ANNE BOLEYN Museum of Art

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「Dichotomic Structures」 楠、鉄板、なまし鉄線、ステンレスワイヤー
H250*W250*D800cm

大野 公士 Ohno Kouji

1971 東京生まれ
1993 多摩美術大学彫刻科卒業
1995 多摩美術大学大学院彫刻専攻修了

2009 現代日本美術会賞 大賞受賞

個展
1999 ギャラリーef(東京、浅草)
     ギャラリーブロッケン(東京、小金井)
2000 ギャラリー棲山荘(横浜、中華街)
2001 ギャラリー元町(横浜、元町)
2002 ギャラリーef 「The Blood Heat」(東京、浅草)
2003 メタル・アート・ミュージアム 「The Body Wall」(千葉、佐倉)
2004 ギャラリー巷房 「The Vascular System」(東京、銀座)
2006 ギャラリー四門 「The Awakening」(横浜、石川町)
     ギャラリーef 「The Revelation」(東京、浅草)
2007 ギャラリー四門 大野公士舞台彫刻「奏刻舞躰」展(横浜、石川町)
2008 ギャラリーQ 「Dichotomic Structures」(東京、銀座)

シンポジウム
2008 Recycle Art - World Art Delft(オランダ、デルフト)

グループ展
1995 二科展入選(以降4年間入選)
1998 嬬恋高原芸術展(群馬、以降3年間出展)
1995 国際芸術展 (ギャラリー・スペースエヌズ)
     アートフォーラム22(多摩信金本店ギャラリー等)
     日韓国際交流展 波動1999〜2000(韓国、光州市立美術館)
2000 イセヨシ・アニュアル(ギャラリー・イセヨシ、東京、銀座)
     日韓国際交流展 波動1999〜2000(横浜、県民ホールギャラリー)
2003 相島美術展(千葉、我孫子)
2004 千葉アートフラッシュ(千葉、稲毛、神谷邸)
2006 2006CAFネビュラ展(埼玉、埼玉県立近代美術館)
2009 2nd World Art Delft Poetry II - World Art Delft(オランダ、デルフト)

講演
2004 順天堂大学 三木成生記念シンポジウムにて「解剖を必要とした芸術家」講演(東京、御茶ノ水、順天堂大学)

舞台彫刻制作
2006 ギャラリー四門オープン記念公演「奏刻舞躰」(横浜、山手ゲーテ座)
     大野公士個展「Revelation」記念公演「奏刻舞躰」(東京、浅草、ギャラリーef)
2007 クリストファー遙盟在日35周年記念公演「興に即す」(東京、千駄ヶ谷、津田ホール)



大野公士の木彫トルソは、樟や欅の原木からトルソを彫り出すだけではなく、その中もくりぬいて、いわば人体の薄い表皮だけを彫りだしている。首も、膝から下もないトルソの表皮だけが、5mmからせいぜい1cmの厚みしかない状態で、乾燥した木材の独特の質感を持って表出している。

これを彫り出す労力だけでも驚異的だが、

そのトルソに金属の棒が刺さり太いワイヤーが巻きつき…、鎖で吊るされ、鉄骨の四角い枠に閉じ込められていたりして、何かのカタストロフィーを連想させる緊張感、攻撃性を秘めた表現である。細いワイヤーを筋肉繊維に見立て、それによって表皮を剥ぎ取られた人体の筋肉を提示している作品もある。もちろん中は空洞で、皮下の筋肉だけを生々しく構成している。

大野公士がこうした強烈な表現にこだわるのはなぜなのだろうか。そこには一種のプラトニズムがあって、ヌードのトルソに凛とした高貴さを与えている気がする。われわれは皆、前世は天上世界の住人であった。

それが今、肉体という牢獄に閉じ込められ、

肉体を持つことによって、食欲や性欲、支配欲に振り回され魂の平安を失っている。われわれの魂を内に閉じ込めようとする、牢獄としての表皮を彼は表現したいのだろうか。大野作品の「表皮」の内部に宿り、閉じ込められてしまった「魂」の悲しみ、この世に降誕してしまった罪業を見つめる視線を、大野の作品の中に見てしまうのである。

しかし、それだけではあるまい。われわれは、生まれた最初から他者に囲まれてコミュニケーションしている。その中で他人に承認され、称賛されたいという欲望を動機にして、他人の反応を鏡として「自分」を演出し作り上げていく。人間は、お互いを映しあう鏡像の連鎖の中に囲まれているのである。

しかし「私」の意識の中身を

すべて活字に起こしてみても、支離滅裂な言葉の集合でしかないだろうし、それは外界からの刺激に対する反応の集合でしかない。それが首尾一貫した「私」として立ち現れ、昨日の「私」と今日の「私」とがアイデンティティーとして同一性・続性を持つように思われるのは、この無限の鏡像関係の連鎖の中で、自分で他人との間に作り上げた仮面=表皮によってでしかないだろう。大野作品を眺めていると、他者の視線を自己内面化しつつ、じつは外側に「あるべき自分」という表皮を作り上げていく人間の存在のあり方、業や悲しみが感じられるのだ。

つまり大野の表皮は、外側と内側の両方から

形成されていくのである。
俳優が、観客の反応を意識しながら与えられた役を演じ、観客の予想を裏切り、越えることで自分の俳優としての力量を演出するように、自分が他者の前に提示する「私」の表面=表皮は、融通無碍に柔軟でなければ、かえって自己限定・自縄自縛の元凶でしかなくなる。ミイラ化した屍体の表皮のように、乾いて硬くなってしまったのなら、その内分に閉じ込められた「私」は、「こんなものは私じゃない」と自己否定を叫ぶしかなくなるだろう。大野作品に鎖で吊るされ、鉄骨の四角い枠に閉じ込められているのは、自己演出している「私」と内面の「私」の真実とのズレ、自己疎外感との闘争の表象なのかもしれない。



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