ANNE BOLEYN Museum of Art

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「naturalization」 油彩 キャンバス 41×31.8cm


吉澤知美 Yoshizawa Tomomi

1984 名古屋生まれ
2004 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻入学
2008 東京藝術大学美術学部絵画科油画専攻卒業
     東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻入学
2010 東京藝術大学大学院美術研究科絵画専攻卒業 

個展
2009 「YOSHIZAWA TOMOMI展」 Keumsan Gallery(韓国)
2010 「吉澤 知美 展」 Keumsan Gallery Tokyo(東京)
2011 「吉澤 知美 展」 Bambinart Gallery(東京)
2013 「YOSHIZAWA TOMOMI展」 Keumsan Gallery(韓国)
     「 吉澤 知美 展」 Gallery Goto (東京)
2015 「吉澤 知美 展」 Gallery Goto (東京)

グループ展
2006 「3人展」 東京藝術大学学生会館(東京)
2008 「五美術大学卒業制作展から選りすぐりの作家6名による魅惑の展覧会」 Galaxy Countach(東京)  
     「GIRISH BLENDS」 gallery ni mode(東京)
     「CAAF 2008/24+6」 CREARE AoyamaArtForum (東京)
     「Asian Young Artist」 Keumsan Gallery Tokyo(東京)
2010 「ひとひと」 Bambinart Gallery(東京)
2011 「no where  ここではないどこかへ」 Bunkamura Gallery Tokyo(東京)
2012 「山本冬彦が選ぶ- 珠玉の女性アーテイスト展」 銀座三越(東京)
2014 「アートで聴く音楽 CDジャケットアート展」Gallery ARK (神奈川)
     「山本冬彦コレクション展」やさしい予感Gallery(東京)
2015 「MY duo 2015 片山穣・吉澤知美」Shonadai MY Galleru (東京)

ART FAIR
2011 「ART FAIR TOKYO」 Bambinart gallery(東京)
2012 AHAFHK12/Asia Top Gallery Hotel Art Fair /Round in Circle」 Keumsan Gallery(香港)
2013 「AHAF SEOUL」Keumsan Galley(韓国)
2014 「AHAF HONG KONG/Marco Polo Hong Kong Hotel/triple」 Keumsan Gallery(香港)
2015 「ASIA HOTEL ART FAIR SEOUL2015 Keumsan Gallery(韓 国)
     Young Art Taipei 2015」Shonandai MY Gallery (台北)

賞歴
2008 台東区区長賞  東京藝術大学卒業制作 台東区役所買い上げ



吉澤知美の実にリアルな表現は、

いわゆる写真のようなスーパーリアリズムとは一線を画していて、写実というアプローチの危険な攻撃性、衝撃力をまざまざと見せてくれる。たとえば「naturalization」という作品では、画面を斜めに断ち切る形で上から下から枝が伸びている。その向こうに手を合わせるように、枝に触れるかのようなしぐさの少女の横顔が丹念に描かれている。

問題は、その描き方の独特さである。

吉澤知美は、少女の目、鼻、口元、耳、髪の毛の質感そして手の表情を同じフォルテで描写する。枝の葉の一枚一枚も同じくフォルテである。するとどうなるか。見る者が視線を合わせる画面上のすべてのものがテーマとしての存在感を帯びてくる。

たとえば手に視線を合わせると、

それはテーマである少女の身体の一部、外延として描かれたものではなく、それ自体テーマとして十分なだけのメッセージ性と情報量を孕んだ実在として自己主張している。両手は、ちょっとだけ覗いている何か大事なもの(枝から捕らえたアカタテハ蝶だろうか)を隠し持つかのようにそっと合わされ、手先の筋肉には弱い力しか働いていないことすら見てとれる。

また端正な顔立ちの少女の目は、きわめて丹念に描かれることによって永遠の彼方を見つめる思索性、瞑想の雰囲気を帯びてくる。そこにはいかなる情念が秘められているのだろうか。

かくして少女は

脱構築化され統一性を失い、手、目、鼻、口元、耳そして豊かな質感を持った髪とがバラバラに認識されることになる。実は、私たちが眼前の対象objectを「少女」と認識しているのは、たんに習慣conventionに過ぎず、網膜という同一平面上に映っている光刺激というノッペラボーな集合体に言葉を与えて分節化し、境界線を生み出して切り分けているにすぎないノという事情が見えてくる。

言葉や概念を剥ぎ取った

生のままの即自的(an sich)な世界、つまり現象学が現象学的還元と読んだ作業を「naturalization」として画面に現出させているのだ。吉澤知美が、丹念にリアルな対象を描き出せば出すほど、私たちは、目の前の当たり前に存在している事物が、習慣によってそう認識しているだけにすぎないように見えてくるのである。ノッペラボーの「存在」と立ち向かおうと絵筆を握る吉澤知美の眼力の前には、この世界を「ああ…だ」と言葉を与えて分節化し、安心してしまっている自分の感性の鈍磨を意識せざるを得ない。

私たちは、同じフォルテで描かれることによって脱構築化された眼前の事物が、それでもなお「少女」「植物の枝」として現われてくるという存在自体のアウラの迫力にこそ、粛然としながら目を向けなければならないだろう。写実が持つ攻撃力、衝撃とはこういうことなのだと思う。



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