福井江太郎展
ぎゃらりぃ朋 2001年11月12日−30日
「9の個展を巡るArt Walk 2001」に参加
ダチョウの絵で知られる福井江太郎がさらに進化した。
この作家はまだ若いけれど、それでもこの5年ほどダチョウを題材にした作品を発表してきている。この作家の表現は二つの段階を通過し、今回の個展で、新しい方向性へと踏み出しはじめたようだ。最初のダチョウの表現は、
リアルであり、とくにその目の表情に深い精神性を感じさせるものがあった。猜疑心や嫌悪感、虚無感を漂わせ、画面の向こうから「人間の存在」自体を問いかけてくるのだ。私は、この表現に強く魅了されてミラン・クンデラの「存在の耐えがたい軽さ」の冒頭部分を引用した議論を展開したことがある。
第二の段階では、そのダチョウの描写、とくに長い首の描写が、光と影を強調したものになり、本来ある首の太さが失われた黒い影の線のみが強調されたスタイルに変化したのである。これによってダチョウの存在している空間に強烈な光があふれる効果が生み出され、われわれはその光の氾濫に圧倒されたのであった。
画面の中のダチョウの描写は、きわめて夢幻的なものとなった。精神的存在となって
重量感は減じられ、ダチョウの群れ自体が集団で光の中で躍動する。なぜか福井の世代が知る由もない、70年代に一世を風靡したリチャード・バックの「かもめのジョナサン」を思い出してしまうのだが、ストイックで生真面目な哲学を内包したこの描写は「ダチョウのジョナサン」なのであり、リアリティーの限界を超えて超高速で飛翔する「光輝くかもめ」を想わせる。少なくもこの作家の表現するダチョウが、何やら妖しく、複雑な思考回路の象徴のようになってきた気配を感じる。
作品を前にして語ることが少ない
この作家の頭の中など、もちろん窺い知れないが、彼の感性が存在の根源に関わる、きわめて深い哲学的な問題をとらえたことだけは確かだろう。今回の個展の作品のような筆致で首の陰影が強調されて黒く太い線に描かれると、今度は前回のような夢幻的な光の氾濫は消え去り、象形文字のような奇妙なヘビの一群が蠢いているように見えてくる。われわれは、ユング派精神分析理論のアーキタイプにある生命エネルギーの象徴に対面したのである。
第一段階のリアルなダチョウの目は、自分を見る鏡、試金石であって、覗き込めば自分の中に潜む人格の多重性を見出すことになった。第二段階の黒い線による首の表現によって、夢幻的な光の存在を意識した。光の氾濫の中で、
われわれは「かもめのジョナサン」のヒッピー的「存在の神話」を思い出した。今回、この作家の感性はダチョウを描きつつ、文字、言語といったデリダのグラマトロジー論のような問題に接近し、生命力や存在することへの驚き、存在への問いへと踏み込みつつあるようだ。
今回の個展では、ダチョウの首の黒い線が「書」のようなフォルムになった。この表現は、ダチョウという「存在」を象形文字化・記号化するようにもみえるが、私には、書き散らされた象形文字が、むしろその本来あるべき自然的な形象を獲得しようとする瞬間のように見える。文字が立ち上る霊気とともに
ダチョウの姿をとって立ち現れてくるように感じられる。記号であるはずの文字が自分の「存在」を回復する。私は、長く眺めていたい作品に出会うと、一緒に頭の中に流す音楽を考えてしまうのだが、これはプーランクのフルート・ソナタがいい。第一、第二段階の表現は1楽章、今回の作品は第2楽章を流しながら、新たに作られた作品集のページをめくってみたい。
言語哲学が問題にする領域に踏み込むこのような表現は、下手をすれば「知にはたらき」すぎて第二段階の豊かな到達点を破壊してしまうだけに終るのかもしれない。記号としての言語と文字・紋様の呪術性の問題の核心に触れたここまでは見事だ。問題は現代の言語哲学の
閉塞性を打ち破るような次の一手なのだが、この大作のダチョウの群れの表現の力強さを見ていると、「大丈夫、この作家はもう一つ壁を打ち破って大化けするかもしれない」と思わせる気配を感じる。
注釈
文中の福井江太郎作品集は「KOTARO FUKUI'S WORKS 1991-2001」YPCパブリケーション
(書籍コード3999211112-005200)Discography:プーランク「室内楽曲全集 第1集」 NAXOS 8.553611)
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