太田 敏夫


大正8年3月20日に長崎県に生まれる。昭和10年佐世海兵団に入団し、戦艦金剛乗り組みなどを経て
昭和14年1月に操縦練習生となる。太平洋戦争は初日から参加している。記録によると、ラバウル方面
での主な出撃回数は、61回におよびその期間の個人撃墜記録は15機となっている。空戦技量が抜群だった
ことから、指揮官の2番機につくことがおおかった。特に笹井中尉につくことがおおかった。戦死した
10月21日の空戦でも大野竹好中尉の2番機として出撃している。