関菜穂子展を見て 関菜穂子の女性像といえば、
モルフォ蝶の羽の輝きを想わせるような華麗な色彩の充満、陶酔感に満ちた筆致で知られている。たとえばノクターンでもショパンやフォーレのものよりも、ラヴェルの「鏡」にある「蛾」といった作品のような美しいだけでなく妖しい燐光を放つ「夜の音楽」が聞こえてくる作品。それもラヴェル自身の指導を受けた巨匠ヴラド・ペルルミュテールの端正で繊細で透明な演奏で聞くラヴェルを志向するように思っていた。
彼女の「美しく、美しく」という陶酔感に
満ちた表現の魅力は、誰しも認めているところだろう。
しかし、今回の個展では、関菜穂子は、新しい試みへと一歩を踏み出したようだ。人物を取り巻く花のような色彩の氾濫を極力避け、ヌードの人体表現それ自体に正面から挑戦している。いわばバッハの平均率クラヴィーアの演奏に取り組んだような印象だ。
こうしてみると関菜穂子の女性像は、意外に力強い。まだ粗削りな部分も見せているが、単純な線と筆さばきによって、ぷにゅっとした弾力と柔らかい肌の質感を現出させている。塗り重ねなくても、人体が生きている。
作家としての方向性の選択において、何か胆を据えるところがあったのではないかというような透徹した視線。人体に対する見方に深みが増した
という感じだ。彼女は、まだまだ人体の表現力が深まっていきそうだし、そこから、抽象論ではなく人間という存在そのものを問う絵画表現の奥行きが深まっていく可能性を感じる。
彼女自身、どれだけハ長調のフーガが弾けるか確認したかったのだろうが、こうした試みを重ねていくことはいいことだし、この方向性もいい。ときどきバッハに立ち返ることによって、フォーレ、ラヴェルの演奏が一層深まると思う。ペルルミュテール風の端正な演奏というのではなく、本物のペルルミュテールに成長していきそうな予感がする。
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