ANNE BOLEYN Museum of Art

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「水のきらめき」 87.0×112.0cm web work(紙に水彩)

中山 美代子 Nakayama Miyoko

1973 静岡県生れ
1995 武蔵野美術大学短期大学部美術科卒業
1996 創形美術学校実技専科版画コース卒業

(個展)
1999〜2004 T-BOX(東京・銀座)
     リビングアート美器(静岡・浜松)
2000 聖路加画廊(東京・築地)
     ウエストベスギャラリーコヅカ(愛知・名古屋)
2001 大同ギャラリー(北海道・札幌)
2002 画廊 編(大阪・千日前)
2003 東京駅アートウォール(東京)
2004 ギャラリー音楽通り(神奈川・横浜)

(その他)
1999 名古屋三越栄本店 '99秋のポスター
2000 絵本「電車の乗り方座り方」小さな出版社刊
     JR東海 乗車マナーアップ運動ポスター
2001 JR東海 乗車マナーアップ運動ポスター
2002 電通ギャラリー「沖縄は、今。」展ポスター
2003 愛知産業大学 学校案内表紙



中山美代子の作品は、遠めに見るとスーラやシニャックの後期印象派の点描画の手法に錯覚してしまい、抽象度はかなり高いけれど安心して見られる、色彩が美しい作品と見える。ところがどうしたことか、その前に立つとぜんぜん違った、意表をつく斬新でいて強烈な印象、光の洪水とイメージの氾濫とで

目がくらむ感覚に襲われる。

やわらかい光の点描どころか、暴力的に見るものの知性をかき回し、世界認識といった哲学的問いさえ突きつけてくる。なんだかホログラムのように立体的な何かが飛び出してくるようでいて、意味の解読が全くできないのだ。これは、極め付きのアヴァンギャルドだ。シオランやレミ・ド・グールモンのアフォリズムのように、

美しい詩句の背後にサソリの毒針を隠している。


彼女はちょっと個性的な制作方法を採るので、まずそれを少し説明しておかなければなるまい。2枚の絵をまず描き、それをカッターで細いリボン状にカットして縦糸横糸にして織った布状の平面に作り直して作り上げるのだ。もともとはベースになる風景があるのだが、それをデフォルメし抽象化して色彩の氾濫を作り上げる。2枚の色調は、色相関の対極にあるような組み合わせになるが、多分それは対象となる自然の時間の経過とかその場での対象の組み合わせとなったものなのだろう。

こういう想像をし、おそらくはその一枚一枚が抽象絵画として完成度の高いものだったと思わせるのは、遠目に見ると漠然とした風景やフォルムが解読できそうなたしかな気配を感じるからだ。当然、折り合わせれば、重なる部分は見えないから、元の構図など全く把握はできない。

われわれが解読するフォルムなど全くの幻だ。

しかし人間の頭脳は、折り合わされた2枚のそれぞれを復元しようと、無理を承知の暗号解読作業を始める。せっかちな心は、この作品を買い取って織りこみを解き、元の二枚に戻してそれぞれの姿を確認したい衝動にすら駆られてしまうのだが、それほど魅了してやまない気配が隠れている。

私は、実在する天才数学者をモデルにした

「ビューティフル・マインド」という映画を思い出す。主人公は、数学解析を駆使して暗号解読に従事するのだが、実は統合失調症にかかっていて学生時代から現実と空想の境界が混濁した世界に暮らしていたことに気づく。全く関連なく勝手に運動するように見える変数の間の数学的法則性を見出す営みの中で、彼は了解しやすい幻の声に耳を傾けていたのだ。
関連のないところに関連を見出し、問題自体が存在しないところに解答を導き出す。これは知性が本質的に抱える危険なのだ。
映画の主人公も苦闘の末に冷静さを取り戻し、実在と区別できない幻をより分け、見慣れてきた幻が話しかけてくるのには応答しないようにして社会生活に復帰していった。

われわれも中山美代子の作品が提示してくる

幻の風景に応答してはいけない。
ホログラムのように飛び出してくる強烈な気配の存在を認めて、これは上質のクリエーションが営まれているんだと思うところで止めておこう。感じるめまいの中で輝きを放っている色彩の美しさだけで満足していよう。



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