更新日記&徒然草。→トップページはこちら
■1/26(水)
 図書館から借りた秋山邦晴「シネ・ミュージック講座〜映画音楽の100年を聴く」読了。てっとりばやく映画音楽史を概観できればと思ったのだが、著者は芸術音楽としての映画音楽の可能性を論じている人なもので、ハリウッドの映画音楽史にはあまり触れられていない。なんか「職人仕事」っつーカテゴリでばっさり斬られてるみたいである。そんなわけで当初期待していた内容は読めなかったものの、初期映画史における映画音楽、オネゲルやサティの追及した映画音楽のかたちにせまるあたりは実に面白いし、何といっても後半に収録されている武満徹との対談が面白い。「狂った果実」で、それまで歌なんか歌えないだろうと思っていた石原裕次郎を唄わせてみるよう中平監督に進言したのが、実は武満だったとか…生涯90本を超える日本映画音楽を書いてきた武満は、実は日本映画の貴重な証言者でもあったわけである。リヒャルト・シュトラウスの「ばらの騎士」が実は当初は映画音楽だったなんて話も。すごいぞ、タケミツ。というわけで一読の価値あり。(またかよ!)
■1/25(火)
 2月の「芸術新潮」にはヤラレた。「特集・仰天日本美術史『デロリ』の血脈」だ。もう表紙のコピーからしてすごいぞ。
 「『ワビ・サビ』なんかブッ飛ばせ!日本美術に脈々と流れていた強烈で、エグく、妖しく、ギトギトの血…それが『デロリ』だ / 常識的な美に飽きた全ての“デロリスト”たちに捧ぐ、革命的デロリ宣言!」
 責任編集の丹尾安典教授は早大美術史きっての名物先生だが、第一章から第四章まで、めくってもめくっても書いてるのは丹尾安典。堂々60ページ全部丹尾ワールドである。でも、これが並の筆者なら平板になるところだろうが、奈良彫刻から明治の新聞錦絵、水木しげるから葛飾北斎まで縦横無尽の作例をかけめぐりながら、日本美術史中のケバい、グロい、エグい味わい(これが岸田劉生の論じるところによれば「デロリ」の美なのである)を取り出して、縁日の寅さんもかくやの名口調で解説してくれる、素晴らしい雑誌特集となっている。
 (近代日本の洋画について)「西欧を移入しているようでいて、結果はかえって土着的風情がくっきりとさらけだされてしまっている。(中略)このギャップ、音楽方面でいうなら、ビートルズの『イエロー・サブマリン』と、かつて民謡歌手・金沢明子が唄った『イエロー・サブマリン音頭』との間の差によく似ている」なんてあたりは爆笑だ。
 「芸術」なんて肩肘はらないで読み下せつつも、実は西洋的イデアの美に追随する形で跡づけられた「日本的美」の価値観に対して、そうではない強烈な美的世界が存在していたことを明らかにする内容はとっても刺激的。妖怪の画だとかが好きな人(オレだ!)には特にツボにくる特集であろうが、そうでない人にもかなり必読の内容である。日本美術にちょっとでも興味のある人は書店に走るべし。
■1/24(月)
 柏木博「肖像の中の権力」読了。第三部は、第一、第二部で読み解かれてきたグラフィズムと近代国家との関連性の問題を、この書が初刊行された1987年の時代状況の中において思索したといった、いわば応用編的内容で、アメリカのSDI構想なんかが出てきてなかなか懐かしいのだが、懐かしいということはいささか古びているということでもあろう。
 テレビというメディアに取り組んだ章でも、「八時だよ全員集合」から「たけしの元気が出るテレビ」にいたる過程で進行した視聴者参加のかたち等を指摘しているのだが、2000年にいたった現在その状況はもっともっと先鋭化し、芸人の素人化と素人の芸人化の交錯という混沌的状況にまでなりつつあるわけで、アップデートな内容としては食い足りないように思う。もっともそれは第一部、第二部に比べるからで、現代文化の中で同様あるいはそれ以上に重要にも関わらず、車が獲得したような特権的な記号性をなぜテレビは獲得できなかったのか、といった指摘は一考に値する。

 森まゆみ「明治東京畸人伝」(新潮文庫)はまだちょっと読んだだけだが、ハマる本だ。ひとつひとつの人物伝も興味津々だが、この本が素敵なのは単なるミニ・バイオグラフィーのアンソロジーにおわることなく、それぞれのエピソードが筆者の愛するオールド東京の空気につながっていき、何か明治東京のリズムが伝わってくる感じがすることなのだ。
 たとえば草創期の写真師横山松三郎が上野に写真館をひらいたくだり。「慶応四(1868)年独立して江戸両国元坊に写真場を開き、ほどなく上野不忍池のほとりに転住して「通天楼」を開設した。すると上野戦争の直後ということになる。陣羽織に刀で闘った戦場あとにすぐ、洋風の写真館ができるなんて、明治維新はなんだかおかしい。」
 おお、なるほど、たしかにおかしい。このように、こんな不思議な時代の雰囲気を「受信」することがこの本を読むことの快感である。そのことに自覚的な著者は調査分析の手をそこで休めている。これぞ第一級のワザであると感心するほかない。「まだ知りたらーん!」という人のためには巻末に「この本から広がる読書案内」という読書リストまでついている。素晴らしい気配りではないだろうか。
 気づけば半分くらい読んでいてしまいそうな良好な読み口にも関わらず、内容は実にじっくり書き込まれていて、肩までつかってどっぷり読み込める。今のところの印象は「快著」だが、「名著」の予感アリアリ。


■1/23(日)
 講談社学術文庫の新刊、柏木博「肖像の中の権力-近代日本のグラフィズムを読む」を読んでいる。タイトルはいかめしく響くかもしれないが、内容はまったくカジュアルに面白く読める近代文化史の好著という感じだ。いまのところ第二部まで読んだが、これまで登場した素材は江戸川乱歩の「少年探偵団シリーズ」の挿画、住宅の間取り図、バービー人形、旧軍の広報誌「FRONT」のレイアウト、三越の広告イラスト、日清戦報といった具合で、種々雑多である。
 こうした大衆文化の中のイメージ群から、日本が近代化する中で思い描いてきた近代国家の理想的イメージの構造を読みとっていくプロセスは、実に読んでいて面白く、しかも分かり易い。キヨソーネの描いた明治天皇のポートレイトに関するくだりで、天皇のポートレイトが成人男性の撮るポートレイト写真の基本となっていたこと、そして近代日本がこれまでの庶民を「国民」へと馴致していく過程において、「天皇を見せる」ことこそが重要であったことを述べていくあたりは実に圧巻。猪瀬直樹の「ミカドの肖像」などが良かった人にはかなり必読な感じ。
■1/19(水)
 口コミでじわじわと観客を獲得している映画がある。「ナビィの恋」だ。こちらの耳に入る限りでは、映画にうるさい人から普段あんまり映画は見ないけど…って人まで、あらゆる人が誉めている。で、こりゃ行ってみるしかないねと思って行ってみたのだが、なるほどものすごい感動作である。沖縄で老人の恋なんて、ローカルでマイナーでしんきくさい話かと思っていると、そういうことはまったくない。歌と音楽と花と神話に彩られた南島を舞台にした寓話的恋愛物語。南島のパラダイス性をあくまでも明るくユーモアたっぷり、カジュアルに描ききったこの映画は、崔洋一の「豚の報い」でまるで満たされなかった南島への憧れをとことん高めまくってくれた。中江裕司監督は沖縄に住み、沖縄を舞台にした映画を撮り続けている映画人らしいが、これまでの「地方映画」的イメージ枠におさまっている映画ではなく、誰でもの心を揺り動かす映画になっているのは実に立派といえよう。キャプラの映画などが好きな人にはたまらないのではないかと思う。必見。
 そして、中江監督の次回作はなんとあの金城哲夫の伝記映画らしい。特撮ファンにはつとに有名なのに、一般にまるで知られていないのは実に不可思議という他はない異色の脚本家。テーマ的にも映画的にも、バリバリ楽しみである。   
■1/16(日)
 レオス・カラックス監督の新作「ポーラX」を見る。詳しい感想はcinemaのところで書いているので、興味のある方はそっちでも読んでほしいが、ちょっと頭よさげで周囲からもてはやされると、こんなふうに速攻袋小路に入ってしまうから世の中コワイわねー、というちょっとワイドショー見てるオバサンみたいな感想を抱いてしまうような映画であった。
 がまあ、この映画はまだそれなりに真面目にやっていたと思うのだが、その余勢をかって見た、これの一本前の「ポンヌフの恋人」、これがもう究極の愚作。ほとんど「ゴジラ2000ミレニアム」級に呆れまくった。これじゃ「ポーラX行くの?そんな金捨てるようなマネやめた方がいいよ」と言ってくれる友人がいるのもうなずける。ただまあ、「ポンヌフの恋人」でえらい目にあったので「ポーラX」を行きしぶっているという人には、「今回はあれほどひどくはない」と言ってあげることができるだろう。ただ、主人公の愚かさを根拠づけるために社会の最低層にいる人々を動員し利用しようとする白人優位的イヤミったらしさは健在で、「ポンヌフ」ではホームレスがそれに動員されていたが、今回はジプシーの人々とカルト教団の人々が動員されている。クストリッツァやトニー・ガトリフの映画が好きな人には恐らく相当不快だと思うので、やめておいた方がいいかもしれない。
 しかしホント最近ひどい映画に恵まれてるな…「ゴジラ2000」で終わりにしてほしかった。   
■1/13(木)
 「東京人」二月号が「神田神保町の歩き方Part2」特集を組んでいるので買う。e-ビジネスだITだと言われる昨今だが、そういう一方でいつまでもこういう商売の世界が存在してないと世の中つまらなくなるよなと感じさせる。
 たとえば、洋書の古書を扱う本屋で、いつも腰巻きにタイトルのまんま直訳が記されており、その直訳ぶりたるや、007シリーズの「ドクター・ノオ」が「医者はいらない」と訳されていたり…なんてことがあるのだが、「あの手書きの腰巻きを読むファンがけっこういたんだ、ぼくも好きだった」なんて語られていたりするのだ。
 そんなのを読んでいると、とにかく「圧倒的に正しい」と思ってしまうのだが、当然「正しい」には正しいにしても、「圧倒的に」まで思ってしまうというのは何故だろう、やはり世の中にシビアな雰囲気が漂ってきているからか?神保町をあつかった雑誌特集は売れるという一方で、やっぱり無粋な再開発計画なんぞも進んでいるようで、ここんとこご無沙汰の古書の町に向けて「スマン、近いうちまた行くから…頑張ってね」と祈念する気持にさせられた読み物でありました。
 
■1/9(日)
 バイト帰りで、なにげなく新宿のタワーレコードに寄ってみると、二年くらい前にロンドンから出た「不滅のバックハウス1000」シリーズが何の前触れもなく大量に積まれていた。孤高のベートーヴェン弾きで、池田理代子の「オルフェウスの窓」にも重要キャラクターとして出演しているピアニスト、ウィルヘルム・バックハウス。彼のベートーヴェン・ピアノ・ソナタ全集からの分売など、名盤の数々が一枚1000円という超安値でリイシューされたのがこのシリーズだったが、そろそろどこへ行ってもモノラル時代のブラームスとかしか見かけなくなっていた。それなのにこの大量陳列。どこかの在庫から引っぱり出してきたものだろうか?
 こんな金のない時期になんでこういうことしてくれるかなー!と思いつつも、ピアノ・ソナタのCDを二枚買った。これで13番〜29番「ハンマークラヴィーア」までは連番で揃ったことになる。今回買った二枚は第19番ほかの中期〜後期のソナタ集が入ったものと第15番「田園」などの中期のソナタが入ったもの。それにしても、あらためて音楽に開眼させられてしまうような名演揃い。ちょっと、いや、かなり無理しても残りの初期、後期のソナタも聞いてしまいたくなる。
 図書館から借りた鳥越けい子著「サウンドスケープ〜その思想と実践」(鹿島出版会)読了。カナダの作曲家マリー・シェーファーの提唱したサウンドスケープについては前から関心があったのだが(昔シェーファー作品の演奏に参加したこともありまして…)、まとまった本を読んだのはこれが初めて。で、感動というか、ほとんど新しい思考の地平が広がったような気分である。著者の「敢えて現代作曲家シェーファーにこだわる」姿勢は、サウンドスケープという思想が環境論とか教育、自治体の事業などの様々な分野に広がった現在、むしろマイナーに属するみたいなんだが、現代という時代における芸術の位置について少しでも興味のある人にとってこの切り口はすごく入りやすいものだと思う。で、これを読んでいて「そういえば」と思い、手元にあった渡辺裕著「聴衆の誕生」(春秋社)も読んだのだが、必ずしも有機的に連動する内容ではないとはいえ、音の中でも「音楽」に高い地位が与えられ、それがコンサートホールの中に閉じこめられた神話と化した時代である近代と、それが解体していき現代にいたる過程を論じたこの本の切り口は、サウンドスケープの志向した「音風景」の復権と対比してみると一層おもしろくなるように思った。ここに視覚偏重の文化である西洋近代文化を浮き彫りにするいくつかの文化史の成果を対比させると、漠然とではあるが近代文化のひとつの全体像が見えてくるのではないかと思う。詳しく書いていたら日記どころではなくなってしまうので止しますが、とにかくそれほど刺激的な思考を与えてくれる本二冊なのでありました。
  ■1/8(土)
 お屠蘇気分もすっかり抜けましたので、新年のあいさつを削りました。
 願書提出に健康診断書が必要なので、近所の医院に行って作ってもらったが、すげえテキトーなやり方でやってるくせ一万近くとられ、驚いた。X線照射ってよっぽどお金がかかるんスね。
 一月から、去年の夏くらいに契約させられた朝日新聞が届きはじめた。脅迫まがいの勧誘をされたのでクーリングオフした読売新聞とは別で、なんか疲れきったおじいさんによる泣き落とし系の勧誘だったので、これはとったのですが、旧世代の悪弊である新聞宅配制度とそれに依存する新聞社の利権体質にはあいかわらず最大級の反感を持ちつつも、一面に掲載されている連続インタビュー記事には感心した。日本、世界のキー・パーソンに21世紀について聞くというやつなんだが、おもしろい。特に一月三日づけに乗っていたエドワード・サイードへのインタビューは冷静な現状認識と読んでいて目頭が熱くなるような情熱が同居しており、感銘を受けた。「記憶の図書館」構想自体は後から考えてみると既にどこかで聞いていた構想のような気もするのだが、この人の口から発せられると改めてフレッシュに聞こえる。おそらく、思想が言葉づらだけでなく骨肉と化していないと、こんなふうには聞こえないだろう。いろいろ考えさせられる記事だった。
  ■1/2(日)
 「新年あけましておめでとうございます」メッセージをトップページにアップ。おめでとうございます。
 2000年問題でこのページもなくなるんじゃないかと思っていたが、大丈夫でしたね。それにしても、他国のみなさんのすげえミレニアム騒ぎに比べて、日本の新年はジミだなあと「カウントダウンスペシャル」とか見てると思います。2000年問題の影響で帰省する人が減ったとか…ビビりすぎだったか?という気がせんでもない。「西暦はキリストの暦で、こっちには平成って年号があるからな」という理屈もあるんでしょーが、それにしちゃ天皇誕生日には「今夜はイブイブ〜」とか言ってた気がするし。一貫性ねーなー。
 
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