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「大島幸治・美術時評」序論



眼前のリアリティーの怪しさという見方にたってどうやら人間が世界を見る、その「見方」というのには、原風景となるイメージがある。僕の場合、学生時代に体を悪くしたとき、夜中によく経験した

奇妙な幻覚がそれらしい。

寝ていて、なにか妙に静かすぎて目が覚める。「あ、今、心臓が止まっていたな」なるほど、不整脈がひどくなっている。二拍、三拍、鼓動がぬけただけなんだろうが、心臓が止まると、体の奥深いところから静けさを実感するのだ。つぎのドクン、という鼓動が永遠に来ないような気がして、つまりは、

一時的に自分の死を実感する。

こんな体調で眠っていると、自分のからだが液状化して布団に染み込んでいき、布団の下にある、底無しの暗い空間に滴り落ちていきそうな気がするのだ。
布団の下、つまり自分の背後の世界なのだけど、それを前方を見るように、上を見上げるように感じている。ひどい眩暈に襲われて、そう、眼前の世界が溶解していくような気がする。色即是空などというけれど、この眼前の世界は実体がなく、実在してもいない。つまりは世界は存在していない。これ、本当なんだ…などと実感してしまう。僕の脳の機能と意識が低下するとともに、眼前の仮の現象は幻と消え失せていくからだ。
哲学ばかりやっているせいか、今、自分が死んでいくところなのかもしれないという最中に、「デカルトのコギトとは、主語なしのcogito、つまり思考するという動作の一人称単数形=脳が作動するということ、これがすなわち動作の主体者である「私」を発明する根源、「存在する」ということだと言ってるわけなんだな…」などと考えている。

ちょっと病気だな。

こんな具合だから、僕は、あまり眼前のリアリティーを信用していない。
ちょっとした体調の変化で知覚の変容が起こるし、脳のシステムに作用する化学物質が体内に入れば、シンナーや覚醒剤、麻薬といった恐ろしい物質の話じゃなくても、目の前の世界が別物に見えてくることがあるのだから。
眼前の世界が融解して行きはしないか…これが通奏低音のようにイメージの奥深いところで低く響いているせいか、天真爛漫に現実を写して、あるいは現実の悪を政治的に糾弾して、あるいは想像世界を吐き出して…そんな作品には共感しないのだ。「自分」という一人称が、なんだかとっても危うい、もろいものだというのに、「存在」を問わない、あるいは「存在」を構築していく論理を問わない作品でいいのか?
説明しようがないのだけれど、自分の見ている「世界」がとっても胡散臭いのだ。
第一、古い実存主義を持ち出すわけじゃないけど、「世界」と自分とは実によそよそしい関係じゃないか。信じがたい凄い出来事がテレビやいろいろなメディアで報じられているのに、自分の周囲は変化に乏しい平凡な時間ばかりが過ぎていく。自分の周りではたいした変化も作り出せずに時間だけが急速にすぎていくのに、

世界は重大事件にあふれ、

激動しているのだ。
少し前のアートは、具象にしろ、象徴にしろ、現実を写し取るものだという信念のようなものを持っていた。眼前のリアリティーを構成するものを分解して、抽象化するにしても、それが現実の真実の姿を暴き出す方法なんだという信念らしいものがあった。
でも、現代の現実があまりにも複雑怪奇なものになってきて、もはや写実も抽象もそれを写し取る力なんかないのだとなったとき、芸術家たちは思い思いの工夫をしはじめた。

芸術の方から「現実」にすり寄り、

癒着させたスーパー・リアリズムというのは、あまり好きじゃないな。リアリティーを分解し、分析して真実を…という抽象も面白くない。
主体・自分というものが、なんだかとっても危ういものだと感じている僕としては、主体者の「存在」を問い、存在を支える論理を構築するような芸術作品ばかりに目が行ってしまう。今日もまたどこかで”哲学”したくなる作品に出会えないだろうか。


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