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■1/26(日)「呪怨」(恐)「火山高」(眠)「愛の昼下がり」(笑)。
怠惰さに負け、中野武蔵野ホールの「次郎長三国志」モーニングショーを見逃してしまう。悔恨の意を胸に抱きつつテアトル新宿へ出向き、清水崇監督「呪怨」。さらに東映パラス3で「火山高」、渋谷で出てユーロスペースにてエリック・ロメール監督「愛の昼下がり」という流れ。それぞれ一文字で現すと「恐」>「眠」>「笑」って感じ。
「呪怨」は前に取り上げたオリジナル・ビデオの映画化である。映画化といっても基本的なスタイルから「君、名前は?」「ドージーオ``ー」(←俊雄)というガキのムカつく喋り方まで、ビデオ版とほとんど同じ。映画は強烈な怨念の取り憑いたある一軒の家から呪いがどんどん伝染していく、という他に何の筋もなく、しかも幽霊の出現や呪われた人間の死には何のルールもない、という恐ろしさが全編を支配している。「ルール」ってタイトルのホラー映画ができるくらい、ホラー映画というのは決まりごととの葛藤によるドラマが生きている世界だが、「呪怨」では呪い殺される人々を決定するルールが何も無い。「映画に出てきたかと思うとみんな死ぬ」映画と言っても過言ではない。理不尽な映画だが、理を尽くさないホラー映画こそが一番怖いのかもしれないと思わせる(逆の発想で、途中まではルールがあるのに、いきなりラストで理不尽な展開で結末を迎えるホラー映画ってのも面白いかもしれないなどとも思った)。ビデオ版にくらべてちょっと連続的に恐怖シーンがありすぎ、緊張感が途切れてしまう。もう少し何も起こらないシーンがあると良かった。
「火山高」は最初面白いが、途中でだんだんダレてきて先の展開がどーでも良く思えて来、途中寝てしまった。
「愛の昼下がり」はシネ・ヴィヴァン六本木があった頃に見に行ったのだが、疲れていたか早起きしすぎていたかで途中ほとんど寝てしまった映画である。今回はリベンジと言うわけで、「火山高」で睡眠をとったのは「愛の昼下がり」鑑賞準備という意味でもあった。さて、いざちゃんと観てみると殆どバカ映画かとすら思える中身に驚き、笑った。
ベルナール・ヴェルレ演じる主人公は幸福な結婚生活を営む若き経営者で、妻にも別に不満は無いが、"いったい妻のどこが気に入って結婚したのか覚えていない"。パリの街角で着飾った色んな女の子を見るたび、この子と付き合っていたらどうだっただろう・・とか考えてしまう。「と言って軽く声をかけるなんて過激な行動にはオレは出られないなぁ。もしすべての女の子を意のままにできる機械があったら・・」などというセリフとともに映画は妄想シーンへなだれこむ。(モワモワ〜ン)次のショットは中心にピコピコ点滅するランプのついた銀色の機械を首から下げたベルナール・ヴェルレがパリの交差点に突っ立っており、道ゆく女の子に次々と声をかけていき、ことごとく成功。って、古屋実のマンガか?
「マドモワゼル、あなたはプロですか?」
「一万です。」
「ぼくの値段は二万です」
「それなら安いわ!」
そして彼女はぼく宛ての小切手に署名する。(エリック・ロメール「六つの本心の話」より)
ってな妄想を弄ぶベルナール・ヴェルレ。アホとしか言い様が無いが、ほぼ全ての男性を体現していると言って過言では無いだろう。女の子たちに絶対的に支持されているエリック・ロメールだが、彼は決して女の子の気持ちばかりを映画にしているのではないのである!!(力説)さて、映画はその後主人公と、彼にもとにやってきた学生時代の友達の恋人との昼下がりの逢い引きを描いていく。ロメールの映画は「他人とどんなふうに距離をとってつきあったら良いのか?」という問題に集約されていると誰かが書いていた気がするが、この映画もやはり、唐突に現れたこのちょっと気になる女性との距離の取り方をどうしたら良いのか・・と主人公が思い悩みながら進んでいく。ラストもなんともエロ可愛く、ロメール作品のうちでもなかなかイイ一本だと思う。
■1/25(土)BSハイビジョンでラトル指揮「千人」。
NHKのBSデジタルというと、まだまだ「おいしいコンテンツだったらアナログでも数日遅れで放送するし、独自のコンテンツっていうとまぁデジタル独占にしたところで大きなクレームは無さそうなモンばっかりじゃん」と思われているのではなかろうか。しかし当夜23:00からのサイモン・ラトル指揮マーラー「千人の交響曲」は断固観たいという人も多かったことと信じる。自分史上、クラシック音楽への門戸開放はこの曲から始まったといっても過言ではない、合唱付き超壮大交響曲がマーラー交響曲第8番、通称「千人の交響曲」だ。(初演のときに演奏に関わる人間を全部かき集めたら千人くらい居たということで興行主がつけた題が「千人の交響曲」で、けっして作曲者がつけた題ではない・・というこの業界にありがちな逸話がつきまとっている。)
それにしても、この曲は現代という時代には決して作られ得ない音楽だという思いを聴くたびに新たにする。曲の構成は第一部:讃歌「来れ、創造の主なる聖霊よ」と第二部:「ファウスト」第2部より終幕の場という二部構成となっており、第一部はキリスト教のラテン語テキスト、第二部もファウスト博士が天国に召されるシーンだったりするのでキリスト教に基づく音楽ではあるのだが、ここには神にむかって己を低める敬虔さ、畏怖といったものはほとんど感じられない。自己を高め、神を讃えることによって神の領域へ限りなく上昇していく自己意識への讃歌があるだけである。この音楽で鳴動している「宇宙」とは、限りなく肥大化した近代人の自意識なのかも知れない。
アウシュビッツ以後の現代人には、このようにして無限に自己を信頼することは決して出来ないだろう。もはや有り得ない永遠のユートピアを描いた音楽として、歓喜よりもむしろ一抹の哀惜をもって聴かれるべき曲といえる。
第二部、天国からこぼれおちてくる光を表現するように、ハープの調べが奏でられはじめるところは、いつもながら涙なくしては聴けない。ナショナル・ユース・オーケストラは時々金管がヒコったりしているが、情熱に満ちたラトルの指揮に牽引され、また聴いているこちらもお酒が入っていたりしたこともあり、感動の波打ち寄せる素晴らしい鑑賞体験となった。BBCのパーソナリティが言うには、ラトルはこの機会(プロムス2002)が意外にも初めての「千人」演奏だったとか・・ぜひウイーン・フィルもしくはベルリン・フィル等によるCDリリースに期待したい。
■1/22(水)たぶん初公開、私の「酔っぱらった時の悪い癖」。と・・遂に「あの方」が永眠。
飯田橋で飲み。さて、私が過度に酔っぱらうと(過度に・・というのはむしろ「いつも」と読み替えても良いが)出てくる癖がある。これを読んでいる人は大半が私の直接的な知り合いなので「知ってるよ、みんながまだ飲んでるのに一人で寝ることでしょ」と思うかもしれないが、実はみんなとバイバイした後に出てくる悪い癖があるのである。
それは・・飲んだ後の帰り道に、深夜も開いてるBOOK OFFや蔦屋などに入店し、酔った勢いでしこたま本を買ってしまう、ということである。
恐らくはシラフ時に抑えている物欲が酔った勢いで気が大きくなり、「この気分が高揚している勢いで買ってしまおう、なに、あの時は酔ってたから・・と言いわければ良い」(←誰に。)という流れなのであるが・・。
今日も蔦屋でえんえん30分の品定めの結果「グレースと公爵」原作本(集英社文庫)、吉野朔美「少年は荒野をめざす」マンガ文庫版1巻、石原まこちんのミクロコスモス漫画「THE
3名様」1、2巻と、さらに「漫画形式におけるベストフォーム等と評しておきながら手元に単行本を持っていないのは、これは最早犯罪行為というものであろう」などと考え「ルードウィヒ・B」を買うにいたっては、「一体お前は誰に義理立てしているんだ?」と酔いの醒めかけた今あらためて自分に問いなおさずにはおられない。多少安く飲めても、結局飲み会のお代と同じくらいの金額を古本の類に注ぎ込んでしまうこの性癖、いずれ克服しないといつまで経っても一銭の貯金もできなそうだ。猛省。今後、みなさんと飲んだ後もひょっとすると私の足は古本屋へ向かおうとするかも・・。そんな時は優しく「BOOK
OFF流れちゃあダメよ」と声をかけて下さい・・。(←自分で断て)
もう一つ、昨日の毎日新聞夕刊で知った、安原顕の死去についてもここで記録しておかねばなるまい。結局、最期まで書き続けると宣言されたオンライン日記は1/6の本人自らの口述筆記を最後とし、1/20に自宅で眠るように逝ってしまったそうである(bk1の記事より)。北杜夫いわく「死んだら祝砲をブッ放したいと思う人間はマサゴの数ほど目に入る」が、ほんとうに「死んで惜しいと思う人間はいくらもいない」(「どくとるマンボウ航海記」より)。ヤスケンさんの場合はもちろん、いくらもいない死んで惜しい人たちの一人であったことは間違いないことであろうと思うし、恐らくはマサゴの数ほどいる、ヤスケンさんに喧嘩を売られた人たちにとってさえも、その存在価値は実は大きいものだったのではなかろうかと思う。今日び、正面きって人に喧嘩を売るという事は、余程の無謀さか余程の愛情をもってせねばなし得ないむしろ難行であるからだ。大きな損失を悲しむと共に、故人の冥福を祈らずにおられない。ブックサイト・ヤスケンの記事はこちら。
■1/21(火)またもコバケン
/ ハンガリー国立合唱団。
今宵はセシオン杉並で、ハンガリー国立合唱団の特別演奏会という催し。当初「客の入りがよくないので・・」ってな事で声をかけられて推参したのだが、どうして、座れなくなるほどの大盛況。バルトーク、コダーイほかのハンガリー民謡から採譜・編曲された民族音楽的合唱曲の数々がハンガリー国立合唱団の指揮者のタクトで演奏される第一部、個人的には合唱曲ではない、リコーダーと独唱のかけあいによる曲が、ムジカーシュの民族音楽などに親しんでいる自分の耳には最も心楽しく響いた。それにコダーイの名曲「ESTI
DAL」。包容力のあるハーモニーの中に、浄化された夕べの情景が浮かび上がってくるかのような、素晴らしい演奏であった。第二部は一転してコバケンの指揮によるトーク&ミュージック。おなじみのマジャール語ギャグから、ピアノ伴奏によるモーツァルトの「レクイエム」、さらにオルフの「カルミナ・ブラーナ」抜粋が演奏され、燃えまくり。ハンガリー国立合唱団は今回「カルミナ・ブラーナ」演奏のために来日したとあって、他の曲と気合いの入り方がダンチ。思わぬ贈り物となった。
■1/20(月)滑り込み!「グレースと公爵」。
いやーいつの間にやら1/24で終了っスよ、エリック・ロメール監督最新作「グレースと公爵」。終了前最後の休日である今日のうちに何としても行かねば・・。ということで日比谷シャンテ・シネへ。これまでのロメールのフィルモグラフィーにはコスチュームプレイは二本しかなく、いずれも未見のためこれが初めてのコスチュームプレイ体験となった。それにしても今回は冒険してるなぁ・・という印象が強い。前作「恋の秋」はこれまでのロメールが得意としてきたフィールドでの恋愛映画であり、それゆえにすぐにしっくりときて見る事が出来たのだが、今回は歴史劇であり、さらに「生きるか死ぬか」という極限状況が描写されている。バカンスの間の過ごし方がどーだのこーだのと騒いできたロメール映画において、主人公が死にそうになるシチュエーションなんぞは滅多に登場してこない。オレにとってはほとんど「獅子座」以来である。しかもあっちはただ貧乏で死にそうってだけだが、今度は暴徒にブッ殺されそうになったりする・・。しかし、選択の結果がささいな偶然やすれ違いによって覆されながらも、なお人々は議論しそして選択する、というロメール映画の定番はやはりここでも生きている。もう一つ感じたのはこの映画でロメールが達成している映画的実験である。フランス大革命当時のパリを映画の舞台にするにあたって、当時の町並みに近い別の都市でのロケやオープンセットなどを使用したのではいまいち感じが出ないと考えたロメールは、外の風景をすべて絵画にしてしまう。当時の風景を描いた油絵の中で動く人物たち・・。革命的と言うか突飛というか、もっと直接的にいえばヘンだと考えることもできようが、「スターウォーズ・エピソード1」でジョージ・ルーカスは同種のことをやっており、これはルーカスとは違った角度で達成している表現史的進歩なのであると考えることもできる。もっと言うなら、写真という究極の再現画像が発明される以前、視覚を再現する方法が絵画でしかありえなかった時代、人間の記憶に頼って再現される視覚的映像とはあるいはこのようであったかも知れないと考えることもできるだろう。もっともアップになると背景にカンバスの目なんかが見えるこの映画の表現が「リアル」だとはとても言えないだろうが、あふれるばかりの自然光の中でヴァカンス映画をとってきたロメールが、あえて観客の目を驚かせるためだけのイリュージョンをこの映画に限って用意したとは思えない。やはりこれは映画的・視覚的な真実を呈示しようとする一つの手法なのだと考えられる。御年81歳を数えながら、なお映画的真実を追求するにあたって冒険を恐れないこの若さ!ステキ過ぎる。ヴェネツィア映画祭では「その映画史に貢献しつづけた生涯に対して」金獅子賞が送られたそうで世間的には既に遺作扱いだが、オレ的にはあと100本くらい撮ってほしい間違い無く最強の現役監督こそエリック・ロメールその人なのである。オリヴェイラより長生きして下さい!
ところで上映前の予告編では個人的に大注目のものが何本か・・。最近大活躍の夏川結衣に、自分的外角高めゾーンで確実にストライクする内山理名という食指大鳴動なキャスティングの一本が長澤雅彦監督「卒業」。これは見ざるを得まい・・。そして何度か既に予告を目にする機会はあったが、そのたびに注目度を増してきた韓国映画「猟奇的な彼女」。トム・ティクヴァの新作「ヘヴン」もケイト・ブランシェット/ジョヴァンニ・リビシという「ギフト」の名演が忘れられないコンビに注目が集まる。あとはロビーでのチラシゲットでしかないのだが安藤尋監督「blue」(原作・魚喃キリコ)はどうあっても見なければ済まないし、それに並ぶ少女漫画原作映画で期待度ナンバー1「ラヴァーズ・キス」(原作・吉田秋生)も見逃すわけにはいくまい。ちなみにどちらも市川実日子が主役級で出ているのだが、何かあるんスか。「非・バランス」冨樫森監督の新作もあったような・・。それにしても気になるのはロジャー・エバートが「ロビン・ウイリアムスの演技そのものがストーカーだ」と評した「ストーカー」。映画が気になるというより、映画の宣材として配付されていると思われる劇場スタッフ用ネームプレートが気になる。名札に「ストーカー」なんて文字を刷り込むのは、健気に働いてる女性スタッフに失礼というものではないのか?とか言いつつマックの「トレーニー」「トレーナー」みたく「ストーカー」っていう肩書きがあったら面白いな、とちょっと思ってしまった。(他スタッフのビーフパティの焼き加減を物陰からジッと見つめ、ときには隠しカメラで写真を撮ってそれをスタッフルームに貼りまくる、そんな店鋪経営上欠かせない職掌が「ストーカー」である!・・ってまんざら存在しなくもないような・・)
帰宅前に銀座HMVに寄る。ヒコックス叙勲CDで惹かれたロッシーニの「スターバト・マーテル」、メンデルスゾーンの「パウロ」もしくは「エリヤ」、それからフィンジあたりが目当て。HMVはEMIダブル・フォルテの990円セール中で、「スターバト・マーテル」はムーティ盤にて入手。ホントはチョン・ミュンフン盤が欲しかったのだが・・。他にダブル・フォルテシリーズではヤンソンス指揮のショスタコーヴィチ交響曲1・10番。オレの中でショスタコの交響曲中最高傑作である交響曲10番はヤンソンス盤が初体験だったのだった。あと、プレヴィン指揮のベルリオーズ「レクイエム」と幻想交響曲。メンデルスゾーンは、「エリヤ」「パウロ」がセットになったヘルムート・リリング盤が1,590円という出物であったのでこれを購入。さらにナクソスの新盤でフィンジの合唱曲集「見よ、満ち足りた、最後の犠牲を」他を入手。HMVのPOPでは「フィンジはわが国ではわずかに合唱関係者などに知られるのみですが・・」とあるが、大学合唱団現役のころはフィンジという名前すら知らなかった。男声合唱団ってやっぱり世界狭いのね・・。いきなり第一曲「神は昇られた」から途方も無い輝かしさに包まれる、なかなかナイスな一枚。最後に"GREAT
CONDUCTORS OF 20TH CENTURY"シリーズから、マーラー「復活」が入っているバルビローリ特集盤を。ああ、こういうのを安楽椅子に座って日がな一日ゆっくり堪能できる時間的余裕と音響設備がもし得られるなら・・。もう結婚できなくてもいいや。(仮定以前に能力的に不可能という話も)
■1/19(日)これが娯楽映画の息遣いというものだろう・・「次郎長三国志 次郎長初旅」。
それを今見る事ができるという事を知った以上、どうあっても見るしか無いというものといえば、PM4時台におけるかげろうお銀の入浴シーンから、昨日よりユーロスペースでやっているロメール特集上映まで色々あるが、その中に確実にリスティングされるのがコレ。現在中野武蔵野ホールでモーニングショー上映しているマキノ雅弘監督「次郎長三国志」シリーズある。昔フイルムセンターで「殴り込み甲州路」か「海道一の暴れん坊」、もしくはその両方を見たことのある自分としては、コイツは絶対に楽しい!というなかば信仰に近い確信があるため、AM10:00よりの映画を見るには明らかに寝坊だったにも関わらず、起床10分で武蔵野ホールにかけつけて無事に見ることができた。タイトルのとおり、娯楽映画の呼吸というものを知り尽くしたマキノ演出に安心して任せていれば100%楽しめる傑作である。それにしても若山セツ子がヤバいくらいカワイイ。今日びの女優でこれに匹敵する可憐さを持っている女はいないと言える。しいて言えば長谷川京子か!?・・・いや、この回答には著しく趣味がにじみ出ているような・・。
ブロードウェイの明屋で「風雲児たち」9巻を買う。田沼意次失脚と大黒屋光太夫がロシア本土へ渡っていくくだりが平行して語られる。このへんは昔トムの単行本コミックスで読んだあたりだな。それにしても、コミックトムって何で無くなっちゃったんだろう?安彦良和「虹色のトロツキー」、坂口尚「石の花」、手塚治虫「ルードウィヒ・B」(未完)そして「風雲児たち」と、自分が漫画という表現形式におけるベストフォームと思う作品の何本もがトムの連載作品だった過去を思うと、"幸福は失われて初めて気づくもの"という言葉が胸にしみる。なぜ当時、微力ながらでも毎号買わなかったのか?でもトムって版元が潮出版社なんだよねえ。池田大作先生の対談だのが載ってる「潮」とか出してる・・。やっぱり聖教新聞社的な存在なんでしょうね、潮って。
まんだらけで、長らく読み止しのままにしていた「加治隆介の議」の続きを読むべく16〜18巻までを購入。そして他の本も見てみようと棚を巡っていると・・「愛蔵版 オルフェウスの窓」全巻揃3,600円というのを発見→購入。もし未だに読んでいない方がいらっしゃったら悪いことは言わない、読み、そしてその面白さにハマりまくることをお勧めする。じっさい久しぶりに再読してみると、有無を言わさぬ強靱な筋はこびで読者をどんどん引き込んでいく池田理代子のストーリーテリングには、感心・感嘆・感動を超えてなかば暴力的なものすら感じる。最近の指揮者で例えるなら間違いなく池田理代子はゲルギエフに匹敵するであろう。愛蔵版第一巻のクライマックスはオペラハウスでの演奏を妨害されたイザークが、諦めることなく公園での野外コンサートという形でベートーヴェンの「皇帝」を弾くところではないかと思うのだが、昔は不勉強ゆえそんなことはなかったものの、今読むとこのシーンでは実に自然に頭の中で「皇帝」が鳴り響き、感動が倍する。高村薫の小説「リヴィエラを撃て」でもストーリー上重要なポイントでブラームスのピアノ協奏曲が演奏されるシーンがあり、そちらは何か音楽描写が浮いていて白けてしまったのだが、池田理代子の漫画描写では実に自然だ。恐らくは描写の上手さもさることながら、この漫画全体を支配する何か芝居がかった雰囲気が、ベートーヴェンの大袈裟な曲調にシンクロするせいではなかろうか・・。いい意味でですよ!一応言っとく。
深夜のWOWOWで、深作欣二の追悼番組として「バトルロワイヤル」をやっている。今、重松清の「ナイフ」を読んでいるが、この小説に描かれている「いじめ」像への違和感に対し、映画「バトルロワイヤル」の荒唐無稽さの中に結実している寓話的真実の説得力はより真実に近いものだ。
中学時代に、おそらくは「いじめ」らしきものの対象だった自分の身を振り返ってみてもそう思う。もうあの当時の詳しい事実関係などは忘却の霧の中に消えていこうとしているが、誰かの存在を否定することを踏み台に自分の存在を生き残らせようという欲求が、あの年頃の中学生の間には確実に存在し、その中で子供たちは生き残る術として「強さ」あるいは「卑屈さ」を学んでいくものだという事だけは確実に教訓として残っている。映画「バトルロワイヤル」は、そのような状況を寓話的に結実させたものなのだ。自分の子供だけはそんな境遇と無縁と信じている愚か極まる親たちのウケを取るためにどれだけ政治家が動こうとも、この映画は現代の中学生が見るべき映画ナンバー1である、と自分は見るたびに思いを新たにするだろう。それに何より、この映画はプラスの意欲を胸に植え付けてくれる点でも正しくジュヴナイル映画なのだ。深作欣二の最後の遺産は、遺作の名に全く恥じない傑作だったなぁ・・。と嘆息した後、この緊急放送のために、以前から見たいと思っていた巨乳もとい巨匠ラス・メイヤーの「ワイルド・パーティー」が放送中止になったことを知った。ちょっと複雑。
■1/16(木)やっと一巻終わりっすよ。
アイツもうそろそろ読破諦めたか?と一部では思われているかもしれない「失われた時を求めて」。だがナメんな!ようやく721ページの第一篇「スワン家のほうへ」を読み終わったぞ!多くの書店、たとえば中野ブロードウェイの明屋書店なんかではこの第一巻しか置いていないあたり、相当高いハードルではないかと思われる第一巻。多分第二巻以降と第一巻単体では印刷部数に格段の違いがあるであろう第一巻のハードルを、オレは飛び越えた!エッどんな話なのか要約しろって?無理です。
■1/15(水)コバケンの「ボレロ」。
なかのZEROホールにて日本フィルハーモニー交響楽団演奏会に行く。指揮は小林研一郎。プログラムは「モルダウ」/チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲/「カルメン」組曲/「ボレロ」という、超ベタベタな選曲だ。いやハッキリ申しますと私、「ボレロ」っていいと思ったことのない曲なんで、事実上本日のメインプログラムはチャイ・コン。ところが会社で会議が入り、「モルダウ」とチャイコンは聞き逃しという意気阻喪な展開に。なんというかこういうコトがあると、「いやオレ、そもそも今回の演奏会ってそんなに聞きたくなかったんじゃん?」とか思ってしまうんだが、そんな自分のあり方に疑問も。
それはともかく残りのプログラム。正直ビゼーの「カルメン」組曲って、きいてる最初は「Show byショーバイ」の「な〜にを作ってるんでしょう、かッ!」を思い出してしまうし、途中からはフランツ・ワックスマンが編曲した「カルメン幻想曲」の方が楽しいなァ・・とか何とか考えている間に曲が終わってしまった。気を取り直して「ボレロ」だが、これは意外と楽しめた。というのはこの曲、まったく同じ旋律を次々にオケの楽器がソロで受け渡していき、最後には全ての楽器による合奏に到る構成をとっているのは周知の通りだが、この受け渡し過程がライヴを見ていると(当たり前だが)手にとるように分かる。見ているうちに「次はどの楽器が参加するのかな」などといった具合に視覚的に楽しめるのである。この曲はもともとバレエ用に書かれた音楽で演奏会のためのものではなかったそうなので、この楽しみは作曲家の意図したものではないのだろうけど、まぁ勘弁して下さい。
コバケンは「あんまりアンコールというのは行っていないのですが、こんなにも皆さんのお心を頂戴しましたので・・」と、「ダニー・ボーイ」かハンガリア舞曲かと思っていると、学生時代に日大オケの「幻想」で聞いて以来のラスト30秒リピートという荒技を繰り出してきた。
「この曲の最後に、まるで急にパァっと光が差したように転調をする大変美しいところがあるのですがそこから・・」と、ラヴェルっぽくない描写でこの30秒部分を表現するマエストロ。リピート演奏は賛否両論あるようだが、オレはコバケンの、溢れる芸術性とバランスのとれたこのサービス精神旺盛ぶりが好きなので全肯定だ。「ハンガリーでは塩のことをショー、塩が足りないことをショータランと申します」という定番ギャグも聞けて満足。帰宅してからGoogleで「塩が足りない ショータラン」と検索したら何件かひっかかってきたのにも笑った。
■1/14(火)浜矩子。
BOOK
OFFで「ヒミズ」4巻=最終巻購入。マジで古谷実、天才。「銭ゲバ」以来の深い衝撃と容赦ないまでの同時代性に痛さ爆発。21世紀最後の傑作漫画かもしれん。
BS見てると、「激動の世界経済」というタイトルでハンガリーの情報産業が取り上げられている。ハンガリーと言えば思わず見てしまう体質がついている自分。マジャール人って優秀なんだなぁ・・。と思わせるVTRが終わると、今度出てきたこの人は一体ナニ人なんだ?というかなりインパクトある顔つきの、一歩間違うとSONOKOブランド使っていそうな中年女性が登場。たまに毎日新聞で「時代の風」とか書いてる浜矩子さんだ(ちなみに最新の記事は川勝平太!石原慎太郎とバトルってほしい感じの論調)。なんか、引田天功のマネージャーってこんな感じの人なのでは?と根拠はまったくないが思ってしまう。もしくは引田天功を影で操っている黒幕とか。(天功から離れなさい)なんて思いつつ検索してみると、けっこうこんなユルめのコンテンツとかにも顔出してますね。頑張ってユルくやろうとしてるっぽいところがカワイイ。「時代の風」は読んでますので頑張って下さ〜い。
■1/13(月)痛い106分。「SWEET
SIXTEEN」
今日はシャンテでロメールの最新作「グレースと公爵」見るつもりで家を出たのだが・・なんと!頭に入れていたタイムスケジュールが実は同じシャンテでやってる「シャーロット・グレイ」のものだった。いずれ見るつもりの一本ではあったのだが、前売券もゲットしてないので・・ってことで別の券買って他の映画見ようと、シネ・ラ・セットに転進しケン・ローチ監督「SWEET
SIXTEEN」を見る事に。ケン・ローチの映画は「カルラの歌」「マイ・ネーム・イズ・ジョー」とビデオで見てコレに来たわけだが、なんせ最近とみにビデオを真面目に見る事が不可能になっている自分でもあり、きちんと通してみる初めてのケン・ローチ長篇作品となった。(同時多発テロに捧げられた例の短編映画は、一応ちゃんと通して見ました)3本ともポール・ラヴァティという脚本家の手になる映画で、そのせいか何か続きものを見ている感覚。世界観がまったく同じ3本だからだろう。何やら窓の近くで逆光入りまくってるショットが印象に残るのも前の作品とカブる。そしたらつまんない映画なのかというと、いやいや、そんなことはない。主人公の少年は服役中の母親のところに、父親らしい男と祖父の二人に連れられてやってくる。家族の涙ながらの面会かと思うと、実はこの父親らしき男は母親にムショの中で麻薬を売り捌かせるために、息子を使ってばれないようヤクを母親に渡そうとしているのだった。薬の引き渡しを拒否した15歳の少年は、刑務所から帰る途中、道路脇の草むらでこの男に、メチャメチャに蹴りつけられる。この最初のシーンのためだけでも見る価値は十分あるだろう。この後もひたすら痛い話が106分続く傑作青春映画。それにしても貧乏イギリス人を描いた英国映画って多いなぁ。日本映画ってあんまりこういうのない感じだが、それは貧乏人が見れないほど劇場料金が高いから・・なのかどうかは不明。
■1/12(日)「E・T〜20周年アニバーサリー特別版」
WOWOWでスティーブン・スピルバーグ監督「E・T〜20周年アニバーサリー特別版」見る。ごめんなさい、実は通しでE・T見るのは初めてのインチキ映画ファンであるオレ。ようやく明日から「これだけ偉そうにアレがいいだのコレがダメだの言っておいてET見ていない自分」から脱する事ができるかと思うと・・、言うならばこれは贖罪の一本であると言えよう。何よりも惹かれたのは映画の舞台だ。都市近郊に作られた、人工性ふんぷんの丸い町・・日本で言うなら「ニュータウン」だが、そこに住んでいる特に生活に不自由のない中流家庭が舞台になっている。この舞台だからこそ主人公がETとの交流をとおして夢を見ること、冒険をすることが大きな感動をもって迫ってくるのだ。富を得、夢の消費大衆社会を謳歌していた'80年代のアメリカ家庭の中にあって、子供たちの冒険はどこにあったのか・・「それは宇宙からやってきた」という答えが出てきたのは実に必然だったのだろうし、素晴らしい着想だったと思う。しかし一方「それは宇宙からやってくるしかなかった」と考えると、何となく寂しい気持ちになるのだが・・それでもMTBでパトカーをまく子供たちの動きは見ていて本当に心踊るし、彼らが空を飛ぶ姿は胸を打つ。この映画はやっぱり傑作だ。
さて・・次の贖罪の一本はやはり「ニュー・シネマ・パラダイス」なのか?しかしこの映画、見てないという事を告白しただけで批判集中、あたかも凶状持ちのような言われ方をしたりするので、映画そのものに罪はないのに、何故か見るということを想像するだけで腹が立ってくるのであった。たかが映画の一本や二本、見てなくて何が悪い。
■1/5(日)まぁ釈ですよ。「ゴジラVSメカゴジラ」・・そしてドニー・バーンズ(オヤジギャグ爆裂英国人)
ワーナー新潟で手塚昌明監督「ゴジラVSメカゴジラ」見る。
最近のゴジラシリーズといえば、金子修介の前作もさることながら、「キングコング対ゴジラ」以来の巨大タコを出現させることで日本中の観客の唖然率を限りなく100%に近付け、間違いなく日本特撮蛸映画史上に重要な足跡を残した「ゴジラ2000ミレニアム」という大駄作が忘れられない。でもまぁ今回の映画はそんなに悪印象ばかりを残すデキではなかったような・・。ってどんな話だったか既にあまり覚えていないオレがここにいた。まあ釈が出ているのでそれを見れば良い、という意味で「修羅雪姫」と似たような映画です(ひで〜)。
夜、とある催しで・・ドニー・バーンズ&ニコール・バーンズの踊りを見る。ドニー・バーンズといえば「Shall we ダンス?」で竹中直人がマネ(最近では「リスペクト」とも)していたラテンダンス界の超大物ダンサー。実は「Shall
we ダンス?」を見たという以外にもダンスには接点があり、それというのは4年生の時に大学時代唯一とった体育の授業が「ダンス」だったということなのだが、当時サークルの先輩に「どうせ取るんだったら、ダンスだよダンス。他の授業ではあり得ない楽しさがある」というアドヴァイスに基づくものであったことを懐かしく思い出す。そして、まあ別に当初思い描いていたようなイイ思いなぞ寸分たりともできなかったものの、運動神経のない人間でも照れや羞恥心をかなぐり捨てるだけで他の男子にくらべイニシアティヴをとることができる環境はそれなりに悪くなかったことも・・。そんな回想を巡らしている自分の視線の先にあるダンスホールに、しなやかに躍り出た胸はだけ英国人一匹、こいつがドニーか・・。くねりまくる腰に対し絶対的な安定をみせ一直線に動く上半身。さすが世界級ダンサー。奥さんのニコールを迎え、デモンストレーションは好調。一曲めを踊り終えたドニーは司会席からマイクを受け取り、ひとこと
「ミーナサーマ、アケマシテ、オーメデトーゴザイマ〜ス」。
練習してきたなぁ、まぁ今日びウイーンフィルのニューイヤーだってこのくらいは言うから・・と思っていると、この後トークが続く続く。いや正直、コイツ本当は外人のマネをしてる日本人なのではないかと考えてしまった。
たとえばルンバ・・
「ルンバ、Dance of Loveネ・・デスカラ、愛シマ〜ス。ニコちゃん(←ニコール)ノコト、愛シマース。
オオ・・・ニコちゃん、アイ、ラヴユ〜、アイ、ウォンチュ〜。
アイ、ニージュ〜。アイ、サンジュ〜、アイ、ヨンジュ〜。」(二十,三十,四十)
オヤジだ!日本人のオヤジだ!!いや、この英国人の唇から紡がれているのは、まさに日本人のオヤジ以上にコアなオヤジギャグだ!!!ダンスに対してよりオヤジギャグに対して親和性を持っているオレにとっては、このMBE(名誉大英勲章五位)叙勲者から繰り出される日本語オヤジギャグこそ、なによりも感涙の対象なのでありました。(このような状況を指して古人は「猫に小判、豚に真珠」と言い習わしたものである)
■1/4(土)年末最大のニュースとは?
高校時代の先輩二人とお茶&メシ。年末最大のニュースは・・という話になる。
「絶対コレだよ、『今上天皇ガンだった、しかも手術は全部自分の血。』」
寡聞にして実はこのガン報道、まったく知りませんでしたが、この後帰京した際、年末にポストされていた毎日新聞を全部ひっくり返し、天皇のがん報道についての記事を渉猟するも、自分の血だけで手術するという記述は発見できず。しかしコレを書いている1/19現在、術後の経過を報道する記事の中にようやく「事前の自己輸血1100ccで間に合った」という記述を発見。
「やはりホントだったのか・・」
天皇、それは現代に生きる神話伝説。その御血管には神の血しか流れちゃいけないんですなぁ。なんせ玉体っスからね玉体。
■1/3(金)オイ石田、お袋さんのお呼びだゼ・・「紅の翼」。
WOWOWで中島康監督「紅の翼」見る。BS-iとWOWOWの共同企画「裕次郎フォーエバー」の一本というわけ裕次郎のスター映画なのだが、本当にこの映画でイイのは二谷英明だ。オレの中ではJRフルムーンと「特捜最前線」の代名詞だった二谷だが、この映画では実にクールに、抜けるような空に自由奔放に駆ける裕次郎の対極に位置する、業に縛られ地上を這いずり回る悪を演じていて大いに惹かれる。途中で単なる引き立て役になっていってしまうのがちょっと残念だが・・。裕次郎はまあ普通にスターしているのだが、彼の周囲をとりまくヒロイン含める女たちはどいつもこいつもどっか足りず、それを裕次郎が完全にバカにしているのも素晴らしい。タイトルはこの映画随一の名セリフ。
■1/1(水)あけまして「ピーターパン2 ネバーランドの秘密」と「K-19」。
ええ、あけましたってことなんですが実際にこの文章書いてるのは元旦よりずっと後の話でございまして・・。
元旦は日本全国、「映画の日」っつーことで1,000円均一ということになっております。なんで昨年は年明けに母と一緒に「スパイキッズ」という傑作を見たのでありましたが、今年はじゃあ「マイノリティ・リポート」でも見ようか(2回目だけど)、てな話にしつつワーナー新潟へ。しかし時間があわず、あろうことか「ピーターパン2 ネバーランドの秘密」を見ることになってしまった。正直言って元の「ピーター・パン」自体もよく見ておらず、なんかロビン・ウイリアムス演じる腹の出たおっさんがピーターの仮装をして空を飛び回るヘンな映画(スティーブン・スピルバーグ監督)くらいしかピーターパンの映像化は見たことがないオレ。はたしてこの映画で何かを得られるのか・・。時代は第2次大戦当時のロンドン。ドイツ軍の空襲下で息をひそめる、大人になったウェンディとその子供たち。母親が語るピーター・パンの物語を「そんなのただのお話でしょ、わが国は今戦時中なのよ」とかと大人ぶった意見を吹いて否定しにかかるウェンディの娘ジェーン・・。そこに何の脈絡もなくフック船長の海賊船が出現!ジェーンをかっさらってロンドンの上空をネヴァーランドに向けて飛翔していくのである。ビッグ・ベンの脇をすり抜けてぐんぐんと夜空に舞い上がっていくフック船の前に、ドイツ空軍の急降下爆撃機が編隊を組んで出現!・・すれ違う。ってすれ違うだけかよ!交戦しろ!まっとうな海賊なら威勢よく砲撃、十機・二十機くらい撃墜するだろフツー。映画なんだから。
正直、このロンドン上空飛行シーンは素晴らしく全編の白眉というべきなのだが、一発の弾丸も飛び交わないあたりにディズニー映画的な自主規制が見えかくれしてなんか鼻持ちならない。空想上の乗り物とリアルな兵器との空中戦、昔のドラえもん映画だったら確実にやってくれたスペクタクルではなかろうか。ジャイアンの草野球バットから打ち出される軟球が宇宙戦艦を撃墜(「のび太の宇宙開拓史」)するなどの、あまりにも爽快かつセンス溢れるシチュエーションを用意してくれた初期のドラえもん映画ならば絶対にアリだったと私は信じる。暴力性の排除とか子供への配慮とか、ディズニー的規則は山とあるのだろうが、実にバカバカしい。活劇が分別くさくなることほどつまらない話はないのである。
で、そんなジェーンがネヴァーランドに行ってからの話は実にしまらない。何しろ「ピーター・パン」の話をただアレンジして繰り返しやりましたヨ程度のストーリーなのである。フック船長の弱点は今度はワニではなくてタコになりました〜、って客をナメとんのか!?
この映画における市場は過去のピーター・パンからの逸脱を許さないオールド・ファンと、箸が転んでも笑う子供ばっかりだという前提をもとに行われた「ピーターパン2ストーリー検討マーケティング担当者会議」の光景を思わず想像してしまう(またも完全妄想ですが・・)。まあ、そもそも今更「ピーター・パン」の続編を作ろうっていう企画自体、リスクを避けて確実な興業を得ましょう的なセコい計画の結果なのだろうから、その中身が夢よ冒険よと口だけでは言いながらその実石橋をたたいて渡っているインチキ映画でも、不思議なことは全くないと考えるべきなのだろうが・・。オレならこんなソロバンで出来たような映画、子供に見せたくないね・・って、子供いないけど。ただ、ディズニーは人が空飛ぶ映像はとってもうまくって、ジェーンが初めて空飛ぶシーンとかではやっぱりちょっとホロリとさせられたりもしたことを付け加えておきます。
さらにレイトショーでキャスリーン・ビグロー監督「K-19」。この映画、ナショナル・ジオグラフィック・チャンネル製作ってことなんですが、まあ本当にそんな感じだよねえというデキ。つまり劇映画というより「再現ドラマ」って感じなのである。潜水艦映画というジャンルとは微妙に違う。そりゃ潜水艦映画というと魚雷戦、爆雷戦とか、深海における圧潰の危機と浸水とかっていう必ずあるネタがあるのだが、この潜水艦では原子炉のピンチのみ。これが劇映画だったら、舞台は発電所でもよかったかもなぁ・・。でもそうでないあたりが「A
TRUE STORY」印のゆえんといったところなのであろう。あまり起伏なく、そこそこの感動しつつも流して見てしまう。地上波テレビ放送向けって感じであろうか。なにげに音楽はオケがキーロフ管、ゲルギエフが振っている。音楽そのものがあまり魅力的でないので、立ってない感じなのだが・・。
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