ANNE BOLEYN Museum of Art

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「Work '95 No.145」 雲肌麻紙に岩絵の具とアクリル 325×1100cm

櫻庭 春来 Sakuraba Haruki

1950 東京生まれ
1978 東京芸術大学美術学部大学院修了

[個展]
1978 バーモントスタジオセンター(アーティストレジデンス)招待 米国
1985〜2005 東京を中心に20数回の個展
1992〜2004 ドイツ文化センター 隔年ごとに個展 東京・青山
1997〜2005 ダイムラーベンツ日本本社
2007 トルコ イズミット市立ギャラリー イズミット市企画展
     イズミット市文化センター高等教育協会にて講演
2008 青山ドイツ文化会館
     メルセデスベンツ本社
     B-gallery 東京・池袋

[グループ展]
1995 バスチーユのアトリエ展、パリ市主催(フランス)
1995〜1997 ディユッセルドルフ美術展、招待出品(ドイツ)
1997 建築家と美術家による空間への試み“場”展 神奈川県民ホールギャラリー 横浜
1997〜2005 国際彩墨画展 招待出品 台中市文化局主催 台湾
2000 日独対話展、日独5人の作家展、メーアブッシュ市主催
     ドイツにおける日本年企画展 ドイツ
     今日の日本の現代美術作家7人展 ボンドルフ市立美術館
2001〜2003 トルコ大地震、被災地支援“心のパン”展、デイルメンデレ市
     イズミット市、両美術館主催 トルコ国内巡回展 トルコ
2003 日仏交流“間”5人展 日仏会館 パリ/フランス

[作品収蔵]
県立埼玉大学、谷内田デザインスタジオ、市川医療福祉センター、
電通バンコック支社、三菱グループ研修センター横浜、東海村動燃公社寮、
デイルメンデレ市美術館(トルコ)、茨城県職員共済施設 鴎松亭、
トヨタ自動車立川寮、平和島テレセンター、京都ホテル、札幌東武ホテル、
グランドアーク半蔵門ホテル、ソフィア西台、アートフィールド西八王子、
アジール南砂、グランボアアーク大宮、グランボア三郷、パークヒルズ東寺山、
ロイヤルハイツ千住関谷 その他。



櫻庭春来の作品を議論の俎上に載せるためには、

やはりその独自の技法について簡単に触れておかねばなるまい。櫻庭は、四角い矩形の全体を分割して構図を組み立てるのではなく、千切った和紙の張り合わせを連鎖的に連結した上に彩色して、ゼクエンツ的に変化していく単位となる図形のひとかたまりをまず構築する。

その紋様、色彩が輪唱のようにお互いを規制しつつ

自己展開をしながら独自のフォルムを紡ぎだす。そうして出来上がった作品を壁や額に入れることによって、作品自体が、大きな画面の中にある図柄となる、そういった技法をとる。これは、古典的な構図法にとらわれないという点で、古典的な形式性や和声法を脱却した現代音楽の構築法に似ており、例えば20世紀前半の実験的ドイツ音楽の旗手、ヒンデミットの作品が古典的な意味での主題とその展開という技法を離れて、提出したモチーフを連結して継起的なパッセージを構成し、それを対位法的な処理によってまとめていくのを連想させる。

櫻庭の作品は、自由な形といっても、

珊瑚のような自然界の共生体が無秩序のようでいながら、一定のリズムと規則性を内包した美しい形を形成するのに似ている。古典主義の形式に拘束されていなくても、むしろさらに根源的で絶対主義的なカノンやフーガの規則性に従っていて、それが

バッハのような宗教性をも感じさせるのである。

東京芸術大学大学院を終了した櫻庭は、日本画の伝統そのままに、寺院の天井画に雲龍図を描いたり、能舞台の鏡板に老松若竹図を描いたりもする。このことと作品の宗教性は無縁ではあるまい。
そもそも能舞台の正面板に描かれた老松図というのは、能舞台の前方にあるはずの、神や神霊が降臨する「ひもろぎ」=老松が鏡に映った姿を象徴している。能の舞楽自体が、観客、演者に見えない神前に奉納しようとするものであって、観客は神の方を見るという非礼はせず、神が降臨する老松が鏡に映っているのを舞台に見て、神と共にシテ、ワキのやりとりが紡ぎだす物語を見聞し、怨念のカタルシス(浄化)を見届けているのだと意識する。

だから能舞台は一番見やすい正面に

観客席を設けることはしないのだ。櫻庭の作品は、目に見えない「ひもろぎ」の鏡像を映した老松図を描くのと同様の精神において、バッハが対位法の技法的な完全性を追及することで音楽によってキリスト教信仰の高次元の世界に接近したのと親近性を持つのだろう。
櫻庭は、まだ見えていない、形をなしていない天界の絵巻を、その独自の技法によって写し取ろうとしているように感じてしまうのだ。少なくとも彼の技法には、こうした複雑な視線の交錯と見えない存在への顧慮が関わっているのを意識せずにはいられない。

そう考えると、諧謔性を秘めたヒンデミット教授の

音楽よりも、カトリシズムの結晶でもあるオリビエ・メシアンの「幼児イエスに注ぐ20の眼差し」等のような、シェーンベルク的な音列技法の音楽をバックに流しながら見た方がふさわしいのかな、などと思いをめぐらせてしまう。

櫻庭春来の作品の、個展会場のスポットライトを反射して岩絵具が放つ、色彩の光のパノラマを前にしていると、大作の圧倒的な存在感と迫力によって、光の中に浮遊しているような気分になる。これはきっと櫻庭の考案した技法の音楽性と無縁ではないはずだと私は確信を深めるのだ。



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