ANNE BOLEYN Museum of Art

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「最後の一服(A)」 変形15号

上野忠靖 Ueno Tadayasu

現代日本美術会会員/審査員

1971 京都生まれ
1996 京都造形芸術大学卒業
1998−2001 スペイン・バルセロナ留学
2003 現代日本美術会奨励賞
2004 現代日本美術会会員努力賞及び関西支部長任命



余計なものを描き込まずテーマに集中した、緊迫感のある、ずいぶん老練な筆使いの作家の登場である。信じがたいことに、まだ30歳なのだという。
社会的な題材を取上げているわけではないのに、一見して、東欧の現代絵画を思わす端正な筆致で描き込まれた暗く深刻な色調・・、いやそんな説明はいい。

この作家の描く人物像の

存在感の希薄さ、軽さ、あるいは「存在」そのものを見据える視線に注目しよう。例えば「前へ」という作品。ブロンズ製の手首を画布に貼り付けたような表現があるのに(いやはや鍛造された板が貼り付けてあるくらいにみえる)、背景の壁のマチエールに溶け込んだ人物像は、驚くほどわずかな描き込みで壁から人物の姿として立ち表れている。このマチエールが背景の壁とまったく同じというのがカギだ。

人物の頭部は背後の暗闇と同化し、

胴体は壁と同化している・・。そう見えてしまうと、この人物像は、壁に現れた人の胴体のような形の、なにか汚れのような模様に、背後から闇が乗り上げるようにして憑依し、頭部の姿をなしたように思えてくる。
リアルなブロンズ製の手首が両者を合体させて、一人の少年の姿にまとめ上げているのだが、その憂いをたたえた沈痛な面差しはとても少年には見えない。指に結び付けられた風船も、記号として一般的な「希望」とか「夢」のような軽やかなものには見えず、なぜかさまよう霊魂の象徴のように見えるのだ。

ここに上野特有の人間理解がある。

人間は壁に投影された映像なのだ。私は、宮沢賢治の『春と修羅』の序を思い出す。「わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です。(あらゆる透明な幽霊の複合体)・・」、ほら、こんな人物表現ではないか。宮沢賢治が序で語っているのは、自分の想像力は主体的な認識の表現ではなく、「透明な幽霊の複合体」であるからこそ可能な自然の微細で幽かなメッセージに感応する霊感・直観の産物であり、「交流」によって投影されたリアリティーなのだということ。あるいは、この次元において上野には「存在すること」の根源が開示されたのかもしれない。なるほど、いくつか浮遊する風船は、この人物の過去生の象徴であるとすれば、この作家は、存在を支えている複合的・重層的な物語を形象化しようとしているのだと理解できる。

催眠術で過去生までさかのぼっていく

「前世療法」などという議論があるが、輪廻転生などを持ち出さなくても、人間の精神には、克明に何人もの人格や人生を作り上げる物語の構築力が秘められている。日常生活では、たしかに自分は自分だと、自己の同一性を疑ってはいないが、多重人格症が示すように、われわれのアイデンティティーは複雑な重層構造をなしているのだ。つまり何人もの人生の物語が、たった一人の「私」に内在している。こういう目で人物像を描こうという作家は、あまり見たことがない。
超越的な神の手にすべてを委ねるような宗教的な平安は少しも見えず、上野は神なき時代の「存在」の物語を、絵画の形式で抽象的な哲学論として語りつくそうとうする。このheavyさには驚かされるが、意気盛んな姿勢はかっておこう。

彼のこの特性が一番成功しているのは、

「最後の一服(A)」だ。明るい色調の静謐さをたたえた一枚である。文字どおり人生最後の一服に火をつけた男性は、その煙を堪能するような満ち足りた表情をしている。しかし、もはや空中の見えない手は、この人物の襟元を引っつかみ、虚空へと引き上げようとしているのだ。壁のマチエールと同化して、半ば透けている幽霊のような人物像の存在感の希薄さによって、この人物は、もはや大地に体重をかけてはおらず、半ば空中に浮かんで消滅しようとしているのが克明に理解される。
自分をあの世に導く手に引っ張られながら、彼は、タバコに火を点け、おそらく、その吸い込んだ一息の煙を吐き出す前に昇天するのだろう。

これが自分の最後の一呼吸だ

と悟った人間が、死の恐怖と衝撃を前にして、余裕を気取る演出の一服。まさに絞首台を前にした最後のダンディズム。明るい満足の表情が、哀愁と諦念と苦笑のまじりあった、何とも言えない感動的なものに見えてくる。
死神の手も、記号になりそうな形象もすべて断念し、壁の前の一人の人物だけに焦点を絞った。これによって、この絵は傑作となっているし、いかにも日本的な私小説的な「個」の重苦しさ、鼻持ちならなさを脱してオシャレな軽やかさを得ている。
ノルウェーの画家、ラインハルト・サビエのような強烈な表現にも傾斜しかけているこの作家には、この一枚のような明るさの中の奥行きのある情念をぜひ追求してもらいたい。

哲学を声高に語らずとも、

このように情念の奥深さを語ることができる。モーツァルトの明るいハ長調には、深い悲しみと、高い精神性、宗教的な諦念が込められているのだ。フォルテを使わない休符の雄弁さ。そういう一枚であった。



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