ANNE BOLEYN Museum of Art

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「ふりつもる曖昧」 板・綿布・石膏地・油彩・テンペラ F50

安達 亜衣子 Adachi Aiko

現代日本美術会会員

1978 福島県生れ
2002 多摩美術大学絵画科油画専攻卒業
     福沢一郎賞受賞
2003 「昭和会展」出品 日動画廊
     「美の視点」 銀座・東京
2004 「二人展」 銀座・東京
     「黒艶の会」 銀座・東京
     「玉蟲展」天理ギャラリー 横浜
2006 現代日本美術会大賞及び会員推挙賞



まったく恐るべき若者がいるものだ。

ショパンの登場をシューマンが評して

「諸君、脱帽したまえ、天才だ」という有名な一節を書き、まだ作品番号2というのにあきれていたが、これに負けない気の利いた言葉を探したくなる。

安達亜衣子の作品は、画面一杯に女性像があって、湿っぽいロマンティシズムとはちがった叙情性と、高貴な充実感にあふれ、マニエリスム的にさえ思える過剰さをたたえている。まだ何も描かないうちに絵ができてしまっている下品さと、なんという違いだろう。

女性の眼は虚空を見つめるようでいて、

その視線は絵を見ているわれわれを射貫き、

われわれの背後にある深淵を見出しているように見える。絵の背後に何か存在の気配を感じさせる作品というものはあるが、なんだか絵を見ている自分の正体を見抜かれてしまうような気持ちにさせられるというのも不思議だ。
それが絵の魅力の大きさなのだろうが、これはジャン・コクトーが愛した反ロマン主義・反印象主義のフランス6人組の音楽、とくにプーランクの洒脱さを思わせる。フルート・ソナタの2楽章や「ナゼルの夕べ」の第2曲「手の上の心臓」なんかを流しながら眺めてみたいものだ。

ロマン主義の精神は、フィヒテの自我、ノヴァーリスの魔術的な想像力、シュレーゲルの美しき魂を受け継ぎつつ自然と物質を人間の支配下におこうとするが、コクトーやプーランク達は自然と融即し、

主客合一の陶酔感を求めつつ、

その陶酔の淵源を冷静に分析するような冷めた視線を失わないでいる。安達亜衣子の女性像も、陶酔感に身をゆだねるようでいて、きわめて理知的な軽やかさを持っているのだ。
こういうスーパーリアリズムなどでは片付けられないこの表現力を前にすると、哲学者ウラディミール・ジャンケレヴィッチがヴィルトゥオジテ(超絶技巧の名人芸)について論じた一節を考えさせられてしまう。
ヴィルトゥオジテとは、言葉における多弁、音楽における音符の過剰、騒がしさ自己主張や聴衆の熱狂的喝采といった過剰の力そのものなのだが、ジャンケレヴィッチはヴィルトゥオジテ概念は説明しがたいものや言い表せないもの、夜想曲や沈黙と関係があると主張する。「夜には秘密があるが、昼の明晰さには神秘が隠されている」と言うのだ。

安達亜衣子のヴィルトゥオジテには

昼の明晰さと神秘がある。「炎を直観的に知るには、火炎が踊っているのを見ているだけではなく、熱さの内側で炎と一体にならなくてはいけない。視覚的な像ばかりではなく、火傷するという実際の感覚が必要だ。蝶は炎の間近まで接近し、身を焦がす熱さに触れて、文字通り炎と戯れることができる」とジャンケレヴィッチは言った。
安達亜衣子の作品画面は、本当に炎に戯れている凄味を見せている。



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