「芸術」のオーラ
私は、自分を哲学的思索に駆り立てるような作品でなければ、あまり魅力を感じない。
何か超越的な力、神聖な次元からの働きかけを感じずにはいられない作品は、まずこの哲学的な思索の対象だろう。でもまず僕を作品の前に釘付けにするのは、
「虎」の気配だ。人間を創作へと駆り立て、どうにも踊りが止まらない赤い靴をはかせてしまう何かその「血のにおい」と何か殺気とか狂気に近いデーモンの気配である。
私は、これにも「芸術家の魂、悲しい性、業」を感じてしまう。そこには、まさしく芸術家として生きなければならない、そう生きずにはいられないという、神から与えられた刻印のようなものを見出すからだ。かつて中島敦は『山月記』で
「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」が人を虎にすると述べた。
才能に恵まれた人が、自分の天賦の能力の高さを自覚して自尊心を得るが、同時に、最強の才人たちと競争することによって自分の才能の限界が露呈してしまうことを恐れて孤立する。臆病風に吹かれて、才能は磨かない。
それならば学芸の道から離れて、市井の凡人たちと交わって楽しく暮らせばよいのに、自分の才能に頼む尊大さがそのような平凡さに馴染むことに羞恥心を感じる。ならば世をすね、斜に構えて孤立するばかりだ。
その主人公は、虎に姿を変えた後までも自分の隠れた名作かも知れない作品が世に伝わるよう友人に語って託すのである。
しかし、そんなものでは人は虎にはならない。いや、なれはしない。
たしかに「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は、人を破滅させはするだろう。しかし、それが作り出すのは、せいぜいよろついた野獣、はぐれ狼くらいなものだ。
人を虎にするのは、完璧な表現を求める芸術家の魂である。完璧な表現を求めずにはいられない
魂こそが、人間を虎にする。人間には可能であるはずもない「完璧な表現」を、なにかの拍子に垣間見てしまった、知ってしまった芸術家が、求め続けることによって、虎が生まれてくるのだ。
『無伴奏シャコンヌLE JOUEUR DE VIOLON 』
というフランス映画を思い出した。
主人公のアルマンというヴァイオリニストは、才能に恵まれて素晴らしい演奏をするのだが、練習で完成させた本来の解釈通りではなく、コンサートで聴衆の欲望に迎合してウケを狙った演奏をしてしまう自分が許せない。どんなに評判がよくても、欲しいのは自分が納得できる演奏だけだ。当然、演奏活動は、縮小していく。
やがて地下鉄の通路の音響のいいところを稽古場として練習に打ち込むようになる。練習にすべてを捧げた生活は、アルマンを浮浪者へと変えていく。これだという演奏法を見出したのに、みすぼらしい姿のアルマンには、もはやコンサートの機会をあたえてやろうというものはいない。
ただ来る日も来る日も、地下鉄の通路でヴァイオリンを演奏し続ける浮浪者。警察の取り締まりを受けて、ヴァイオリンさえ失ってしまう。取り締まりの私服刑事からすれば、物乞いのためにヴァイオリンの騒音を振りまいてる浮浪者にしか見えないのであろうが、警告を無視して引き続けるアルマンからヴァイオリンをひったくり、地面に叩きつけて踏みにじるのだ。
芸術に関心がない冷酷な人間に、楽器が無残に壊される場面は切なく、胸が痛む。それでも地下鉄の通路で譜面台を立て、存在していないヴァイオリンを弾き続けるアルマン。
彼の頭の中には、ありありとヴァイオリンの感触があり、美しく完璧な音色を奏でているのだ。存在しないヴァイオリンを弾き続ける
ヴァイオリニストの話を学生から耳にしたアルマンの友人は、もはや狂人と化したアルマンに実物のヴァイオリンをもたせてやる。バッハの無伴奏パルティータ2番のシャコンヌが流れる。今や本物のヴァイオリンを手にして自分の頭の中で完璧だと組み上げた音を響かせ(実際には、ギドン・クレーメルの名演が流れている)演奏し終わったマルマンの悲しいまなざしがアップになって映画は終わる。でもなぜ、アルマンのまなざしは悲しいのか?
どんなに完成されたものであっても、聴衆を前提しない演奏は空しい。それは、頭の中の演奏と同じだ。感動を共有できる
人と人との関係があって、はじめて音楽は現実のものとなる。アルマンの友人も彼にヴァイオリンを持たせてやっただけで、その境遇から救いだそうとはしなかった。感動の共有を求めない孤独な「完璧さ」の求道者であるならば、もはや音楽学校の教師としても無用であるからであろう。
神の前に出て、与えられた恩寵によって人間がこれだけのことが達成できたと示すことで満足できる信仰者なら、頭の中の演奏でもいいだろう。しかし主人公アルマンは神とさしむかいという関係で満足する信仰者ではないのだ。神を持たないアルマンは、虎になった。
不可能でしかない「完璧」を求めて、不純な要素にしか思えない聴衆や賛同、賞賛を捨て、孤立し孤立することで自らを存在の意味を消滅させる。人を楽しませたいという愛から始まる
もののはずなのに、愛を離れ、愛することすべてから背を向けてしまう。それでも、「完璧」を追い求めずにはいられないという業。それこそが、人を虎にさせるものである。
存在しないヴァイオリンを懸命に弾き続ける主人公アルマンの姿に、あなたは自分を見出さないか 胸かきむしるような自己投影を覚えないか?
恐ろしいことに、アルマンが一生をかけて取り組んだシャコンヌは、無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ2番の5つの楽章のひとつにすぎないのだ。バッハは、聖トマス教会のカントールとして毎日、事務書類を書くかのように名曲を量産し続けたのである。あの偉大なるマタイ受難曲ですら、
少年たちの不完全を云々するどころではない演奏で初演されただけで、十九世紀にメンデルスゾーンが苦労して再演するまで、バッハの生前はそれきり忘れ去られてしまったのだ。
それでも、神を相手に仕事をしたとしか思えないバッハは、勤勉に名作を量産し続けたのである。バッハの前には、映画の主人公アルマンも小さい。そして彼の聴衆のない完璧な演奏も空しい。彼の苦しい精進は、なんのためだったのだろう。
才能の存在というものは、恐ろしいものだ。才能は、その持ち主を芸術へと駆り立てずにはおかないし、人を虎へと追い込まずにはおかない。逃れようがないのである。芸術は、それ自身が自己目的化する危険を孕んでいて、
芸術の自己実現へ進み道を一歩でも踏み出して、作業がと始まってしまえば、その行き着く先までもが決まっている。
すべてが芸術作品自身の論理によって必然的に拘束されていて、作家本人としては自分の作り出した「文法」によって対抗することでもしなければ、自分なりの構築なんてことは思いも寄らない。しかも才能の大きさという刻印は、あまりにも決定的で、勝負は最初からついている。辛い話だ。
index