ANNE BOLEYN Museum of Art

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「小山ヶ丘公園」 木版 60×85cm

鹿嶋 裕一 Kashima Yuichi

1981 東京生まれ
2007 東京藝術大学絵画科油画専攻卒業
2009 東京藝術大学大学院美術研究科絵画科専攻版画研究室修了

2005 安宅賞展
     セプテーニエディション賞受賞
2006 日本版画協会版画展 入選
     守谷美術奨励賞特別賞受賞
2007 東京藝術大学卒業制作展 O氏賞受賞
     日本版画協会版画展 入選
2008 個展 ギャラリーゴトウ 銀座
     New print Artists GalleryJin
2009 第6回 飛騨高山現代木版画ビエンナーレ 準大賞受賞
     個展 ギャラリーゴトウ 銀座
     現代日本美術会審査員特別賞
2010 現代日本美術会年間優秀作家賞



鹿嶋裕一は、鮮烈な色彩と不思議な異世界を提示して

見る者を圧倒する。しかし彼の、一見、シュールレアリズム的にも見える木版の画面は、心象風景でもなく、寓意的に構築された世界でもない。彼は、周囲に実在している風景を丹念に眺めて頭に入れ、記憶から再生して画面を制作しているという。見慣れた日常生活の風景が、異化して見える一瞬を写真に撮ったものでもなく、理性による分析を通じて現実世界に存在しない「線」を生み出すスケッチを経ることもなく、虚心に眺めている時間の経過も複雑な視線の交錯をも含めて記憶の中で再生して画面として提示するのである。
これはサルトルが『嘔吐』の中で論じたような現象学的還元ではない。

たしかに対象に言葉を与えてしまえば、

目の前の現存在は、たった一回きりの個別性、特殊性を剥ぎ取られて、カテゴリーとしての一般性に埋没してしまい、存在することの迫力、アウラをも失って、見慣れた陳腐なものに成り下がってしまうだろう。「あっ、マロニエの木だ」と言葉を与えてしまう瞬間に、目の前のブヨブヨとした醜怪で圧倒的なエネルギーの塊だった「存在」が、日常の変哲もない街路樹になりさがってしまうことを、サルトルは声高に糾弾した。しかし、鹿嶋裕一の木版画は、そういう物の見方とも違うのだ。

彼は、日常の風景を丹念に描くことを通じて、

私たちが存在している世界が、けっして安心できる当たり前なものではなく、崩壊するか、しないかの綱渡りの瞬間の連続で出来上がっていることを提示しようとしているように思われる。たしかに現代は、歴史性といった大きな物語をすでに喪失してしまい、分裂症的に脱構築された無意味な瞬間の連続と化した一面を持つ。

眼前のリアリティーそれ自体のほうが、

私たちが頭の中で思い描くシュールなイメージよりもはるかに異様で、危険で、不安なものだと言えるだろう。だからリアリティーを写す彼の画面は、異様な形、色彩を持つのだ。
カール・ヤスパースは、時代状況の分裂症性に立脚して「世界没落」という概念を重視したが、そこでは非日常性の不気味さは、日常性の外の世界からやってくるのではなく、まさに日常性のド真ん中に、「彼」と私の間、「目の前のもの」と私の間に忽然と立ち現れてくるのである。

中世後期のサン・ヴィクトル修道院のフーゴーも

「全世界が流謫の地であると思う人は完全な人である」と述べているが、罪人が流刑に処されて見知らぬ土地に放り出されたかのように自分が住む世界を眺め、しかもその世界にありつづけることができる人こそ完全な人だということである。

現代的に言い換えると、

あらゆる安定した脈絡を喪失してバラバラの瞬間の寄せ集め、永遠に続く「今」の知覚でしかなくなった「没落した世界」の中で、何の頼みもなく、共にいる者もなしに存在する苦しい孤独を引き受けて、それでもその世界にありつづけるということである。鹿嶋裕一は、まさに見ることが常に自分に跳ね返ってくるようなやり方で世界を見られる人なのである。



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