ANNE BOLEYN Museum of Art

index



「失われた時を求めて」 P 30号 テンペラ・油彩

村社由起 Murakoso Yuki

現代日本美術会会員/審査員

1992 京都精華大学 テキスタイルデザイン専攻 卒業
1998 個展 茶屋町画廊(大阪)
2001 個展 ぎゃらりぃ朋(銀座)
     グループ展「新進気鋭の作家達展」 渋谷東急
2002 個展 ギャラリー嶋ノ内(大阪)
2003 現代日本美術会会員推挙賞受賞
2004 現代日本美術会会員努力賞
2005 個展 ギャラリー嶋ノ内(大阪)



驚くべき細密で繊細な表現力を持った作家の登場である。写真のような描写力というのは見かけるものだ。しかしこの作家の筆致は、

モデルに向けた自分の愛情の眼差しを

明確に宿し、対象を見る視点、大袈裟に言えば作家の世界認識のあり方さえ示している。
つまり自分の文体を早くも持っている。ちょっと信じられない話だが、作家が言うには、大学でテキスタイル・デザインを専攻したから、絵の方は本格的に描き出してまだ5年(2001年当時)なのだという。
こういうストレートの豪速球を投げ込む強肩ぶりを見せられると、ちょうど高校球児の非凡な才能に出会ったように、フォークやスライダーはいいから、今度はこのコースに、次はここにストレートを、と注文をつけてみたくなる。

われわれはこの作家の人体表現が

どこまでいけるものなのか、見きわめてみたい衝動を押さえがたい。人体表現は、その面積の2乗に比例して難しくなり、ほんのちょっとのしくじりでお笑いになってしまう。「ショパンのワルツで踊るには、貴婦人でなければならない」という言葉を思い出すが、少女の頬の部分で見せた表現力はショパンになれるのだろうか。見るものを陶然とさせるような気品と精神性に満ちた全裸の肉体を現出できるのだろうか。

この描写力を生み出す作家の視線なら、

ひょっとして表面を取り繕った偽善的な美や美徳とを剥ぎ取り、D.H.ロレンスのように対象に体温として宿る生命エネルギーまでも描いてしまうようなところまで成長していくかもしれない。この作家の独自のトータルな人間の身体把握と人間理解の成長を見ていきたいと思う。中島敦の『山月記』にある臆病な自尊心や尊大な羞恥心とは別次元の、

完全な表現を求めて

虎になっていく映画「無伴奏シャコンヌ」の主人公アルマンのような芸術家の魂と業を、この作家の画面で見てみたいものだ。



index