウフマン
音楽:カーター・バーウェル
出演:ジョン・キューザック、キャメロン・ディアス、キャスリーン・キーナー、ジョン・マルコヴィッチ
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《essay・2/7》ヤバイ系伝奇モノ「九十九本目の生娘」

 題名でピンとくる方も多いと思いますが、大蔵時代の新東宝映画である。若き日の菅原文太が主演、ヒロインは三原葉子(ばっかりですが)、曲谷守平監督。
 それにしても「九十九本目の生娘」とは、「何なんだ?」と首をひねらずにはいられない強烈なサムシングを放つタイトルだが、映画を見てみれば「なーんだ」と思うことであろう。原作小説は「九十九本目の妖刀」で、刀じゃ客は来ないからってんで「生娘」に変えたってだけなんだろーけど、生娘を「本」で数えているようにみえるあたり、謎を秘めたレトリックに思わずヴィデオを手にとってしまう…とったオレがタワケでありました。
 でもまあ、そんな崩壊的につまらない映画ではなく、ボチボチ面白いんですが、困るのは内容のヤバさである。
 冒頭、人里離れた山奥の藪で、棒を持って何者かを追う二人の男が登場。「こンの 野郎!」とようやく捕らえたのは、髪ボーボーですげえ顔した婆さん。もう冒頭から読み物系キワモノ臭がプンプンしてますが、この二人の男の連れだったバーの女給(笑)が行方不明となった事件と、この婆さんが関係あるらしい、というセンからストーリーが展開していき、やがてこの婆さんが住んでいる山奥の部落の血塗られた迷信が明らかになっていく…という伝奇伝奇した内容。麓の村の人々に誹謗されているこの部落の人々が、実際血塗られた伝統のもとに犯罪的行為におよんでいる、というあたり、部落問題レベルでかなりヤバいんじゃないかと思いますけど。しかもクライマックスは「インディジョーンズ魔宮の伝説」ばりに、弓矢と刀で武装した部落の住民と、カービン銃&拳銃による警官隊の銃撃戦で、部落の人たちは掃討されてしまうのであった。ほとんど西部劇のインディアンvs騎兵隊のノリで、なかなか他では見られない画ではないかと思う。「けだもの部落」が出てくるという理由でビデオがお蔵入りになっている本多猪四郎の傑作「獣人雪男」より、こっちの方が全然マズいんじゃなかろうか。
 全編さしたるショック描写もなく、けだるいムードの中進みますが、こういういかもの系のノリが好きな人にとってはそんなに退屈じゃないんじゃないかと思います。後ろから首を締め付けられた人が「あッ、苦しいッ!」と叫ぶところと、警官役の文太が婆さんの部落を探すべく聞き込み中に婆さんの写真を見せてまわるのだが、その写真に映った婆さんが、正面からのフラッシュに驚いてシェーみたいなポーズをしてるところには爆笑させられた。
 おそらく売りの一つであるはずの女給ヌードは超ロングショット。ほとんど「あ、脱いでるな」という程度しかわからず、当時映画館に足を運んだエロ親父たちは羊頭狗肉気分を満喫したことでありましょう。


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《essay・1/24》最高にハピネスな大傑作「ナビィの恋」

映画をいっぱい見てる人から、普段ぜんぜん見てないんだけど・・って人まで、見た人の誰も彼もが「いい」って言ってる映画、中江裕司監督の「ナビィの恋」を見てきました。
「どれほどのもんなのかねえ・・」なーんて気持ちで。
そしたら、あなた、どうよ。
鼻水出るほど泣けましたですよ。
しかも、それがあまりにもハッピーすぎて泣ける。キャプラ監督の映画が好きな人は多分感覚的に分かると思うけれども、映画を見てて、これほど幸せな感動はありません。
なんか話題のなり方が、やれ沖縄民謡とか、老人の恋とかいうから、なんかフォークロア系とかマイナー系とかドキュメンタリー系とか、いらぬ先行イメージがつきまとっちゃうんだけど(というかオレにはつきまとってたんだけど)、
そんなん全部チャラ。
「正月映画どれか一本見るとしたら何かな」と迷っている人は多いと思いますが、他は全部見る必要なし。
これ一本です。

 花の匂いと陽の光に満たされた縁側でうたたねしていると、おじいさんのつまびく三線(さんしん)の歌が聞こえてくる、そんな導入部だけですでに充分幸せなのだが、もうその後の幸せぶりときたら、それどころじゃない。冒頭30分だけで、「なんだ、この底抜けにパラダイスな場所は!?」と、すっかり舞台の粟国島に恋してしまう。この島は、花の島、歌の島、牛の島、神の島、祖霊の島、そして何より愛の島。海の向こうのアイシテルランド(笑)から、異人さんがフィドル片手に渡ってきてしまうほど、素敵な島なのです。
そんなパラダイスでつづられる、不思議な恋の話。
詳しくは申しません。
沖縄民謡、ケルト音楽からマイケル・ナイマンまで、どれがメインと言うことすらできないほどどれも素晴らしい音楽、
金子修介監督の映画を数多く手がけた邦画界きっての撮影監督、高間賢治の幸せな光と色に満ち溢れた画面。
どう考えてもこれまでのベスト演技を見せる西田尚美と、彼女だけ見ていても飽きないというのにそれを上回る素晴らしい沖縄のおじいさん、おばあさん、子供たち。

沖縄の神様お願いです、私を粟国の牛にして下さい。と思わず願ってしまう映画。
生まれてこのかた、この映画しか見たことがない、っていう人がいても、それはそれでいいやと思っちゃう。
だまされたと思って見に行きましょう。ホント。


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《essay・1/16》CM的ハイソから文豪的穴蔵への先祖帰り?「ポーラX」

 相当ワケの分からない映画と聞いていたので、こっちも全面分析態勢で臨んだおかげで、比較的見通しよく見ることはできたが、その分「アタマの良い人が撮ったアタマの良い映画」程度に見えてしまったきらいがあって、いまいち愛着を感じることができなかったのは個人的に惜しまれるものの、期待以上のものは見せてくれた。
 主人公のギヨーム・ドパルデューは冒頭、最悪にイヤな人間である。郊外の城館(シャトー)に住んでて、母親のカトリーヌ・ドヌーヴ(しかもこいつ、母親の事を「姉さん」と呼びやがる)と二人暮らしなのだが、こいつの、恋人とのデートといいシャトーの生活といい、いちいちこちらの神経を逆撫でしてくれるようなイヤミったらしいものだ。一言で言えば、俗受けテレビCMに出てくる「ハイソな暮らし」的なものからの、コラージュの洪水なのである。デート・シーンはどう見てもどっかのDCブランドのCMにしか見えないし、母親にピアノを弾いてあげるシーンもウイスキーのCMかなんかみたいである。ドヌーヴはいきなりゴージャス風呂入ってるが、もう60にもなろうというババアには思えないおっぱいを除けば、ほとんどシャネルかなんかのポスターだ。
 こいつらの生活は一見貴族のものだが、ヴィスコンティが描くような、貴族の出自というベースに裏打ちされたものではなく、あちこちのポスターやらCMからコラージュしてきただけのハリボテおフランス城館生活。軽薄で無内容で鼻つまみである。
その絶頂は主人公が書いている小説。
アラジン著「光の中で」…ペンネームもタイトルも最悪だ。
その書き方といえば、パソコン辞書からテキトーな同義語を検索していろいろ言い換えてみて、ちょっとスカした言い回しを工夫とかするというていのもの。こんな野郎が母親に対して「姉さん、僕が醜かったらどうする?ホラホラ」とか言って片輪のマネゴトをするに到って、観る者は怒髪天を突く。
「この野郎、できるだけ早く、犬のように死ね!」と思う他はないのだ。
 もちろんこうしたキャラ造型は、後で強く否定するためにカラックスが準備したもので、CM的なものの抜粋も意図的なものである。話は進み、この主人公がある日いわゆるジプシー(ロマ)の女の子と出逢い、本当の自分探しのために家から出ていくという展開になる。しかし、この女性ののたまう事といったら「私はあなたの姉よ」とか言う頓狂なもの。そうして自分の体験を述べるのだが、さっぱり意味不明である。まあこれは、意味不明なことをまくしたてるのがこの監督の趣味なんだと思ってほうっておく他はない。
 彼はこの姉と名乗る女性とパリに出てくるが、「薄汚い女を乗せるな!」とのたまうトルコ人のタクシーの運ちゃんをはじめ、周囲と始終ぶつかり合うことになる。こうした差別と疎外は「白人>イスラム教徒(トルコ人)>ジプシー」といった欧州によくある人種偏見の構図が頭に入っていないとちょっとピンと来ないと思うが、そのへんから発するうだうだが色々とあるのだが、そこを経過して、主人公は怪しげな宗教団体に身を寄せ、小説を書き始める。
 彼の手にはもうパソコンはなく、その書き方はゲホゲホ言いながら汚い小部屋で赤ペンを一生懸命走らせるというやり方なんだが、これは冒頭のCMコラージュめいた世界とは対極で、ほとんど19世紀の文豪って世界である(ちなみに映画の原作はハーマン・メルヴィルだ)。話はどんどんデタラメになっていき、何の解決も見えそうになくなるが、その中でひたすら彼は赤ペン小説を書く。もちろん19世紀文豪的マンネリズムの通りその小説は認められないし、書く者が、書いている内容に取り込まれるかのごとく、自滅的道をたどるあたりもまったく前世紀の味だ。
 レオス・カラックス監督が主人公に何をやらせたかったのかというのは、おそらくこういう、前半の華やかだが軽薄な世界と、後半の暗くてゴシックで濃密な世界との対比を通して、はじめてすっきり見えてくるのではないかと思った。

 という訳でいろいろと手練手管を使ってるとは思うが、「いい映画」ということでいうなら、同じテーマでやってても実際に単身ジプシーの生活世界の中に入っていく「ガッジョ・ディーロ」の方がずっと行動的だし感動的である。「ポーラX」の主人公は、確かに自分を変え、欺瞞に満ちたハリボテ生活空間からの脱出を試みてはいるのだが、その経路はあくまでも文化の枠を踏み出すものではない、単なる先祖帰りにしか過ぎないのではないかとすら思えてくる。
 もう一つ気になるのはその方法だ。彼は情報化と商品化にまみれた生活の中で見知らぬジプシーの女と出会い、彼女らを連れ歩く生活に入ることで自らの世界を変えようとするわけだが、自分のケツを拭くのにジプシーという要素をただ利用しようとするだけの白人的奢りが、この映画のカラックスにはあるように思えてしまう。それは自らを語ることが既に社会への反抗となり得るジプシー映画作家への羨望が生んだものかも知れないが、やっぱり鼻につくやり方としか思えないのであった。

 笑えるところもある。最も素晴らしいバカ・シーンは何といっても怪しい宗教集団のライブであろう。直立不動でエレキを鳴らすカルトギタリストの集団演奏は、「黒い家」における大竹しのぶの「ヘタクソー!」なみに爆笑できます。丁度このあたりでストーリーにつきあいきれなり、ひさびさに映画館で時計を見たりしてしまったが、そんな折りにこの片腹痛いシーンの挿入はなかなか気が利いていたと思う。


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