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《essay・10/1》 切ないながらも輝く「ボーイズ・ドント・クライ」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 悲惨な映画である。一片の救いもありはしない。が、私は感銘を受けた。 1993年のネブラスカ州フォールズ・シティという小さな街の、小さな仲間内で展開する悲劇。その舞台の中心に立っているのは一人の「少女/少年」だ。 女の体でありながら心は男、髪を短く刈り込んで男の外見をして、恋した女性に近づいた彼は、その女性の親族から変態、化け物と呼ばれ、訴えられる。いきなりやるせない展開だが、そんな時に出会ったフォールズ・シティの若者グループは、彼を女性と知らないままに仲間として迎える。行き場の無い町、壊れかけたバランス、だがそこは彼にとって心地よい疑似家族のようだった。彼が「恋」をするまでは。 アカデミー賞当時のマスコミ報道では「性同一性障害」の主人公、というコトバでくくられてしまっていた本作だが、ドラマの中のヒラリー・スワンクに「悲劇のヒロイン」じみた感じは微塵もなく、特殊な境遇をカタルシスのネタにする野島伸司ドラマ的タチの悪さは感じられない。 社会に疎外された者たちが、性的に疎外された者をさらに疎外していくという展開の切なさは、「あっちの趣味」の人達の悲劇なんぞという枠にとらわれず、むしろ人間一般の切なさとして迫ってくるのだ。あくまでも「性」はドラマの引き金であり、映画は危険なバランスの中でとにもかくにも生きようともがく人々の姿を正面から捉えている。この視線が素晴らしい。悲惨だが、そこに光るものを見つけずにはおられない映画である。 1999年アメリカ映画:FOXサーチライト・ピクチャーズ/ザ・インディペンデント・フィルム・チャンネル・プロダクション
監督:キンバリー・ピアース 脚本:アンディ・ピーネン、キンバリー・ピアース 音楽:ネーサン・ラーソン 出演:ヒラリー・スワンク、クロエ・セヴィニー、ピーター・サースガード | ![]() |
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《essay・9/26》 ブレイブハートもひどかったが‥‥「パトリオット」 ![]() 「あっ、またメル・ギブソンのアップだ!ヤメテー!」 オレに対する嫌がらせかとすら思える、ワースト俳優とワースト監督のタッグ(ケビンコスナーとワースト12を争います)。これでエメリッヒいつものSF大作なら見なかったと思うが、なにしろオレの弱いジャンルを突いてきやがったもので、つい見てしまった。そう、この手の近世歴史劇に弱いのである。池田理代子の「エロイカ」とか好きな人は、エメリッヒということは重々承知しつつも、ちょっとは見たいと思った‥‥でしょ? しかしまあ、やはり予想どおりの浅薄な映画なのであった。大体メル・ギブソンみたいなヤツに「家を守るために立ち上がる父親」なんて役がつとまるはずもなく、ただ叫んだり泣いたり目ぇカッ開いたりしてるだけで、全然胸に迫るモノがない。これ見てると、ロン・ハワード監督の「身代金」でのあのキャラは、別にシナリオがショッキングだったわけではなく、単にメルギブには頭の壊れた父親役しかできなかっただけだったのかって気も。 拾いモノとしては悪役のジェイソン・アイザックスのしなやかな悪役ぶり。これはなかなかヨロシイ。もうちょっとセンスのある監督の映画で、悪辣貴族とかナチの将校とかやっていただきたいものです。 さて、SF映画から一転して歴史劇のエメリッヒ監督ですが、この大雑把な話で唯一気を使いそうなのがこの時代の黒人の描写。どうすんのかなーと思って見てると話の後半でのとあるシーン。 「なんかこういうシーン見たことあンな‥‥あっ、ジェダイの復讐だ!」 さすがオタク監督。黒人=イウォーク族で問題解決ってことか‥‥って大丈夫なのかこの程度で。 2000年アメリカ映画:コロムビア提供
監督:ローランド・エメリッヒ 脚本:ロバート・ローダット 音楽:ジョン・ウイリアムス 出演:メル・ギブソン、ヒース・レジャー、クリス・クーパー | ![]() |
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《essay・9/24》 かなり入りたい!!「マルコヴィッチの穴」 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() "Being John Malkovich" というイカすタイトルの後、何が始まるのかとワクワクして見ていると、始まるのはバルトークのコンチェルトに併せた人形劇。 ちょいと「ふたりのベロニカ」を思い出してしまうこの入りに、ウーン、やっぱりアート・フィルムなのかな?と思うとガンガン話は浅薄な私の予想を逸脱し、奇々怪々な方向へ突っ走っていくのだった。 盛大な悪ふざけか?哲学的実存的ストーリーか? どう結論づけるかは観客の勝手だが、とにかく破格、縦横無尽の面白さ。 困るのは、次の日学校で友達に「ビーイング・ジョン・マルコヴィッチ見たよ!」と嬉々として言っても「へー、どんな話なの?」と聞かれると「ウッ、それは」と二の句が継げなくなるということだろうが、考えてみれば、二分で話が要約できる映画が大手をふるこのご時世、そんな映画を見に行けるということだけでも幸いと思え!とにかく行け、この野郎!と叫びながら友達の首を絞めるべし! まあ、たとえストーリーを説明するのに成功したとしても、まさかそんなストーリーだと友達は信じてくれないだろう。「頭大丈夫?」って聞かれるかも。とにかく、そんな具合にブットビのストーリーなのだった。 ちなみに、ジョン・マルコヴィッチ大ファンのオレとしては、マルコヴィッチ・ネタ(笑)の方でも大いに笑わさせていただきました。本人の演技も堪能。こんな風に自分をネタにした映画に嬉々として出るあたり、まったくイキな男よ、マルコヴィッチ。 1999年アメリカ映画:ユニヴァーサル提供
監督:スパイク・ジョーンズ 脚本:チャーリー・カウフマン 音楽:カーター・バーウェル 出演:ジョン・キューザック、キャメロン・ディアス、キャスリーン・キーナー、ジョン・マルコヴィッチ | ![]() |
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《essay・2/7》ヤバイ系伝奇モノ「九十九本目の生娘」
題名でピンとくる方も多いと思いますが、大蔵時代の新東宝映画である。若き日の菅原文太が主演、ヒロインは三原葉子(ばっかりですが)、曲谷守平監督。 | ![]() |
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《essay・1/24》最高にハピネスな大傑作「ナビィの恋」
映画をいっぱい見てる人から、普段ぜんぜん見てないんだけど・・って人まで、見た人の誰も彼もが「いい」って言ってる映画、中江裕司監督の「ナビィの恋」を見てきました。
花の匂いと陽の光に満たされた縁側でうたたねしていると、おじいさんのつまびく三線(さんしん)の歌が聞こえてくる、そんな導入部だけですでに充分幸せなのだが、もうその後の幸せぶりときたら、それどころじゃない。冒頭30分だけで、「なんだ、この底抜けにパラダイスな場所は!?」と、すっかり舞台の粟国島に恋してしまう。この島は、花の島、歌の島、牛の島、神の島、祖霊の島、そして何より愛の島。海の向こうのアイシテルランド(笑)から、異人さんがフィドル片手に渡ってきてしまうほど、素敵な島なのです。
沖縄の神様お願いです、私を粟国の牛にして下さい。と思わず願ってしまう映画。 | ![]() |
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《essay・1/16》CM的ハイソから文豪的穴蔵への先祖帰り?「ポーラX」
相当ワケの分からない映画と聞いていたので、こっちも全面分析態勢で臨んだおかげで、比較的見通しよく見ることはできたが、その分「アタマの良い人が撮ったアタマの良い映画」程度に見えてしまったきらいがあって、いまいち愛着を感じることができなかったのは個人的に惜しまれるものの、期待以上のものは見せてくれた。
という訳でいろいろと手練手管を使ってるとは思うが、「いい映画」ということでいうなら、同じテーマでやってても実際に単身ジプシーの生活世界の中に入っていく「ガッジョ・ディーロ」の方がずっと行動的だし感動的である。「ポーラX」の主人公は、確かに自分を変え、欺瞞に満ちたハリボテ生活空間からの脱出を試みてはいるのだが、その経路はあくまでも文化の枠を踏み出すものではない、単なる先祖帰りにしか過ぎないのではないかとすら思えてくる。 笑えるところもある。最も素晴らしいバカ・シーンは何といっても怪しい宗教集団のライブであろう。直立不動でエレキを鳴らすカルトギタリストの集団演奏は、「黒い家」における大竹しのぶの「ヘタクソー!」なみに爆笑できます。丁度このあたりでストーリーにつきあいきれなり、ひさびさに映画館で時計を見たりしてしまったが、そんな折りにこの片腹痛いシーンの挿入はなかなか気が利いていたと思う。 | ![]() |
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