ANNE BOLEYN Museum of Art

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「真偽」 P 25号

刈谷 太 Kariya Futoshi

1972 大阪府生まれ
1997 東京芸術大学美術学部絵画科日本画専攻卒業
1999 ART BOX 日本画新人賞受賞



彼の「擬態」という作品を見たとき、思わず笑ってしまった。これは、洲之内徹『気まぐれ美術館』の「ある青春伝説」の中で書いている重松鶴之助「閑々亭肖像」のパロディーではないか? (ちがっていたらごめんなさい)。背景のひび割れ、構図、色調など実に上手く借用していると見える。

ちょっと比べてみたくなって、

重松の原作を探してみる。原作のモデルは近所の下駄屋の亭主だというが、テーマの人物像は、いかにも身近にいそうで親しみを感じさせながらも、リアルな表現に底の知れない存在感があって迫力がある。普段は、存在自体も気に留めないような親しい人物がふと、垣間見せる内面の闇と人生経験の秘密の気配にドキリとしてしまう。
歴史上の人物でなくても、市井の凡人であっても、

人生はかくも重たい闇に満ちているのだ。

洲之内徹は重松の作品について「一枚の作品が持つ時代性とは、・・絵を描くということにそんなふうに全身で入りこむことができた時代、画家にそれを許した時代が、その作品を証しとしてそこにあるという、そういうことではないだろうか」と書いた。
昭和初期の時代、官憲を敵に回した命懸けの政治運動に身を置きつつ、自己存在の証しとして絵画表現を残さずにはいられなかった重松鶴之助に共感する何物を、刈谷太は内面に抱えているというのだろう。
彼は「擬態」と言うけれど、いかにも現代青年という内面に、ドストエフスキーの「地下生活者の告白」的な闇と屈折した情念や苦悩が隠されているというのか。それとも、そのようなアナクロニズムな「自我」の苦悩を演出するということなのか。

あるいは「苦悩する自我」

なんてもの自体を嘲笑するだけの毒気をマニフェストしているというのか。眺めていると、いかにも現代青年の姿へとパロディー化された閑々亭(?)の表情が意味ありげに奥行きを持ってくる。

理想に命を張った時代の作品を

パロディーにしたというのは勝手な思い込みだが、刈谷の絵画への姿勢の一端が伝わってくる一枚である。絵としては「真偽」という作品が一番いい。しかし、この背景の白の深みが心に響いてくるのは、「擬態」の一枚があるからこそかも知れない。

背景なのに人物像を包み込む

ように前面に押し出してくる白。この白の深みは、チョット油断がならない。「擬態」を見た後では、「白い闇」というものがあるなら、これなんだろうなと思う。



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