谷垣博子展を見て 洋画家谷垣博子が精力的に作品発表をしている。
現代日本美術会審査員・評議委員を兼ねるようになり後進の育成も視野に入れるようになったせいか、表現自体がさらに洗練されて、まさに脂が乗ってきた感じである。イタリアでの生活が長い谷垣は、
その日本人離れした鮮烈な色彩感覚を特徴としているが、このところの作品は、その色彩のキレに一層磨きがかかった。抽象絵画と見えるその画面は、外界の対象を分解したフォルムではなく、作家の内面から奔出するさまざまなイメージが微妙なバランスで画面を構成しているように見える。
人間の暗部や病的な心理をえぐり出すという方向性ではなく、美しい色彩で会場全体の空気さえも清冽で心地よいものに変えてしまうような力にあふれている。
大体、谷垣の作品は、抽象の画面構成の中に静物のイメージが配置され、画面の奥底からイタリアの街角の光景、
料理の香りや音楽、喧騒までが湧き出してくるものだが、今年の4月に新宿のギャラリー・カフェ・カトル・ヴァン・ヌフで見せてくれたのは、近年こだわっているハンガーにかかった女性の衣服のイメージだった。
浮かび上がるタンクトップやキャミソールのフォルムはあくまでも抽象なのに、女性らしい細部へのこだわりのせいか実に精緻なイメージを呼び起こす。奥から浮かび上がってくる暗い赤や群青色の服が、実際には仄かな色合いであるのに、なんとも鮮烈に美しく自己主張している。
しかし外見の典雅さにごまかされてはいけない。今回の作品には、イタリアの街角を描いた具象に近いものもあり、一脚の椅子を描いただけの小品もあるのだが、そうした表現には意外なほどの寂寥感があって驚かされる。作風はまったく違うが、「アウシュビッツのあとで、なお詩を書くのは野蛮だ」と述べた社会哲学者アドルノの言を受けて難民や社会的弱者の肖像を描きつづけるノルウェーの画家、ラインハルト・サビエの底冷えがするような風景画を連想してしまった。
谷垣はこのような風景画を描きつつ、あの美しい色彩を塗りこめているのだ。彼女の心地よい色彩は、
一種の思想である。彼女は、イタリア料理のオリーブオイルとガーリック、バジルやオレガノといったハーブ、ワインの香りに包まれた生活の中の小さな幸福をあえて「詩」として歌い上げる。それをあえてネイティヴ・スピーカーに近いイタリア語が聞こえてきそうな画面に構成することで、現実との距離感という批評性を忍び込ませているのだが、彼女は人間の暗部を告発し批評するよりも、あえて幸福なその色彩自体を現代に提示しようとしているのである。
だからこそ私は、彼女の叙情性を湛えた色彩の氾濫の背後に、プッチーニのオペラ、トゥーランドットの切なく盛り上げるアリアの響きを聞いてしまうのだ。静物の小品にさえオペラのドラマ性を
持ち込むあたりが、日本人、谷垣博子独特のデフォルメであり、箱庭的な小さな空間に放浪や旅愁を見出してしまう、いわば若山牧水的な感受性の繊細さにこそ注目すべきだろう。
どうか谷垣作品は、小品といえども少し離れてみてもらいたい。
画面からは、夕暮れ時のサンレモあたりの街角の料理やワイン、コーヒーの香りが漂い、かすかな喧騒や歌声までもが聞こえてくるからだ。耳を澄ますとカレーラスの美しいテノールが聞こえてくるかもしれない。
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