熊谷宗一の古典性をめぐって
Gallery ARK(横浜・中区) 2006年12月18日−23日
最近の熊谷宗一作品を見た。油彩の少女の顔である。例によって熊谷らしい、過剰なほどの豊穣性をたたえた華麗な草花の装飾に埋もれた少女の顔である。
一見するとちょっと泣き出しそうな、可愛らしい表情をしている。ところが不思議なほどに複雑な
奥行きを秘めていて、眺めていて飽きない作品なのだ。
モナリザの神秘的な微笑を持ち出すようで、月並みすぎて言葉に困ってしまうのだが、熊谷は、古典中の古典に比肩すべきような生き生きとした人間描写に正面から取り組んでいる。その直球勝負の辛く厳しい選択に、決然と挑んでいる姿勢を目の当たりにしたのだ。熊谷の描く少女の顔は、
ラフカディオ・ハーンが描いた、“愛する者を失って、その辛く重い話を語るときに、はにかむように複雑な笑みを浮かべる日本女性”のような複雑さを秘めている。
「実は昨日・・」と語りだしそうな顔つきを眺めていると、実は少女などではなく、余裕のない苦しい笑顔を作るために少女のような表情、人間の弱さと自制心の絶妙のバランスを見せた大人の女性の、その一瞬をとらえたもののようにも見えてくる。
しかも熊谷は、明治初期の日本という異文化の霊妙さに接して驚嘆したハーンのように、初めて直面する理解不能な人間の表情を分析し、なんとかそれを説明し、作品表現として表出しようと苦闘しているかのようである。この徹底した客観性、
冷徹な表現技術の追求という、この絶妙な距離感の凄絶さには、頭が下がるしかない。これは大変な作品だ。
もともと熊谷は、とんでもない表現技術を持った実力派の作家である。
克明に一枚一枚の花びら、葉脈のリアルな描写を積み重ね、それを助走とするかのようにして垣間見せる人間の表情を導き出す。画面中のたった1cm四方たりとも手を抜いた部分がないように鮮明、克明なリアリズムを貫くことにより、全ての存在にフォーカスとスポットライトがあたっているという過剰性を生み出すのである。この絢爛豪華な過剰性が、
表現として一種の幻術効果を生み出し、見る者はイメージの氾濫にさらされて眩暈と戦慄を覚えずにはいられない。
「過剰」ということを独特な表現の「手段」としているせいか、熊谷の作品は、通常の作家なら十数枚に及ぶようなイメージと情報を描きこむ。これは大変な労力を必要とする創作活動であるし、見るわれわれとしても気軽にその前には立てない。今回の作品は、小品であるが、紛れもなく傑作である。
しかも熊谷は、もっとスケールの大きな傑作を世に送り出す力量をもった作家であると私は確信している。彼の作品は、もっと多くの人々に見てもらいたいし、またそうあるべきだと思う。もっと知名度と言うか名声を得てしかるべきだと思う。
そのためのことを考えて、少し注文をつけても許してほしい。
私は熊谷の作品を前にするとモーツァルトをいつも考えてしまうのだ。しかもそれは、一生を軽口と卑猥な下ネタをふりまいて過ごした軽薄なミュージシャン、永遠の肛門期の少年モーツァルトの姿ではなく、小林秀雄の名作評論『モーツァルト』に描き出された、“神童があまりにも容易に技術的困難を克服してしまうので、かえってさらなる困難を求めて五里霧中の努力に走ってしまう”という、重厚で哲学的なモーツァルト像である。
おそらくは、かつては神童としての名声をほしいままにしたであろう熊谷宗一は、小林秀雄の描くモーツァルトたらんと欲したであろうし、また周囲にそう期待されて過ごしてきたであろう。実際、彼はそれにふさわしい絵画表現の
ヴィルトゥオーゾになったし、華麗にして絢爛豪華な表現力を手に入れた。
しかしピアニストでいえばコンクール出場資格がまだない12歳で100年に一人の天才と賞賛され、コンクール前のデモンストレーションで出場者達を圧倒してしまったキーシンが大人になった後だとか、吉田秀和をして「これ以上何をお望みですか」と言わしめたショパンのエチュードを録音してしまった後のマウリツィオ・ポリーニの困難を考えるのだ。
40代となった熊谷宗一は、もっと弱さとか破綻を見せていい、悩める姿を見せていいし、もっと気軽な小品や遊び心を感じさせる作品があっていいと思う。
熊谷宗一よ、君の描く作品は確かに傑作ぞろいだけど、密度を高めることを優先して少しずつ小品になっていないか。発表点数が少なくなっていないか。私は夢見る。
どこかから強引なプロデューサー役が現れて、熊谷が秘匿して外に出さない気楽に描いたデッサン群や遊びで描いたカンヴァスを彼の家から奪いとってこないか、そして彼から、速描きで完成させた100号の油彩作品をひきだせないだろうか、と。
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