預言者
1.概論
「預言者」は、本来「前の預言者」と「後の預言者」から成ります。
しかし、一般には「前の預言者(ヨシュア記・士師記・サムエル記・列王紀)」は「歴史」に入れられ、「後の預言者」であるイザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書・12小預言者が「預言者」と呼ばれています。
福音書が「律法と預言者」と言う場合、「前の預言者」と「後の預言者」から成る「預言者」を指します。
2.預言者
旧約聖書では、モーセも預言者と呼ばれています。このモーセの神の言葉を取り次ぐ働きの後継者として、その後の預言者が現れます。
モーセの直接の後継者であるヨシュアは、預言者とは呼ばれていませんが、契約更新に際して神の言葉を取り次ぎます。
士師も預言者とは呼ばれませんが、裁きを通して神の言葉である律法を取り次ぎます。
カリスマ的戦士も預言者とは呼ばれませんが、士師の1人であるサムソンは、神に捧げられたナジル人でした。このナジル人と預言者(ネービム)の関係に注目する考えもあります。(士師記16章)
また、同じカリスマ的戦士であるサウル王は、預言者集団と出会い預言する状態にとなり、人々から「サウルも預言者の1人なのか」と尋ねられています。(サムエル記上10章)
同じサムエル9章では、預言者がかつては「先見者」と呼ばれていたことが、この頃から恍惚状態になることだけでなく、神の言葉を取り次ぐ「先見」も「預言」と言われるようになったことが紹介されています。
もともと「預言する(ネービー)」には「狂乱状態になって叫ぶ」の意味がありましたが、後に先見者を含め、神の言葉を取り次ぐ人に適応されるようになったと考えられます。
預言者の預言は、楽団による楽器に合わせて行われたと考えられ、楽団を持つ預言者集団は、人々や王の求めに応じて預言をした職業的預言者と考えられます。(列王紀下3章)
3.聖戦
預言者によって指名された者は、「君(ナーギード)」と呼ばれます。(列王紀9章16節)
この「君」が民衆から迎え入れられた時、その人物は「王」になります。(列王紀10章24節)
「王」が民衆から遊離し、預言者に聞かず、聖戦を果たさない場合には、預言者によって排斥されます。
戦いに勝てないことも、外国と宥和政策をとる事も、経済政策の失敗も、ある時には排斥の理由になりました。
ダビデとその子孫によって続く南ユダ王国には、王家を擁護する宮廷預言者、王家のための王宮付属神殿と祭司が現れます。
これに対し、部族間抗争が続き、世襲制を取れなかった北イスラエル王国では、真に力を持つ者が預言者によって「君」とされ、民衆に迎えられて「王」となる形が残され、それをエリヤ・エリシャ物語りの中に見ることができます。
4.エヒウ革命
北イスラエル王国のアハブ王(オムリ王朝)には専門の預言者集団が仕えていたことが書かれています。(列王紀上22章)
エリヤ・エリシャは、外国と宥和政策を取るアハブ王(オムリ王朝)と対峙し、エヒウ革命を指導しました。
しかし、この革命によって北イスラエル王国は孤立し、シリアとの戦いに明け暮れます。
このエヒウ革命は、その後、エロヒスト(E)と呼ばれる人々に影響を与え、アブラハムとモーセの預言者としての像、イサク物語り、金の子牛物語りにその痕跡が見られます。
エロヒストによる資料作成は、エリヤ・エリシャ物語りが編集された時と同じく紀元前8世紀、北イスラエル王国においてです。
5.アモス
エヒウの孫ヨアシの時、シリアの衰退と共に北イスラエル王国は回復し、ヨアシの子供ヤラベアムの治世に入り、繁栄の時を迎えます。
このヤラベアムの治世の後半、北イスラエル王国の聖所ベテルにアモスが現れます。紀元前755年です。
アモスは祝いの祭りの最中に、イスラエルが滅びる預言をします。
アモスが批判する相手は、貧しい者の土地を奪い、彼らの権利の回復を行わず、法廷を支配し、解放と救いを祝う祭りを盛大に行っている人々に対してです。
アモスは聖所ベテルの大祭司アマツヤによって追放され、その後、アモスの預言活動は弟子たちによって記述されます。
アモスは、その預言活動が初めて記述された「記述預言者」です。
6.ホセア
ホセアは、ヤラベアムの治世末期からエヒウ王朝滅亡、北イスラエル王国滅亡の時まで約20年間、北イスラエル王国で預言活動を続けました。
その預言活動は北イスラエル王国滅亡後に南ユダ王国で記述、編集され、南ユダ王国での加筆が見られます。
預言の保存状態は悪く、1章−3章がホセアの預言のまとめ、4章−14章は年代順のホセアの預言と見られています。
ホセアによれば、北イスラエル王国では共同体を崩壊させる人々の行為が続き、政治の混乱も限界に達しています。
アッシリア帝国の勃興は、小国には重い課徴金となって現れ、人々の右傾化と屈辱的な王への反乱を呼び起こしました。そして、3年間の抵抗の後、サマリアがアッシリア帝国に滅ぼされ、北イスラエル王国は滅びました。
ホセアは、神に守られているはずの北イスラエル王国(王朝・王家)の滅亡だけでなく、神に守られているはずの神の民の滅亡を語りました。
国が滅ぶだけでなく、その根幹をなしている民族・部族の滅びとそこからの新しい出エジプトを語りました。
それゆえ、ホセアの預言には古いイスラエルの伝承が使われており、ヤコブ伝承、預言者モーセの像が特徴です。
7.イザヤ
イザヤの活動は、ウジヤ王が死んだ年(紀元前742年)から、センナケリブのエルサレム攻城の年(紀元前701年)までです。
イザヤ書は、第1イザヤ(1−39章、紀元前8世紀成立)、第2イザヤ(40−55章、紀元前6世紀前半成立)、第3イザヤ(56−66章、紀元前6世紀後半成立)に区分されます。
イザヤ本人の言葉と考えられているのは、1章−39章までですが、24−27章は紀元前3世紀のものと見られ、34−35章は第2イザヤの文体に似ており、36−39章は列王紀18章以下(イザヤ伝説)と同じ文章です。
イザヤは、エルサレムの祭儀と支配者階級の堕落を非難し、審判を通してのエルサレム神殿とダビデ王朝の回復を語りました。
イザヤの召命の10年前に、北イスラエル王国にはアモスが現れ、大地震が起こり、エヒウ王朝が倒れ政変が続き、アッシリア帝国がその覇権を広めようとしていていました。
アッシリア帝国の影響は、反アッシリア同盟で対抗しようとする北イスラエル王国と、アッシリア帝国の庇護の下で生きようとする南ユダ王国と言う形で現れ、その結果、北イスラエル王国はアッシリア帝国に滅ぼされ、南ユダ王国はアッシリア帝国に隷属させられました。
イザヤは、9−10章にかけて、事の重大さを十分には認識していない北イスラエル王国がたどる道を示し、7−8章と10章以下で、このような時に宥和政策を取ろうとする南ユダ王国の危険性を語りました。
イザヤは、その後半生で、ヒゼキヤ王の背後にいて国政に関り、一貫して南ユダ王国が反アッシリア運動に参加することに警告を発し、自国の武力や同盟に頼らず、中立外交に徹することを進言しました。
イザヤは、目の前の政治状況に動かされることなく神に信頼すべきで、自分の力を過信し傲慢に陥った国は、たとえ世界を支配してもすぐに滅ぼされると語りました。
センナケリブのエルサレム攻城は、ヒゼキア王の降伏によって終わりましたが、南ユダ王国は荒廃し、それを目にしつつイザヤの預言活動は終わります。
8.ミカ
ミカはイザヤと同時代人で、エルサレムから南西30キロにあるモレセテ・ガテから預言活動を開始しました。
ミカは、地方での支配者階級の横暴とそれによって搾取されている民衆への同情を語り、偽預言者を批判し、イザヤの預言を越えてエルサレムの徹底的な破壊を語りました。
ミカの預言活動は、長老たちによって良く記憶されており、その100年後、エレミヤが神殿でエルサレムの破壊を語り、群衆から殺されそうになった時、ミカの預言が引き合いに出され、エレミヤの弁護がなされています。
4−5章はイザヤの流れを汲むグループによる加筆、6−9章には申命記的な表現が多く、7章の預言は捕囚後の加筆と考えられています。
ミカの故郷モレセテ・ガテは、センナケリブのエルサレム攻城(紀元前701年)の時、エルサレムを守るために建てられた他の町々と共に滅ぼされました。
9.エレミヤ
エレミヤの預言活動は、アッシリアの衰退によって時代が変わろうとしていた紀元前627年に始まります。
エレミヤは召命に際し、「北からの脅威」と「北への呼びかけ」を語りました。
ヨシヤ王による申命記改革に際しては、エレミヤは地方聖所の全廃に積極的に賛成し、自分の出身地であるアナテトの者から殺されそうになります。
エレミヤは、地方聖所であるアナテトの祭司の子であり、アナテトは、かつてイスラエルの中央聖所であったシロの祭司エリの子孫アビヤタルがソロモンによって追放された場所です。
エレミヤの言葉には、北イスラエルの預言者であったホセアと類似した言葉が見られます。
申命記改革はその北イスラエルにも及びます。そして、アッシリアの衰退と共に、国土の回復が行われ、人々の民族主義は高揚します。
その中で、「北からの脅威」を語ったエレミヤの預言は人々から嘲笑され、非難され、迫害の中、エレミヤの第2の召命が行われます。
紀元前609年、アッシリアを助けるために北上して来たエジプト王を迎え撃ち、ヨシヤ王が戦死し、南ユダ王国はエジプトの支配下に入ります。
この年からバビロニアによる第1回捕囚(紀元前597年)までのエレミヤの活動は、エレミヤの書記バルクによって書かれ、「エレミヤ受難記」と呼ばれます。
南ユダ王国は一転して申命記改革と国土の回復を失い、エレミヤは、エルサレム神殿とダビデ王朝による南ユダ王国の終わりを語ります。
エレミヤの視点からは、イスラエルの回復にはエルサレム神殿とダビデ王朝は必要ではありません。イスラエルの民がかつて出エジプトを果たしたように、もう1度シナイ契約に生きる新しい出エジプトを果たすように語り、その期待を捕囚の民に置きます。
しかし、南ユダ王国は、そのようなエレミヤの活動を監視し、ついにはバビロニアへの反抗と王家と神殿を中心にした過激な活動によって南ユダ王国は滅びます。
こうして、かつてホセアが北イスラエル王国の滅亡に立ち会ったように、エレミヤは南ユダ王国の滅亡に立ち会います。
10.ゼファニヤ
ゼファニヤは、ヨシヤ王の時代に活躍した預言者です。
ゼファニヤの預言は3つの部分からなります。
第1の預言は、外国の風習にすっかり染まり、自分の利益ばかりしか考えない支配者階級に対して裁きが近づいていることを語る、ヨシヤ王による宗教改革(紀元前622年)以前の預言です。
第2の預言は、歴史を忘れて傲慢に振る舞う諸国民に対して、裁きが語られます。
第3の預言は、諸国民が裁かれたことを見ても悔い改めようとしないエルサレムの支配者たちに対して、最後の審判が行われることが語られます。
その後、イスラエルと諸国民がエルサレムに集うシオンの回復が行われると告げられています。しかし、この箇所は、バビロニアでの加筆と考えられています。
11.ナホム
ナホムは、ニネベが陥落した紀元前612年、ニネベをあざ笑う預言をしました。
南ユダ王国は、このニネベの陥落によって100年にわたるアッシリアの支配から解放されました。
ナホムは、このことを伝統的な預言者の語り口を使って語った宮廷預言者の1人だと考えられています。
12.ハバクク
ハバククは、ヨシヤ王が突然倒れ宗教改革が頓挫し、それを支持していた人々が苦境に立たされた時代に、どうしてこのような不正が行われるのかと神に問いました。
それに対し、神はバビロニアを送り、すべてを裁かれることをハバククは告げました。
13.オバデヤ
オバデヤは、エルサレムがバビロニアによって陥落し、それに乗じてエドムが南ユダを支配した時代に、その報いとしてエドムが厳しく裁かれることを告げました。
エドムに対して戦うように、人々に呼びかけている言葉と考えられています。
14.エゼキエル
エゼキエルは、バビロニアによる第1回捕囚(紀元前597年)の中にいた祭司の1人です。
もはや、自国の王や支配階級を自由に批判できたかつてのような預言活動はできず、幻という形で、象徴的表現を用いて、匿名で語らざるをえなくなります。
エゼキエルは、捕囚から5年後、エルサレムがバビロニアへの危険な反抗を企て、それに呼応しようとする捕囚民がいる中、バビロンで黙示という預言活動を始めました。
エゼキエルは、その召命に際し、神の天上での会議に参加し、人の歴史をとおして神がその意志を決定される秘密に預かります。
捕囚から6年目(紀元前591年か592年)に、エゼキエルは、エルサレムから神の栄光が去り、バビロンに移動した幻を見ます。そして、エルサレムに栄光を夢見る偽預言者と長老たちに向かって、罪の歴史ゆえに神の審判が行われることを告げ、ダビデ王朝とエルサレム神殿が捨てられることを語ります。
捕囚から7年目(紀元前591年か590年)には、罪の歴史は出エジプト以前にまでさかのぼることを語り、自分たちの歴史が救いの歴史であったことを否定します。
捕囚9年目(紀元前589年か588年)に、エルサレムがバビロニアによって包囲されたことを聞き、エゼキエルは語ることを禁止されます。
捕囚12年目(紀元前586年か585年)、エルサレムは陥落し、エゼキエルは「捕囚の民を見守る者」とされ、「悪人は神の意志を行えば生き、善人は律法を行わなければ死ぬ」と告げ、個人の決断によってしかイスラエル民族は生き残れないと語ります。
捕囚から25年目(紀元前573年)、新しい神殿の幻が与えられ、神の栄光が帰り、新しい祭司と新しい君が与えられると語ります。エゼキエルは、新しい祭司としてはエルサレム神殿の祭司であったザドク家の人々を考え、新しい君としては必ずしも、ダビデ王朝の流れを汲むエホヤキンの子孫を考えてはいないように見受けられます。
捕囚27年目(紀元前571年)、バビロニアはツロの攻略に失敗し、エゼキエルは北の国であるゴグとマゴグ(アッシリアとバビロニア、あるいはバビロニアと新バビロニア?)が、共に滅びることを語って預言を終えます。
エゼキエルは国や神殿によらない「個人の信仰」をはじめて語った、信仰集団としての「ユダヤ教」の創始者と言われます。
15.第2イザヤ
紀元前561年、バビロニアに捕囚されていたエホヤキンの名誉が回復され、その出来事を列王紀が述べて、閉じます。
紀元前547年、ペルシャ帝国のクロスが登場し、バビロニア帝国の北側を支配下に置きます。
クロスは自らを「解放者」と宣伝し、諸国民のバビロニア帝国への不満をうまく吸収し、紀元前539年にバビロンに入城し、紀元前538年、その言葉どおり諸国民に自国への帰還と宗教復興を布告します。
第2イザヤは、クロスがバビロニアの北に現れた時に登場した、無名の預言者です。
第2イザヤは、バビロンの陥落からクロスの布告までが書かれている40−48章と、預言者によって導かれて帰還し最初の定着までが書かれている49−55章までの2部に分けることができます。
この中に、「苦難の僕」を中心に「僕の歌」と呼ばれている4つの歌が配置されています。
この「僕」が誰なのかはよく分かっていませんが、第1回目の帰還民を導いたエホヤキンの子供セシバザルとも考えられています。
バビロニア捕囚中には、エホヤキンを中心とするダビデ王家はもはや神に見捨てられた人々と考える人々と、このダビデ王家を中心にふたたび国は再建されると考える人々がいました。
セシバザルは、人々のそのような嘲笑と期待を背負って登場し、エルサレムに残っていた人々と帰還民の間に立って苦闘し、再建と挫折のシンボルになっていったと考えられています。
16.第3イザヤ
紀元前538年、クロスは諸国民に自国への帰還と宗教復興を布告します。
紀元前529年、クロスがマッサゲダイの戦いで戦死します。
紀元前525年、クロスの子供カンビセスはエジプトを攻撃します。
第3イザヤは紀元前535年から525年の間に書かれたと考えられています。
神殿再建は進まず、独立を目指したメシア運動も挫折し、人々の間に幻滅が広がる中、第3イザヤは律法尊守を強調しました。
エルサレムが回復される希望が語られていますが、全体的には暗い社会的背景が人々をおおっていたことがうかがえます。
17.ハガイ
紀元前522年、カンビセズの後継者をめぐって争いが起こり、ダリウスが即位します。
紀元前520年6月から9月にかけて、ハガイは預言者としての活動を行います。
ハガイは、ダリウス王の即位に際し、ペルシア帝国の支配が動揺している中、人々に決起を促し、総督をしていたエホヤキンの孫ゼルバベルと大祭司ヨシュアに呼びかけ神殿再建運動を開始させます。
これは、単なる神殿再建だけを目指した活動ではなく、ダビデ王家による南ユダ王国の復興も目指していました。
しかし、この活動も挫折し、同じ時代のことが書かれているエズラ記には、神殿再建だけが合法的に達成されたことが書かれています。
18.ゼカリヤ
ゼカリヤも、ハガイと同じ紀元前520年8月から預言者の活動を始めます。
ゼカリヤは、神がエホヤキンの孫ゼルバベルと大祭司ヨシュアをメシアとして人々の上に立てられると語りました。
しかし、ゼルバベルは失脚し、大祭司ヨシュアだけが残り、その5年後の紀元前515年、第2神殿が完成します。
6章8節以下にゼルバベルの戴冠式が行われる預言がありますが、王冠を載せられるのはゼルバベルではなく大祭司ヨシュアに書き換えられています。
紀元前518年、ゼカリヤは再び預言者として立ちますが、その預言にはダビデ王家による王国の再建が困難なことと、それを支える預言者の活動が危険視され出したことが語られています。
19.ヨエル
紀元前515年に第2神殿が完成し、紀元前458年には、エズラがエルサレムに到着し、これ以後、メシア運動の担い手としての預言者の活動は見られなくなります。
ヨエル書は紀元前5世紀前半に書かれたと見られています。
1章−2章では災害に対する嘆きが語られ、3章ではすべての者に霊が降りることが語られ、4章では諸国民への裁きと終末的なイスラエルの回復が語られています。
預言者の活動が押さえられている中、周辺諸国から圧迫され、人々の生活は沈滞しています。
紀元前5世紀前半、ペルシャ帝国はギリシャへ3回遠征をしますが、ギリシャが次第にペルシャ帝国の周辺に表れ出したことがうかがえます。
20.マラキ
マラキ書は紀元前5世紀中頃に書かれたと見られています。
マラキは、律法が厳格に守られず、特に犠牲の祭儀がないがしろにされ、異教徒との結婚が行われ、結婚の契約が破られ、十分の一税が納められていないことを批判します。
マラキは預言者の活動が押さえられている中、エズラ・ネヘミヤの改革に続く預言活動を、黙示文学的に表明しました。
21.ヨナ
ヨナは北イスラエル王国をヤラベアムが治世していた時(紀元前786年−746年)に、預言者活動をした人です。
この書は、そのヨナの名前を借りて、紀元前4世紀前半に書かれたと見られます。
ペルシャ帝国の寛容な支配によって比較的自由であった反面、エズラ・ネヘミヤの改革によって信仰集団としてのユダヤ教が確立され、その律法主義によってふたたび選民意識が高められ、硬直した異邦人への不寛容さが生じていたと考えられます。
ヨナ書は、そのような不寛容さを風刺した書と考えられています。
22.第2ゼカリヤ
ゼカリヤ書9章−14章は、黙示的に書かれ、紀元前4世紀後半に書かれたと考えられています。
内容は、紀元前332年に行われたアレキサンダー大王による東征と、それによって生まれたプトレマイオス王朝とセレウコス王朝による支配が語られています。
その中で、諸国民との戦いや内部での権力闘争が生じたと見られますが、詳しいことは分かっていません。
全体的にエゼキエルや第2イザヤの預言との類似が見られ、ダビデ王家とエルサレムへの関心、預言者の過激な活動への警戒が見られ、柔和なメシアが語られていることが特徴です。
23.ダニエル
紀元前4世紀から3世紀にかけて、プトレマイオス王朝がパレスティナおよびユダヤを支配下に置きますが、この時期、メシア運動を担う預言者の活動はほとんど見られず、「預言者」は聖典化されます。
紀元前3世紀から2世紀にかけて、パレスティナの支配はプトレマイオス王朝からセレウコス王朝に移され、セレウコス王朝の王アンティオコス4世によってエルサレム神殿が荒らされ、ユダヤ教は迫害されます。
これに対し、敬虔な人々はマカバイ(ハスモン家)を中心にシリア帝国に戦い(マカベア戦争、紀元前167年−164年)を挑みます。
ダニエル書は、この時期に書かれたと見られ、聖典としては「諸書」に入れられています。
ダニエル書の前半の部分1章−6章は、ダニエルが資料として採用した紀元前3世紀の物語で、後半部分7章−12章が本来のダニエル書です。
この後半部分の幻は、抵抗を続ける敬虔な人々(ハシーディーム)を励ますために書かれたと考えられています。
前半の物語の部分と後半の幻の部分は思想的には似ており、ダニエルは前半と後半を対比させながら、必ずしもハスモン家の軍事指導に賛同していなかった敬虔な人々に、アンティオコス4世の迫害を終末的な苦難と見、近づいている神の審判に信頼するように語りかけます。
ハスモン家による軍事的抵抗は評価されておらず、迫害によって殉教した人々の復活と神の究極的な介入にだけ関心が示されています。