加山亜矢子展を見て
浜辺にあるホテルの地上階に波打ち際近くまで張り出したデッキがあり、そこがオープン・カフェテラスになっている感じ。小テーブルの上に薔薇を活けた大きな花瓶を持ち出して、潮騒の音と初夏の陽射し、潮風の中で静物写生を決めこんだという、随分と贅沢なシチュエーションである。
さぁ、イーゼルを立てたらボサノヴァでも流してやろう。「コーヒーは少し後で持って来て」と頼んでおこう。花がなくても成立するほど遠景の海もいい。
薔薇・花瓶の静物も既に老練な手腕を見せている。一つの画面にこれほどの要素が豊富に描きこまれているあたり、まだ何も描いていないのに絵が出来上がってしまっている凡庸な作品とはまったく違う。よほど練達した師の薫陶を受けたのか、
新進にして、十分な大器の風格である。
しかしこの独特の雰囲気、痛烈な個性の気配はどこから来るのだろう。しばらく眺めていて気がついた。視線の不思議さなのだ。
われわれは、舞台を見ていても、普通、ただ主役の後ばかりを追いかけて焦点を当てて見ている。つまり作られたリアリティーの世界というのには、厳然としたヒエラルキーが形成されていて、その秩序がわれわれに安心感とを与えてくれるから、絵として見やすくなる。見る者は、画家が提示している世界観に追随するか反発するか、していればいい。ところが、この画面の薔薇は、主役の一輪だけに
焦点があたっていて他が脇役なのではなく、すべてが負けずに競演している。背後のボートも、遠くのヨットも気を抜いていない。いわば通行人役のエキストラでさえもが、この役を演じることでチャンスをつかもうと昨夜から眠れないまま役作りに熱中している、そんな舞台の雰囲気なのだ。
つまり一人の指揮者の下でヒエラルキーが形成されているオーケストラの音楽ではなく、強烈な個性をもったソリスト集団による弦楽六重奏を見守るような緊張感にさらされる、そういう絵なのだ。この一枚に描きこまれているのは
対象を見る者の視線なのではなく、描かれている様々な対象からの、「観客には自分がどう見えるだろう、いやこう見せたい、ちゃんと意図したとおりに見えているだろうか・・」と必死に役作りに専念し、観客の反応を注視する「演者」の視線を感じる。
一つ一つの薔薇が、見せたいとおりの自分に観客からみて見えているか確かめるような視線、つまりキャンバスの向こう側からの視線を感じる。われわれが「対象」としてしか見ていないものから注がれてくる視線、対象が持つ過剰な自意識、ナルシズムの気配・・私は、この視線の不思議さにたじろいでしまった。
対象への感情移入といった古い言葉では語りきれない、加山亜矢子は描かれる「対象」の心を知る作家なのだ。
index