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中島早知子展

われわれはいかなる幻想をもち得るのか。
(銀座くぬぎ画廊 1996年12月)

幻想絵画というのは、近頃、とんと見ない。いや、「幻想的」に見える絵画にほとんど出くわさない。
実際のこの社会で起こること方がよっぽど現実離れしていて、われわれは、今さらどのような幻想を抱くことができるというのだろう。

一口に幻想といっても、

それは作者の人柄を反映した、いかにも…といったものが多いものだ。つまりパターン化して、いかにも精神分析の知見を導入してある性的な倒錯、暴力的なもの、閉塞感と寂寥感に満ちた孤独な世界…。ポール・デルヴォーのような不安な世界であったり、レオノール・フィニーのエロティシズム、あるいはゾンネンシュターンの象徴的寓意の世界など。でも、みんな昔に渋澤龍彦が『幻想の彼方へ』で論じてしまっている。いまさらマグリットやマックス・エルンストの亜流でもあるまいな。人間は、「自我」と称して脳の活動の結果である心的領域を小さく囲い込み、その結果、自分でも気づかなず、気づきたくなかった側面を忘れて日常の市民性を確保している。
実際、われわれの心的領域というのは、奥深い広がりがあるものだ。
自分に内在する、まがまがしくも不安と孤独に満ちた病的に攻撃的な衝動、性的な妄想。それを、幻想の表現として摘出する。そこに、いわゆる「幻想風」絵画のパターン化がはじまるのだ。無意識の世界を意識して描くというパラドックス。

でもそんな「自我」

というものの闇のなかは、覗き込んでみても何も見えては来ない。あるのはニヒリズムだけだというのが、『地下生活者』のドストエフスキーの結論。ならば、自我の闇に固執した「幻想風」絵画のニヒリズムは?しかし中島早知子の幻想世界は、一筋縄ではいかない。
ひとことでは言いにくいのだけれど、ハイパーリアリズムの描写力を以って、荒涼とした世界を描いている寂寥感。でもそこには不思議な生命力の胎動があり、希望と優しさ、安らぎも表現されている。いや、なによりも画面の世界では重力が減じられていて、奇妙に浮揚していく感じ…浮遊する恍惚感がある。
彼女の心のどこに、こんな不思議な世界のイメージを、こんなにも明確に内蔵しているのだろうか。

荒涼とした終末後の世界を

描くことだけならたやすく、すでに陳腐化も極みに来ているほどだ。絶望を語ることはたやすく、しかも現在では薄汚く手垢にまみれ、「政治性」を今更云々するのもはばかれるほどありふれた政治性でしかなくなっている。しかし中島の終末後?の世界には、ふしぎな生命力の胎動が内包されている。

アンテナの極度に敏感な

芸術家が、この社会の中にあって感じ取っている終末の予兆と、その先にある世界の意外な明るさと生命力。「えっ? そんなに暗くはないのかな?」 そんな終末の表現には期待してみたい、そんな気持になる作品展であった。ともあれ、作品を見てみよう。

作品を遠望すると、

そこには枯死した樹木の残骸がポツン、ポツンと立ち並び、はるか地平線まで、見渡す限り生命の痕跡もない荒涼とした風景が広がっている。
そこに漂うのはぬぐいようもない終末感、寂寥感。タンギーの海底のような淀んだ世界、アメーバーが浮遊するだけの深海世界なら、まだ漫画的な滑稽味があった。
これとは違う、リアルな世界だ。ごまかしも、言い訳もなく、きわめて細部まで精密に認識されている「幻想」の世界。
こういう風景をリアルに描かれてしまうと辛いなぁ。子供の頃、H.G.ウェルズ『タイムマシーン』の一場面で、危機に瀕した主人公が慌ててはるかはるか未来の世界にワープしてしまい、目の前の海岸にはフットボールのような生物が転がっているだけで、ほかに地上を徘徊する生き物は見当たらず、永遠に続く夕焼けのような景色があるだけ…を思い出す。
僕としては、何よりもこの場面が悲しく印象に残っている。希望のない生命が死滅してしまった世界を、ドアの開いた隙間から覗いてしまったような気分になったからだ。

誰でもが連想しそうなのは、

核戦争で地球上が破壊し尽くされた世界だ。時の移ろいを感じる主体となる生命が存在しないそこには、永遠の無意味な昼夜の繰り返しがあるだけ。それも、放射能を帯びた厚い雲にさえぎられた、薄暗い世界でのこと。
主人公もいない世界には、もはやドラマもテーマもない。きちんとした遠近法と構図の取り方によって、広大な空間が描き込まれているというのに、主題となるべき存在がないから、その遠近法自体がむなしい。眺めていると、こちらの距離感覚が混乱してきて、一種の眩暈がして来る。言うべき言葉も知らない寂寥感につつまれた絵画。

作品を遠望しながら思い出していたのは、

70年代始めのフォークソングであったか、「死んだ地球が残したものは…またくる今日、またくる明日。他には何も残さなかった。他には何も残せなかった」(こんな歌詞だったかな?) 耳には本田路津子という名前の歌手だったか、透明に澄んだ希代の美声が残っている。その声で歌われるとこの曲はひどくさびしく悲しかった。
そうそう、NHKの朝の連続ドラマで「藍より青く」の主題歌を歌った人であった。頭の中は、古い昔の歌が駆け巡る。たしか…一番の歌詞は、「死んだ男が残したものは、一人の妻と一人の子供。他には何も残さなかった。他には何も残せなかった」だったな。

気が滅入ってたまらないなぁ。

椅子に腰掛けるのを止めて、近づいてみる。
枯れた樹木には、びっしりフジツボのような生命体が付着している。いや、樹木と言わず岩と言わず、そこらじゅうにフジツボのような生命体があふれている。
遠くから白い靄のごとく見えたものは、白い繭のような物体であって、これが、これまた沢山置かれている。しかも繭のような物体は、何か動物(昆虫?海中生物?)の卵の集合体のようになっている。
絵のなかの世界に充満している生命体が、モゾモゾと動いている様子ではなくてよかった。こういう蠢く正体不明な生命体の充満というのは生理的に苦手なんだから。
ちょっと離れて、ソファーに腰を掛けよう。うむ、この絵の世界は、やはり海中なのだ。水深10メートル前後の海底だ。しかも何という水の透明度だろう。これは、海面が上昇して水没した元陸地の森林の荒涼たる痕跡なのだろう。作家がどう言おうと、そのように僕には見えてきた。

そのようにしか見えないのは、

この絵が持っている奇妙な浮揚感のせいだ。この絵の世界は、確実に水中と同じ程度に重力が減少している。しかも水圧のような圧迫感が感じられないのはどうしたことだろう。
それは、水の透明感と上方から差し込む光の明るさのためなのだろう。頭上の海面から(もう、そうだと僕は決め付けてしまっている)差し込む光がこれほど明るいのなら、海面に顔を出せば、さぞかし燦燦と太陽の光が降り注いでいることだろう。

この気味の悪い生命体が

充満した荒涼たる風景が、これほど希望に満ちた透明感と浮揚間に包まれている不思議さは、簡単には解明できない。
おそらくシモーヌ・ヴェーユの『重力と恩寵』といった神学の問題を手がかりに分析を進める必要がありそうなのだが、さてさて、この作家はどうしてここまで鮮明な幻想世界を内面に抱え込んでしまったのだろうか。
自分の内部に真空を抱えつつ、恩寵が訪れるのを待ってそれに耐え、保持しつづける。そして細部まで確定している幻想世界を丹念に描き続けている。
このような幻想を内部に抱えていながら、この作家はどのように精神のバランスを維持しつづけているのであろうか。絵に示された孤独で厳しい「終末後」の世界に差し込む明るい希望の光が、その「恩寵」に対する信頼感を表しているのであろうか。この作家の内的世界の妖しさを探るには、次の作品展を見てみないといけないなぁ。


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