ANNE BOLEYN Museum of Art

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「B-cushion #30」ed.10 70×100cm
自作布オブジェをネパールロクタ紙にNECO

長 はるこ Cho Haruko

現代日本美術会会員/審査員

1977 東京芸術大学美術学部デザイン科卒業
2003 文化庁在外研修特別派遣研修員としてボストン留学

(主な受賞)
1996 中日現代美術交流展・金賞グランプリ(上海)
1997 第26回現代日本美術展・埼玉県立近代美術館賞(東京/京都)
1998 第27回現代日本美術展・北海道立帯広美術館賞(東京/京都)
2001 第8回リキテックスビエンナーレ・グレンブリル賞
2003 クラクフ国際版画トリエンナーレ・レギュラー賞(ポーランド)
2005 現代日本美術会大賞及び会員・審査員推挙賞
2006 第14回プリンツ21グランプリ展特選
2007 カンラン国際版画ビエンナーレ(中国)国際版画賞
2008 第8回BHARAT BHAVAN国際版画ビエンナーレ(インド)名誉功績賞

(主なコンクール、グループ展)
1991 JIAA展(ニューヨーク)
1995 今日の日本現代美術展(ソウル)
1998 写真と版画の新表現展・埼玉県立近代美術館(埼玉)
2000 デイルメンデレ国際美術展(トルコ共和国)
2001 第4回文化庁メディア芸術祭、賞候補・東京都写真美術館(東京)
2002 日本現代版画展・ティコティン美術館(イスラエル)
2003 銀座養清堂画廊50周年記念展(東京)
     カダケス国際ミニプリント展(スペイン)
2006 「白亜紀の夢をみる」(埼玉県立近代美術館)
2007 第1回ウィーン国際版画トリエンナーレ(オーストリア)
     第1回フリジア・スモールプリントビエンナーレ(オランダ)
2008 第13回中華民国国際版画ビエンナーレ(台湾)
     第1回ワルシャワIMPRINT国際版画トリエンナーレ(ポーランド)

(収蔵)
     埼玉県立近代美術館/北海道立帯広美術館
     トルコ共和国デイルメンデレ美術館/フランス国立学術研究所
     イスラエルティコティン美術館/ロサンゼルスカウンティ美術館
     フランス国立図書館/台湾国立美術館/すどう美術館

(個展)
     目黒区美術館/新宿伊勢丹美術画廊/銀座養清堂画廊
     ニューヨーク/パリ/ボストン/ドイツ文化会館
     トルコ共和国コジャエリ県立美術館/マドリードTAO



長はるこの作品は、自作の布のオブジェを

写真に撮り、NECOプリントという技法で平面の転写するというスタイルを採っている。画面はネパール産のロクタという植物繊維を原料とした横縞状の凹凸がある分厚い紙となっているが、精密な転写が可能な技法をあえてこの凹凸のある茶褐色の画面に用いることで画像の荒さがでて、それが独特な味わいになっている。
布はねじられ、巻かれ、よりあわされたりしている。パン生地のようにも軟体動物のようにも見え、ネットリした質感さえ感じさせる。
布のオブジェであるのに人体の部分を濃密に連想させる何かがあって、作家自身が述べているように「何か卑猥な連想も喚起する」ことでハンス・ベルメールの関節人形のようなエロティシズムの一面ももっている。

しかし長はるこを長はるこたらしめているのは、

徹底した反モダニズムの眼差しであろう。

彼女が自作の立体オブジェを平面化するとき、それを平面画に描くという行為を避け、写真を利用することで自分の眼差しというものの制度性を徹底して問い直し解体しようとしているからである。長はるこは、自分の眼差しにすでに侵入しているもの、いや、自分の眼差しを成立させている「他者」の存在を析出し、ファインダーを覗いている「撮る」自分の明晰判明性を解体しようと戦っている。

パノフスキーが論じたように

透視図法自体が文化的記号としての制度性を持つものであり、ジャック・ラカンやエマニュエル・レヴィナスを引いてくるまでもなく、人の眼差しは、自分では自分だけのものとして私有しているように思っているが、そこに他者の眼差しが共有されているものである。サピア・ウォーフの仮説が言うように、対象をどう認識するかは、自分が話す言語に影響されるし、われわれの物の見方を形成してきた親の声、社会的習慣がそこには混入している。
きわめて明快に思えている「自分」の眼差しというものから、さまざまな他者を取り除いてしまったら、果たして純粋な自分らしさが残るのか、それとも矮小でとるに足りない小さなegoが残るだけなのかを問いかけているのだ。

いや、明瞭に答えは出しているのだ。

彼女の布のオブジェのエロティシズムは、小さなエゴに閉じこもることの卑小さを突きつけてくる。意味や文脈から純粋無垢に独立した無意味な世界を撮影するといった憧れは、長はるこの中にはない。世界を平面に写し撮る作業を通じて、撮影している自分こそ不可分な世界を構成している一部分なのだと確認しようとしているように思えるからだ。「布が面白い? そういう人もいるでしょう。でも私はそう思わない。お互い違う人間だから差異を大切にして尊重しあおうよ」などといった主張は、お互いとの間に境界線を引いて相互に領域侵犯をしないで小さなエゴにたてこもる孤立主義だ。長はるこはこのような線引きを拒否して、自己のアイデンティティーを解体し、その作品を見つめるわれわれのアイデンティティーにも侵入してくる。

かくて世界がエロス的に連続し始める。

布一枚がなんとも恐ろしいことになっている。



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