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銀座教会絵画展、及び横田節子をめぐる不思議の「美」


私は、かつて銀座教会が時折、開催している信者による絵画展で、

不思議な作品を見たことがある。

私は、研究テーマの関連で、よく教文館でキリスト教関係の専門書を探す。このビルにある喫茶部は、いかにも真面目で上品そうな教会関係者ばかりなものだから、とっても静かで一息つく休憩場所にはもってこいだ。
ここでコーヒーとパウンド・ケーキでブレイクした後、有楽町方面に歩き出すと、すぐ銀座教会があるというわけである。

私は展示された油絵をそれぞれ見歩いて、ある絵の前で立ち止まった。
向こうに山が見える荒れ野で、二人の女性が、立ち去っていくもう一人の女性を見送っている図だ。

「ルツ記」だと瞬間的に思った。

夫エリメレクに先立たれ、さらにマロンとキリオンという二人の息子にも先立たれたナオミは、モアブの地から故郷ユダの地、ベツレヘムに帰ろうと決意し、亡き息子の二人の嫁に別れを告げようとしていた。二人の嫁は声をあげて泣き、別れを悲しんだが、嫁の一人オルバは、ナオミの勧めに従って、自分の故郷に帰っていった。もう一人の嫁、ルツは、ナオミと別れることを拒み、共にベツレヘムに向かい、やがてそこでダビデの家系となる子孫を産む運命にあった。
題名を見るまでもない。この物語のオルバとの別れの場面だということが、この一枚の絵からハッキリと読み取れたのである。

ずっと見送るナオミとルツ、

行っては振り返り、手を振るオルバノ、この絵に描かれた手を振る場面の後は、オルバはきっと振り返ることを止め、涙を湛えつつ決然と自分の道を歩んでいくのだろう。「共に生きてきた、愛するナオミは自分の民、自分たちの神の元に戻っていく。ルツはそれに従う。しかし私もまた自分の民、神のもとに戻るしか居場所はない」。オルバはきっとそう思ったのだ。そういう物語が、まさしくハッキリと描きだされていたのだ。

近寄って筆使いを見れば、明らかに素人だし、構図もそれほどしっかりしたものではない。つまり、あまり上手ともいえない腕前なのだが、心に染み入る別れの哀しみと、そこに登場する人物たちも知らない大きな物語がこれから始まっていくのだということが、明らかに描きこまれていて、それがまごうことなく読み取れるのだ。

信仰深いこの絵の作者が、

一心に絵筆を進めているとき、きっとその手に添えられた、目に見えない超越的な力というものが働いたとしか思えない。
「実にいい絵。すごい絵」
それしか思い浮かぶ言葉も見つからず、この不思議な傑作を私はしばらく眺めていたのである。
こうした傑作を描いた当人は、自分の腕前を人に誇示しようとか、上手い絵を描こうなどとは少しも思っていなかったのだろう。画面からは、作者の自己顕示欲とかウケ狙いとか、斜に構えた技法上の実験の意図などというものは少しも感じられない。

そもそも「芸術」といった抽象理念に振り回される

要素などどこにもなく、聖書の中の感動的な一場面をただただ絵に描いてみたいという、実に純粋で一生懸命な気持ちがあるだけなのだろう。

しかし、そういうところにこそ、作者の意図を超えた、何か超越的で崇高な力が介添えした明らかな痕跡というものが見えてくるのである。
こうした作品の前に立てば、否応もなく頭を垂れるしかない。そこに実現されている奇跡のような表現にただ感動していればいいのだ。人間という存在の面白さは、こうした不思議な「美」というものを、ときどき不意に見せてくれるところにある。

私は、超越的な力量を感じさせる

芸術作品との出会いや、ことに、こうした意図せざる傑作、芸術作品との出会いにこそ、「たしかに神様という存在はあるのだ、しかも神様は人間を見捨てていないというメッセージをこういう形でときどき示される」と感じてしまう。

先日も、似たような作品に出会った。東京・銀座「ギャラリーゴトウ」で開かれた横田節子展(2008年9月22日〜27日)がそれである。

横田節子は、74歳の画家である。

水彩による抽象作品なのだが、安心してみていられる、実に老練なプロの作家らしい腕の冴えを示したものだ。
ところが、なんと彼女は60歳から産経学園カルチャーセンターの絵画教室で絵を学び始めた人だという。

60歳の手習いという事実に驚き、

逆に、「よくもまぁ、このような腕前、才能を持った人が美大、作家活動という道を通らずに、60年間という年月を絵画と無関係に暮らしてきたものだ」と驚き、呆れてしまう。

清冽ですがすがしい画面

悪しき衒いも自己顕示欲もなく、香気漂うような高雅な品格さえ感じさせる作品である。私は、彼女の腕に添えられた、何か高次元な力の気配を感じて、やはり頭を垂れるしかなかった。評論家が、評論することを忘れてしまう作品との出会いが確かにあるが、これもその一つであった。


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