日本のアニメ映像と言語の問題
幽冥の境が錯綜した日本語の世界
『漫画人』誌のビデオ・レヴュー欄に、日本の人気アニメ映画『となりのトトロ』の英語版の批評が掲載されていた。その議論に興味深い箇所を見出だしたので、ここで検討してみたい。
宮崎駿監督の作品は、その質の高い表現力とエコロジーへの思想性によって海外でも評価が高い。ビデオ・レヴュー欄の評者テラ・ブロックマンも、宮崎作品のアニメーションの自然描写の美しさ、繊細さについて、具体的に水辺シーンの描写を挙げて紹介していた。
ブロックマンの『となりのトトロ』英語版についての批判は、原作が持っている感情表現の優しさ、微妙さ、複雑な奥行き、ユーモアが失われている点に焦点をあてている。原因は、翻訳の難点、声優の声質であるという。方言が消失して上品な言葉遣いになり、
饒舌と婉曲表現によって、原作が持っていた「土の匂い」が失われているのだ。このため登場人物の人間的暖かみや魅力、いじらしさが失われているというわけである。
ブロックマンが英語版の表現を批判した“The two sisters, Satsuki and Mei,are charming and cute, but in Japanese they also manage to evince acertain depth and seriousness, which is lost in the English.”という文で指摘しようとしているのは、ベストセラーになったマーク・ピーターセンの『続・日本人の英語』(岩波新書)の第1章で展開されている「英語にならない日本語」という、実際に日本で生活してみて体験できる「含み」の欠落である。言語の問題に焦点をあてた批評は興味深い。幼い姉妹の馬鹿ふざけに
見えるシーンでも、重病の母親が入院して不在だという背景を考慮すると、むしろ明るく振る舞おうとしている姉妹の「いじらしさ」(翻訳不能)が感じられるという。
おそらくは都会から母親の療養地に近い農村に引っ越してきて、戸惑いも寂しさもあろうが、物事をプラスに考えて明るく振る舞っているのだ。この点を十分表現した英語版にするべきなのだろう。しかし問題はこの先である。
「夢だけど…夢じゃない」というセリフが繰り返されて、日本語版では現実と夢の世界とが交錯し、神秘的な空間を構成している。英語版では幼稚な矛盾としてしかとらえられていないのはブロックマンの指摘の通りであるが、も同じ誤解を共有している。
これは、叙実法と叙想法を表現として峻別する英語と、両者に境がない日本語との言語特性の差異、またそこから生じる現実認識のあり方の差異とに起因している。
日本語の世界では、現実と夢の(霊の)世界とに境界がない。この点の認識がないブロックマンの議論は、『となりのトトロ』を川端作品や日本の少女漫画に共通する怪奇ものの系譜
で理解している点、限界がある。
『となりのトトロ』をホラー映画に分類したら、たいていの日本人は驚愕するだろう。でも、ホラー映画のわけないと一笑するにはアングロ・サクソン的論理以外が必要。
ブロックマンの理解では、映画のテーマは「病」「怪奇」「死」である。老木の精霊トトロは冥界の生き物である。サツキは、行方不明になったメイに冥界の生き物であるトトロに導かれて会う。そして冥界の怪物的乗り物、猫バスに乗って空を飛び、電線を伝って母親の病院の窓辺までいく。電気や電波のような存在に化したかのようだ。まだ生きている両親にはその姿は見えない。なるほど死の暗示は避け難い。
ブロックマンの理解によると、これは一種の霊界遍歴(ダンテのような)になってしまう。もちろん霊の来訪を感受する母親も、死が近いことが含意されることになる。『となりのトトロ』は、優しさ、愛、信頼、神秘をテーマとしながら、神話、魔法、宗教への畏敬を提起していることになる。
この解釈はこれとして、実に新鮮なものであるし、異文化の視点で見るとこのように作品に新しい可能性を与えるものかと感銘を受ける。しかしこの認識は、「日本的」ではないし、「日本語的」でもない。
折口信夫が強調したように、死者を含め不在者の視線が生者の空間に同次元で充満しているのが、日本の言語表現であった。この特性を理解しないと『となりのトトロ』が、ホラー映画になってしまう。この誤解を解くことこそが、日本語学習に重要であろう。
実は、トトロの空間は、きわめて伝統的日本のものである。それは、一体どんなものか? 伝統的日本の空間には、死者の息遣いが共存していた。
死者を含め不在者の視線が生者の空間に同次元で存在しているといっても、それは「魂の話だ。古代より日本の「魂」観は、現代人が思い浮かべる「幽霊」「ゾンビ」像とはかなり違ったものだった。西欧的な霊魂、悪魔、妖怪ともまったく違ったものである。まず魂は、物に付着して
どこへでも移動する。人が触れば、それには魂が付着しているそれどころか、事故や戦場に倒れた人の死に場所の石にはその人の霊魂が宿っていると考えるのである。
小竹の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば(万葉集巻2-133)
古代における「魂」は、気息=霊魂であり、その霊魂の姿は、人魂、風、雲、煙、かげろうとして現れ、はたまた鳥、昆虫となって登場した。とくに風と霊性の気配は密接であり、霊性のものの移動は、風となって現れた。旅行く山で古代人が野宿をする。竹藪が風に揺れてサワサワと騒ぐ。心は不安になるし、鳥肌が立って、何か霊的なものを意識しないのに体が感じ取って反応したのかも知れない。これは、なんとしたことだ。故郷に残してきた妻や恋人が、自分の不在を嘆いて溜め息をつき、魂はあくがれ出てやって来て、その霊の移動が風となり、この山の木を揺らしているのかもしれない。いやいや、不安に心震える自分のほうこそ、魂があくがれ出ようとしているのかもしれない。旅人は、妻が持たしてくれた領巾(ヒレ)を握り締めて、必死に鎮魂しようとする。このとき魂が遊離して
しまえるのは、それが一種の構成体だからである。
君が往く海辺の宿に霧立たば吾が立ち嘆く息と知りませ(万葉集巻15 -3580)
これは新羅への使節団の妻の歌である。「あなたが旅行く先で、海辺の宿に霧が立ち込めていて、船出ができない、足留めを食っているということがあったら、家に残された私が寂しくて悲しくて溜め息ばかりついていて、その息が霧となってあなたの足留めをしているのですよ。そう思って私を思い出してください」という意味である。溜め息が霧となって
相手のもとに現れるほど、魂には力がある。風を起こし、嵐となり山を揺らすことだって出来る。霊魂には理性がないけれど、感情、思いというものはある魂が、霧を呼び、風を起こすほど強い「思い」に駆られたのなら、それが物理的に相手を足留めしたり、危害を加えたりしないように鎮魂し、体内に戻してやらなければならない。それには歌によって「魂の「思い」を代弁してやって、納得させるのである。
魂の思いに、言葉を与えてやる、それが歌を歌うことの使命なのであった。個人のレベルではこれが重要なことであった。
しかし「思い」というものに言葉を与えるだけではなく、眼前の現象を解釈し直して、悪しき前兆を良き前兆に
言霊の力で変えてしまうという、重要な詩歌の機能があった。前述の歌だと、霧のために船出ができないという、外交使節にとっては国つ神の不同意を象徴する悪しき前兆に直面して、それを使節団のメンバーを恋焦がれる、いわば応援団の気持の現れに解釈し直している。言霊の力により、良き現実を創出するのだ。詩歌においては、霧を眼前に眺めている主体者自体、一幅の絵画の世界の点景に織り込んでしまう。
この歌自体が、共同体の
儀式的表現行為としての民謡であることは、万葉集の別の項に、「わがゆゑに妹嘆くらし風早の沖の浦辺に霧たなびけり」とあって、霧による船出不能を解釈し直して意味転換をしている歌があることからも推察される。
万葉の時代、柿本人麻呂のような宮廷歌人は、目に見えぬ魂、残る「思い」というものに言葉を与え、鎮魂し、良きものに解釈し直すということが重要な役目であった。
彼の作品が、彼個人の感情の吐露であると安易に理解するなら、古代の感性をとらえ損なってしまうし、実際、一見個人的感情の吐露に見えるものなのに民謡として共同体の儀式の歌であるものも多かったのである。
古来、日本語の空間は、現実も夢も、歴史も未来も同次元で呪力を発揮していて、少しも違和感がなかった。こうした言語表現と言語空間を考慮してはじめて、『となりのトトロ』が表現している世界が理解できるのである。楠の老木を前に頭を垂れるとき、
トトロの生息する世界が現実と交錯する。森の自然に包まれて心象風景を描こうとするとき、トトロの実在は、少しも奇妙には感じられない。サツキとメイの生息する世界も宮崎監督の記憶と願望の心象風景の現実なのである。それが、宮崎作品の世界である。
現実と夢とが交錯・共存し、自然と人間とに照応関係があり、言葉と事とが融即している日本語という世界を楽しむためには、「禅」ばかりを振り回していないで、日本人の自然崇拝、神道の心性について、もっと議論していく必要がありそうだ。
(本稿の要旨はアメリカの日本語研究雑誌MANGAJIN No.45 1995年6月に掲載)
世界を席巻した日本のアニメ制作の創造性
海外の日本のアニメ流行現象をめぐって 日本のアニメーション作品は、宮崎駿監督の一連の作品に対する高い評価に限らず、世界的に見て圧倒的な影響力を持っている。
例えばアメリカでは、漫画といえば「子どもが見るもの、程度の低いもの、コマ数の少ないショート・コント」という固定観念があったが、ストーリー性に富んだ長編の、いわゆる「劇画」という日本固有のジャンルがそれを塗り替えている。シュルツのピーナツ・ブックス・シリーズのように、スヌーピーやチャーリー・ブラウン、ルーシーといったお馴染みのキャラクターが活躍する4コマ漫画ではなく、オタク文化を形成するような、独立した文芸ジャンルにすらなっている。
加えて、従来の外国の子供向け漫画にはなかった暴力性、あるいはエロティシズム・猥褻性を以って日本製漫画の特徴となっており、サブカルチャーとして愛好するオタク的外国人の数も結構多いようだ。実際、フランスあたりでは、日本からの輸入アニメの性描写にある種の変態性(無目的な暴力性、ロリータ・コンプレックス、フェティシズムといった性倒錯)を認めて規制を加えようとする動きも見える。こうしたあまり名誉にならない
実状を脇に置くとして、日本発のアニメ愛好家の口にする、その魅力というのは、一つに、その場面描写の眩暈のするような多様性・頻繁さ、飛躍の劇的さ、あるいはカメラ・ワークのめまぐるしさにあるということがある。
たしかにわれわれの世代でも、『がきデカ』や『マカロニほうれん荘』が登場したとき、その脈絡のない唐突な場面の転換、ナンセンスな飛躍に「とてもついていけない」という印象を持った者もいたのであった。こまわり君が、「八丈島のキョン!」と叫ぶと、背景が波に洗われる磯になり、当人も「キョン」なる動物と並んでラインダンスをしている場面に急転換…なんていうのは、わかろうとしても仕方がない、わかろうという思考回路を遮断して、驚かずにどんどん通過していけばいいものなのである。
われわれにとっては、こんなに古めかしい昔話なのだが、これが外国人にとっては、二十年前の日本の大人が感じた以上に、目くるめく眩暈のする魅力的なカメラ・ワークに感じられるようなのだ。ここには、一つには現実描写と
想像が切断されることなく同次元に同居可能である日本語の「法」の問題に関っている。ヨーロッパ言語では、叙実法と仮定法を峻別するために、表現を見たら「これは、今、想像を述べている」ということがいちいち確認されてしまうことになる。だから構成をよほどうまく考えておかないと、「…という想像にふけっていた」というオチはつけにくい。
日本語では、語る「こまわり君」の横でアフリカ像が「パオー」と鳴いていても、あるいはバス停で待つ少女の横に老木の精霊であるトトロが立っていても論理の破綻がないのである。これは、きわめて大きな魅力だと言わざるをえまい。
ヨーロッパ言語のディスコースのありかたに引き比べて、日本語は合理的でないとする俗論がある。日本語の持つ論理的ワープを可能にするような「法」のあり方を考慮するならば、むしろ逆に方程式的にグラデュアルな論理展開しかできないヨーロッパ言語に比べて、未来的なコンピューターの在り方では日本語の創造性につながる問題がここに秘められているように思われる。
この点、私は、ニコラス・ネグロポンテが『ビーイング・デジタル』の第一部「ビットはビット」において日本語的な行き方ではデジタル時代には敗北が待つのみとして描き出したものを、第三部「デジタル・ライフ」の「デジタル・ライフの未来像」「電子表現主義者たち」の記述では、むしろ日本語のワープ可能であるという論理
の利点を認識してるようにさえ読み解きたい。
また英語などが持つ人称とカメラ・ワークとの密接な関係を考えると、日本のアニメ、とくに『機動戦士ガンダム』のように「カリスマ的ヒーローとしての戦闘用ロボット=実はモビル・スーツを着た弱点も備えた日常的人間=登場人物に感情移入=彼と我のなし崩しの同一」といった構造設定自体が、ヨーロッパ言語を操る人間には眩暈を起こしかねないインパクトを持っているはずだ。これが、第二の論点。
われわれの日本語には、基本的には人称代名詞というものがない。野口武彦が『三人称の発見まで』
において展開したように、語り部の視線から見たカメラ・ワーク、当事者の視線をなぞったカメラ・ワーク、上から全体を見渡すような鳥瞰のカメラ・ワーク、舞台を眺める観客席の後方からロング・ショットを回し続けるカメラ・ワーク、自分の立ち位置を超えて対象をクローズ・アップするカメラ・ワーク…これらを意識的に使い分ける観点が、ごく近代まで存在していなかった。そこで、ヨーロッパ言語を操る人間からすると、日本人の書く文章はどこに視点があるのか、誰の目から見たカメラ・ワークのなのか、てんでんバラバラでわからないということになる。
これが、逆に、日本のアニメの持つ、
目くるめく多彩なカメラ・ワークの根源にもなっているわけだ。
はるほど日本のアニメの魅力や可能性の一端が、言語という特性を背景にしていることが伺える。するとアニメやゲームを発信している日本の若者が発揮している創造性・可能性は、実は案外「日本語」という言語を背景にしているだけの、つまり日本語という言語の特性に外国人が慣れてしまえば薄れていくものにすぎないかもしれない。うむ、これは、楽観的に見ていられない問題である。
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