ANNE BOLEYN Museum of Art

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「ichijiku」 カンヴァスに油彩 F0

畑田あゆみ Hatada Ayumi

1990 熊本県生まれ

2014 多摩美術大学絵画科油画専攻 現在四年在籍

【個展】
2014 ギャラリーゴトウ 東京・銀座



色というものは、実に官能的なものだ。

私の視覚、色覚は、多少、独特のところがあって、視力は良くないのに、光に敏感で普通の人が目を凝らしても見えない光の弱い星座がよく見えたり、通常は感知されない色の種類を感知してしまうらしい。
さらに共感覚といって、色を見たり音を聞いて味や匂い、手触りを感じる人もいるというが、私は、色に対して説明も表現しがたいワナワナとした肉体的な感覚を持つ。だから、実を言えば、この絵画が提示している、薄茶とコントラストされた上品な緑の深さの官能性を堪能すれば十分なのだ。

しかし、畑田あゆみが、イチジクという対象を「ichijiku」としてとらえて表現しようとしている、この描き方の奇跡的なバランスが持つ論理については言及せずにはいられない。問題はこの対象のとらえ方だ。

目の前にある物体を見るのに、哲学史や美術史を学んだものなら

「こういう視点で対象を見る」という技術をマスターしているものだ。
例えば、目の前にある具体的なイチジクの果実は、百科事典にあるような典型的、理念的なイチジクの姿とは同じではないだろう。でも私たちは、「あぁ、これはイチジクだ」と理念的なイチジクに分類していく。

これが概念論理学的な理解だ。

だが、これは目の前の対象にイチジクというレッテル貼りをして、言わば安心して直視することを止めてしまう怠惰な視線でもある。
「イチジク」という言葉を取り払って、宇宙人が始めて地球上のこの物体を目にしたように見るとすると、そこには何物にも分類し難い、唯一絶対的に「ありてあるもの」のオーラを放つ「現存在Dasein」が現出することになる。それが「存在」という現象そのものの不思議さに切り込みを入れていく視点になるのだが、これがフッサール、ハイデッガーが語り、サルトルが描いて見せた現象学的還元の方法となる。

ところが畑田あゆみは、左手前から右奥に進んでいくという

西欧的画面構成に疑いや迷いもなく自然に従いながら、イチジクと当たり前に分類して安心してしまうことなく、またfigとしてとらえ直そうというのでもない。
「今、目の前にある」物体の何か妖しい存在感、オーラを感覚的にとらえ、「ichijiku」とローマ字に異化し、その妖しさ、不思議さを画面の奥に向けた物体自体の外延・拡大の志向性を構成的に表現しようとしている。

天衣無縫に自然に行なっている画面構成や視線の動きによって、

若い感性がとらえる「存在」への驚きを瑞々しく提示しているのである。
ためらいのないこの率直かつ直截的な感性の顕現を微妙のバランスといわず何としよう。さて、畑田あゆみが、次にこの表現をどのように乗り越えていくのか注視していよう。



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