中島芳奈子展を見て この頃の日本画は、
みんな同じように見えてしまうのは何故なんだろう。
美術学校の学生達の課題制作が、どれもこれも村上隆の亜流にみえるように、日本画は二つの方向ばかりが目につく。
一つは、90年代以降、サブカルチャーの視点から芸術の存在意義を問い直す方向がメジャーになって、会田誠から山口晃へという流れにどんどん合流する作家が増えている。
「動物化」というキーコンセプトでポストモダン状況から現代を斬る評論家東浩紀氏の著書のイラストを担当した西島大介なんかでも見られるように、イラストから洋画の分野でもメジャーな流れである。
これは、時代のたしかな流れだから当然なんだけれども、背後に政治的な批評性やメッセージもちらつくし、なにより猫も杓子もではちょっと辛い。
もう一つは、美術団体の作品展カタログを見れば一目瞭然であるように、「このグループではこう描きます」という閉鎖空間の中での公式を墨守する流れだ。世の中がどうなろうと団体内での目配り・縛りだけに目を向けていこうという、官僚主義の末期症状のようなものだ。
どちらにせよ、それぞれの作家がいろいろな実験を試みているのだが、その工夫のレベルがミクロすぎて、マチエールも含めてみんな同じにしか見えない。
最近では、石膏デッサンからガラスの質感表現まで、基本的な技術は予備校でマスターしてくるから、大学ではいきなり「絵づくり」から始まるというけど、日本画の平面的表現や線描は古代のケルト語の流れにあるゲール語のように独特の言語のようなものだから、日常語とは違って、ネイティヴ・スピーカーとなるには子供のころからの修練が必要である。
昔の絵師のように
鉄線や隈取を物心つくころから描いて描いて体に染み込ませた成果のような作品には、もうとんとお目にかからない。しかも昔なら、そういう作品がいわゆる「芸術作品」なんかじゃなくて、趣味と美意識に敏感な人達の生活の場を満たす工芸品だったりするわけである。
人間の暗部や狂気をえぐり出すような批評性をもつような、いわゆる「芸術作品」は、美術館で覚悟を決めてちょっと見るならいいだろうが、毎日部屋の中で見せられてはたまらない。
バッハやベートゥヴェンの深い人間洞察を踏まえた作品が、毎日聞ける日常性を踏まえたものであるように、美しいけれどそれとなく含蓄が深く洗練された古典語を耳にするような日本画作品・・・こんなものに出会いたいものだ。
先日、銀座の「ぎゃらりぃ朋」で中島芳奈子展をみた。そこで、こうした日本画の閉塞性とはちがった、清新な風のようなものを感じたので、少し書いておきたいと思う。
中島芳奈子については、
以前に評論したことがあるが、作品にパワーがあって、何より若くして卓越した表現力を手に入れている作家である。
流派にとらわれずにレベル高い作家を結集することを謳っている現代日本美術会のメンバーであるだけに、上記のような流派の閉塞性や時流に棹差したサブカルチャー的な方向性とも隔絶している。
彼女自身、まだいろいろ実験を試みている最中のようだが、独自の世界がすでにある。なんといっても彼女の魅力は、
物凄く真面目な正統派であることだ。洋楽の分野でエンヤとかビョークが、自分の根源にある古代ケルト語に基づく音楽を追求しているように、中島芳奈子は日本画のネイティヴ・スピーカーになって、しかもマラルメ的な現代詩を朗読しようとしている。
一枚の作品を観てみよう。
「水辺」(F30号)は、文字通り水辺の草花と水の反映を描いたものだが、近づくと明快な線描なのに、ほんの少し離れただけで写真的なリアリズムを感じさせる腕の冴えを示している。
しかし写実に徹していながら画面構成もゆるみがない・・・というだけでは中島芳奈子らしくはない。写実の背後に充満している
豊富なイメージによって画面の中を多様に解釈させ遊ばせるというのが中島らしさだ。
この「水辺」の光景は、それ自体が水の反映のようであり、そのような庭を眺めている窓のガラスに映ったもののようでもある。茫漠とした記憶の中をたどって浮かび上がる光景のようであり、いやいや水の中から外の世界を見上げた視界なのだ・・・とも感じられる。
しかも、たしかに日本的な庭の一場面なのに、それがモネの日本庭園のようでもあり、ラヴェルの「水のたわむれ」やセヴラックの小品をバックミュージックに流していて違和感がないだろうというほどのモダンな軽やかさもある。
中村真一郎『女体幻想』の冒頭の部分、「あの深い沼の底から、からまりつく幾条もの藻の執拗な手のあいだを遁れ、のがれ、次第に水面に浮かび出てくる、水すましか何かに自分が変身していた感覚。・・・この闇に包まれている意識が、人間のものであることに次第に気づいて来ると、水すましの感覚の中から人間の体感が生まれ出て、それが現実のものとなって拡がって行くのが判る。その短い時の移り行きが、夢から覚めつつあるのだ、という自覚を与えてくれる」は、夢の中の自分から現実の自分へと意識が戻って、どちらが本当かわからなくなる「胡蝶の夢」的瞬間を描写していて、芸術作品を哲学的にとらえる論理として前にも引用したことがある一節である。
ところが、私は、中島芳奈子の画面に漂う陶酔感、時間の裂け目に落ち込んだような忘我の瞬間を経験してこれを思い出したのだ。ハイデッガーなんかを論じる哲学的な重い議論とは別に、中村真一郎の一節をこんなに軽やかに再解釈させることに私は驚いてしまった。
中島のとらえるリアリティーは、この葉の、この部分は雨の時の泥はねでできた染みがなければいけないし、ここに虫食いが・・・という必然性に埋め尽くされていて、いわば世界自身が明快な線を以って見せたがっている自分の姿に満ちている。ところが少しも息苦しくもなく、むしろ軽やかで繊細な音楽の遊びに満ちている。しかも世界は偏在する全体性だから、どこから見た視点ということもなく、多義的に解釈される多次元的なイメージによって構成されているのだ。
巫女のようにそれを神おろしし、
筆を以って絶妙なバランスにある画面に再現しているかのようだ。
日本画という古代言語のネイティヴ・スピーカーを目指す彼女には、見えない力の応援までありそうに感じてしまった。
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