ANNE BOLEYN Museum of Art

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「満たされる瓶」 アクリル・色鉛筆 41.0×31.8cm

東 悠紀恵 Azuma Yukie

2000 名古屋芸術大学入学
2001 日本童画大賞 入選
2002 第14回 メルヘンイラストコンテスト優秀賞
     KFSアート・コンテスト KFS大賞
2003 第15回 メルヘンイラストコンテスト大賞
2004 名古屋芸術大学卒業
     個展 Via701 静岡
2005 個展 小野画廊 ・ 銀座・東京
2006 個展 gallery元町 横浜
     グループ展「光を感じるアート展」 伊勢丹 浦和
2007 個展 ぎゃらりい朋 銀座・東京
     現代日本美術会特別賞
2009 現代日本美術会年間優秀作家賞



東悠紀恵の作品は、一見するとマニエリスムの様式で、魚=キリストといった図像学の寓意に満ちたものに見える。もちろんそういう解読も楽しめるのだろうが、一番の魅力は、視線のポリフォニーにある。またその複雑に交錯する視線から、見る者が感じてしまう浮遊感にこそあるといえる。

画面は、まず強烈なインパクトを

与える女性の視線で人をひきつける。こちらと焦点を合わせず射抜くような視線があまりにも攻撃的なので、それを避けてグラスやビロードの布の質感へと目をそらす。するとグラスの中を覗き込もうとする意識によって、われわれは画面の中に入り込んで上からこれを見ている自分の視点を確認する。
ここまでは室内の空間に置かれた静物の絵だ。目を転じて魚に向けると、今度は全体が見えない水の中にあるように感じられる。これは画面中央の液体が入ったグラスと矛盾している。

女性の視線を避ける

こちらの眼の動きによって、魚にグラスにと往復運動をすると、急に魚の周囲の水が粘度が高いネットリした透明な液体のように感じ始める。妙に平面的に見える花柄の布、それに囲まれた立体のスミレ・・・奥行きがあるのかないのか、上から覗き見ているのか、正面の目の高さなのか、われわれは方向感覚を失った浮遊感へと導かれていくのだ。

図像をあれこれ解釈させる

寓意に満ちた作品なら、古典の名作をたくさん見ている。東悠紀恵の作品は、中央の女性の眼を避けよう、あるいは図像の寓意を解釈しようと画面の中を彷徨う視線をコントロールして、方向感覚の喪失と浮遊感とをもたらして観客と戯れる。しかもこうした遊戯が、シーンと静まり返った無音の空間で行われている。マニエリスムの古典とは、実はまったく質の異なった身体感覚との戯れを試みている挑戦なのだ。

私は、シャルトル大聖堂の建築物の

図像学的神学的意味の解読に満ちたユイスマンスの『大伽藍』ときわめて類似した精神を感じる。
主人公デュルタルは、旧約聖書の創世記ではアブラハムに貢物を奉った近隣地域の王とだけ記述されていたメルキゼデクが、詩篇第110章では神の右に座す大祭司となり、新約聖書のヘブル人への手紙の中でキリストにさえなぞらえられている不思議を語るが、こういう多義性を読み込む精神である。

日常的な人間は、文章を読むとき、そこにある意味のノイズを無視して自分にとって意味のあるものだけを拾い読みするものだ。ところが神の言葉は有限な意味を伝えているテクストであってはならない(それでは人間の言葉と同じである)から、無限の多義性を掘り起こす作業として読み解かれねばならない。

かくて、われわれは永遠のかなたを

見すえている女性の眼と対峙して、無限の多義性を見出す作業に取り込まれていくのである。東悠紀恵の作品は、こういう意味ですという単純な読み飛ばしによる大意把握を許さない。かつては無頼派の代表であったユイスマンスが、シャルトル大聖堂に傾斜して神学の虜となっていったように、彼女の創作に非日常的な読解を感じて、私は頭を垂れようと思う。



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