森弥栄子展を見て
(1996年12月 銀座ギャラリー・ナツカ)
森弥栄子展を見た。森の作品にはたんに作品紹介や印象批評で済ませられない何者かが潜んでいる。僕は、森の認識論と論理に注目してみた。
全部で10点ほどであったが、一見して、一連の作品群は、三段階の異なる構造をもっている。
時間的には一番先に描かれたというグループは、濃密な情緒をつとめて冷静に客体化した抽象的空間におぼろげな女性の身体が位置を占めている。情緒的な粘り気や湿度を忌避しようとする作家の意図が、女性のなまめかしい身体を中心にして空間が構成されるのを嫌っているのだ。甘く粘りつく「ロマンティック」の拒絶。物語性の拒否。
この段階では、対象とそれを描こうと見詰める作家の視線、対象への作家の思い入れ、それをカンヴァス上の構図としてフィクション化するという制度的なマンネリの忌避を作家は手堅い筆致で成し遂げて見せる。
さて眼前のモデルというリアリティーを二次平面に再構成するというフィクションの制度性から自由になることは確保した。抽象画面は、マチエールの面白さとして自立した存在感を獲得している。女性の身体像は無くてもよかったほどだ。画面の青のコンポジションに侵入するかたちでもなく融和するかたちでもなく、あたかも色調自体のもつ情緒が生成させた想念かのように身体の形象が現れている。情緒が形象を自家生産するというプロセスを乾いた叙情性で描き上げている。
この第一グループの作品は、情緒が形象を自家生産するという論理自体を中心にして構成されているかのようだ。実際のモデルのフォルムを解体し作家の内的必然性によって自己完結する
画面として再構成するという古典的手法から遠いところで、奇妙な抽象性を維持している。ここでは作家は、自分の構想した論理モデルが持つ可能性を模索するきわめて理知的な筆致を示す。叙情性の粘り気を取り去るには、画面雰囲気の温度を下げるべきか、色調の湿度を下げるべきか…白衣を着て実験しているかのようだ。
第二グループは、僕がもっとも気にいったものだ。先行グループと一見、似た作品でありながら、作品群を制作する過程で作家が思いついた転回を示している。
ここで作家は、情緒が形象を自家生産するという論理を楽しむ過程で、自分の中に、女性の身体イメージを喚起し、さまざまにメタモルフォーゼさせようとする「物語性」が潜んでいるのを自覚
したようだ。ここにいたって画面の女性の身体は、がぜん艶めいて来る。森は、かすかな女性の身体の輪郭に、見る者が感情移入してさまざまな回想の中にある女性の肉体の感触・質感を想起していくという時間的契機を取り込む。
朧気なシルエットをもっと焦点を合わせてハッキリ見たいと思う、まさにその見る者の意識が、厚い霧のベールに包まれた女性の身体像において、たんなる女性一般ではなく、固有名詞を持った女性の肉体をカンヴァスの向こうに見始める。そこには、回想の中で蘇ったある瞬間の女性の肉体が聖化されて存在しており、眺めている者は、回想時と現在
との乖離に時間的契機=やがて消滅していく存在であるという、人間であることの悲しみ=物語性を見て取るのだ。つまり見るものの想念が、カンヴァスの上に最後の絵具を塗り付けて女性像が完成すると理解したい。
現代絵画では物語性は文学に任せて排除されてしまったが、この作品群において森は見るものの想像や回想を許し、それを取り込んで作品が物語性を持ってイメージを拡大、自己発展させていくという形で、「作品を開く」のである。しかし「開かれた作品」という陳腐なコンセプトに堕落せずに作品の緊張感を保持できたのは、森がカンヴァスに描き込もうとした情念の強さのためである。
一体、森は、画面の女性の身体にどういう思い入れがあるのだろう。連作の中でも第二の作品群では、もはや森の眼前にはポーズをとっているモデルの女性がいるようには思えない。きわめて形而上的な
画面となっているからだけではなく、実在する女性の身体に対する批評的な視線が少しも感じられないからだ。モデルの身体の美しさ、肌の艶…といった生身の女性の身体の影を写し取ろうとするプラトン的画家の情熱などどこ吹く風。こちらから光があたって、部屋の奥行きはこのように…といったカメラ・アイのフィクションは画面から消滅している。まさに頭の中から
取り出されてきた理念
の結晶として、「腰のラインはこうあらねばならない。そして…」と自信にあふれた必然性で固められたイメージかのようだ。しかも画面に現れた女性に裸像は、実にエロティックなリアリティーにあふれている。
ひょっとするとこの女性の後ろ姿に、かの日かの時の森の人生の一場面の情念が塗り込められているのかもしれないとすら思えてしまうほどだ。
僕は、この作品群を眺めながら、子供の頃、枕にギュッと顔を押し付けると、何も見えない真っ暗な瞼の裏に光や星、流れる模様が見えるのが面白くて、見えないはずの模様を見ようとトライしては頭が痛くなったのを思い出した。
カンヴァスの向こうに世界が広がっているという想像なのではないのではないか。カンヴァスと見る者との間の空間に、つまり見る者の内部と意識される領域に、見えないはずなのに見えてしまうイメージがあり、それを是非とも見たいと必死で睨んでいたら見えてきて
しまった女性の裸像がある。それをヒントに回想にふける者が固有名詞とともに思い起こす肉感や汗の匂いがこの絵にはある。
よく壁のしみに人間の顔、姿かたちを見とって、壁の向こうに広がる別世界を想像するということがあるが、この作品群ではカンヴァスの向こうにではなく、見るものの内的世界の想念を画面の上に塗り付ける論理であって、それが、この作品群の魅力となっている。
第三グループにいたると、森は、作品の持つ物語性の強さと私小説性を回避しようとしたのか、「神話化」の記号を画面に描き込む。錆びた鉄のフレームが画面に現れることによって、絵画の中の絵画という虚構、錆=時間の経過・客観化、遠い未来が発見した考古学上の事実としての現在の遺物…といった記号装置を描いているのである。それはそれで、画面の身体のなまめかしさを
中和するだろう。僕の好みとしては、この方向はあまり嬉しくない。「私小説的で肉感的な抽象絵画」といった第二グループの危うさをはらんだ美しさに比べると、いささか理屈に走り過ぎている気がするからだ。作品そのものが美しいのに、その上の説明的要素は余計じゃないかな。僕は、立ち止まって考え込んでしまう。
それに、この作家は、記号による無機的な世界の構築を目指すには、いささかロマンティックでありすぎる。僕としては、
この作家の作品を眺めながらフォーレのピアノ五重奏曲の1番をバックに流そうか、あるいは2番のほうがいいかな、それも音量は小さくして…などとなんとなく考えていたという印象を大事にしたい。通奏低音にはドロドロと鬱屈したデモーニッシュな何者かが秘められている感じだが、結局この作家の人間性なのだろう、きわめて理知的に抑制された上品なロマンティズムが全体を支配している。僕は、昨今の抽象絵画には得難い叙情性を勝手に感じ取ってしまったが、さて森はどんな反論をするだろうか。今後の展開に注目することにしよう。
森弥栄子再論
(東京都美術館 1999年5月)
「前回の個展からしばらく時間が空きましたね」と言うと、「実は、その間に作品発表はしたのだけど、自分でも気に入ってなかったから連絡しなかった」と作家からの答えが返ってきた。
今回の作品は「モノクローム」5点。題名のとおり、素描のような作品が5点並ぶ。
かつてポール・ヴァレリーは『ドガ・ダンス・デッサン』のなかで「デッサンほど知性の協力を必要とする芸術を私は他に知らない。それは例えば眼が眺めている複雑な対象から一つの線を抽出するということであっても…」と書いたが、なるほど、これは高度に精神的な行為だ。
この作家の悩みが、かえって顕わになっている。「絵空事」という表現のあり方自体を問い掛けたいのだ。
画家は、対象をとらえて、それらしく絵を描く。ところが画家は「絵にならない」ものは描かないから、実は、自分の描けるものに興味を持ち、感動するという傾向を胚胎している。だから「それらしさ」というのが曲者で、それは「絵になる」範囲に対象をとあえるというのが普通だ。しかし森は、ここを逆転して、対象を「それらしく」見ることのウソ臭さ、リアリティーの怪しさに
我慢がならない。目の前の“モノ”は、決して人間の「対象」になんかにならず、「存在者」たらんとする本性を秘めている。第一、こちらの主体性とか目的意識とか、精神なんてものの前提を疑わないから「対象」が現れてくるのだ。
例えば写真にとっても、それは一瞬のリアリティーの切り取りにすぎず、対象の真実を写しているとはいえない。写真の中には、よく知る人物が全くの別人に写っていることだってよくある。そのように、せいぜい250分の1秒の真実なんてものは、怪しいものなのだ。同時に、われわれが知っているリアリティーなんて物自体が、かなり怪しい。これをそれらしい静止画像に
するとしたら、それと知らせるための記号的デフォルメをあちらこちらにちりばめることになる。
多分、森は、その嘘臭さが嫌だったのだろう。あるいは絵画を物語性でうめることでそれらしさを完成しようとするやり方が、気に食わなかったのだろう。実際のリアリティーは運動の中にある。ならば絵画も動かなくてはならない。こちらの視点なんていう一方通行のフィクションも嫌だ。さりげなく掛けられたタオルの、
動かんとする“本性”をとらえている。
この「モノクローム」の5点、展示されている第9室のほかの作品に目をやったとき、一瞬、視界の端の方でフワリと動いた。いや、今、動いたという気配を感じさせた。
もちろん絵画なんだから、はじめから動きやしないのだが、視界の端において見ないでいると、動く気配十分だ。動かんとする一瞬の姿は、ズレ、とかブレの表現で運動をあらわそうというのでは、記号の問題だ。森のは、今、まさに動かんとするタオル、いや、動きの途中にあるタオルの精神性を描こうとしている…これは、不思議な歪みと質感をもった形象だ。「動くぞ、動くぞ」
という意欲と気配があるこの絵は、奇妙な絵だし、抽象絵画が満載のこの作品展示においても、その抽象性が格段に高い。
つまり確かに具象的なタオルの絵にすぎないようだけれども、運動の中にある対象を二次元平面に固定して再構成しようとする、この作家の精神のあり方が隔絶した抽象度の高さ(認識がそもそもどういうことなのかという本質的で哲学的な思考に踏み込もうとしているという点で)を示しているのである。面白いなぁ。
こういう作品を目の前にしていると、何気なく行っている「見る」ということ自体を考え直してしまう。
われわれの絵の見方は、第一に錯覚(たとえば透視図法によって平面図に遠近感が生じる)なんだろうけど、それよりも記号的な意味理解に基づいている。
例えば、実際の富士山のシルエットを遠望したら、そんなに急な斜面ではないのだけれど、葛飾北斎の富士の絵のように強調されると、一層、富士らしく(意味的に)理解されることがある。このようにわれわれの映像理解は、「これは…だ」という意味理解=分類と世界の分節化に基づいている。
眼前に広がる圧倒的な光のかたまり、混沌とした色彩の渦として不可分の全体をなしているものではなく、ここの物体に分節化されたものの集合体、さらにはある意味を持った有機的な統一体として理解してしまう。
眼前のリアリティーに意味なんかないのだけれど、それを意味ある有機体として把握してしまう。これって、常に新鮮であるはずの世界を、
「世界ってものはこういうものなんだ」という思い込みと常識、習慣で何の変哲もない当たり前のものに変えてしまうことなのだ。
だけど、この世界は、当たり前の世界と思っているけれど、この思い込み通りの世界である可能性は実は低い。
われわれは、光学器械としての目で見ているわけではなく、脳で見ている。網膜に映った映像を、バラバラの線の集合体として解体して、それぞれをなぞる神経細胞が情報を収集して脳に集める。それをヴァーチャル・リアリティーとして再構成するわけだ。このシステムでは、
脳が正常に機能しなければ正常には見えないことになる。でも、正常にとらえた世界のリアリティーとはいったいどのようなものなのだろうか。脳の特性によっても、見えるものが異なって来るし、仮に催眠術で強い暗示をかけられると、目の前にいるある特定の人物が見えない、認識できないということだって起こる。
網膜から収集した情報を再構成する脳の方に強い暗示がかかって、ある情報を拒絶するようになっていると、その情報はリアリティーとして再構成されないことになる。
するとわれわれが認識しないとしても、実際にはそこに人間がいるわけだから、その存在がさえぎっている部分は、再構成しようがないのだからそこは空白になるはずだ。しかし、被実験者は、その空白部分をうめて、まったくその人物が存在しないかのようにこの世界を見ているという。つまり被実験者の敬謙と集積した情報が、世界の空白を補って、ほころびのない世界として見せてしまうわけだ。
われわれの目は、24分の1秒程度のコマ送り速度になると、それを滑らかな動きの連続と認識するという。するとカメラがとらえる250分の1秒の世界には、われわれがとらえる滑らかな連続体であるリアリティーとは異質のとんでもない側面が紛れ込んでいるのかもしれない。
眼前のリアリティーが安定した存在に見えるのも、24分の1秒のコマ送りの感覚でのことであって、それより細分化した部分では、その安定感にほころびを生じるような妙な“ゆらぎ”を見せているのかもしれない。われわれの見ているリアリティーなんてものは、確固たる実体などではなく、確かに実体的な物質はあるんだが、結局、われわれが認知するのは、その物質がもたらした心的現象にすぎないんだと思ってしまう。森の「モノクローム」は、
絵画が存在の安定感に綻びを見せる250分の1秒の一瞬を描きながら、その怪しさに不感症になったまま平然と二次元映像に写し取っていることに対する拒絶を高らかに宣言している。それだからこそ、妖しく視界の端でフワリと動くのである。僕は、大きな収穫を得たような気分で会場を後にした。
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