ANNE BOLEYN Museum of Art

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「Gypsy woman」 紙・透明水彩・グァッシュ 33.5×24.5cm

ゴーシュ・マダブ Madhab Ghose

1966 インド、ニューデリー生まれ
1988 デリー美術大学卒業
1996 東京芸術大学大学院美術研究科油科専攻修了
1997 第15回上野の森美術館大賞展 優秀賞受賞
1999 東京芸術大学大学院博士号取得
    HUDCO美術館、上野の森美術館その他 収蔵



こういう時代だから、攻撃的で暴力的な色彩にはよく出会う。逆に表面を美しくて整えていても、過剰に自己陶酔的であったり、見るものに媚びた下品な色彩となると憂鬱な気持になる。
ギャラリーの空間を馥郁たる芳香でみたし、静謐な時間を充実させるような美しい色彩となると、これは、あまり経験しない。ゴーシュ・マダブの作品は、ウスベニアオイのような藍色とスイトピーのようなピンクと…。複雑に色を重ねているのに、マチエールの構成要素でもある和紙という素材のせいだろうか、少しの濁りも、くすみもなく透明である。

この色彩構成だけでも逸品だ。

生命を謳歌するようなバッカス的な健康的な色彩というのではないのだ。あくまでも清澄、透明、無垢であることを求めた禁欲的で高雅な精神を感じる。
強烈な色彩ではないのに、オパールのような硬質の耀変と眩暈を感じるのはなぜだろう? ここには一筋縄ではいかないリアリティー認識の匂いがする。これは、私の領分だ。インド哲学、それもヴェーダンタ哲学なんだと思う。
マダブ作品にわれわれが見るのは空間を遍満する光と色彩の洪水である。われわれを当惑させるのは、見慣れた透視法がないことである。いや、透視法どころか、ここには「視点」というものがない。「視点」を求めようとすると眩暈を起こす。日常では見ることがない「不可分にして一なる全体」というものに出会っているのである。これは、言葉以前の世界なのである。われわれの習慣になっているものとは異なる世界認識が、今、目の前にあるのだ。

われわれをつまづかせるのは、

画面に大きな位置を占める女性像。たぶん、光と色彩自体が生命力の自己表現である上に、自然のエネルギーそのものを象徴化した形象なのだろう。繊細な描写なのに実在感を感じさせない奇妙なものであって、はじめから虚的なもの、ヴァーチャルなもの、いや記号そのものなのである。

単純に女性の身体の

表現があると思い込むと、われわれはファインダーを覗き込んだときの視点を求めてしまう。ところが相手は切れ目のない光の充満であり、それに「意味」を付与している記号、象徴のフォルムの集成であるものだから、こちらが勝手に読み取った空間イメージと矛盾が生じる。いわば透視図法の錯覚によって構造化されていない光の氾濫が、一層、画面の向こうからこちらにあふれ出てくるのと直面してしまう。そこに眩暈と耀変が生じるのだ。
「世界は勝手にイメージされた世界像で埋め尽くされているのです。矛盾しあう混乱の中にこそselfが成立するのです。でも、それこそがヴァーチャルなのであって、本当は私も目の前の世界も不可分な一つの全体なのです…」

マダブは言葉では言わないけれど、

アルカイックな微笑を浮かべて一緒に作品を眺める。われわれには色彩ののらない白い画面でさえもが意味の解読を迫ってくる。
空間に充満する生命力を光と色彩として視覚化した上に、さらにその豊穣性・エロスといった観念の象徴記号としての女性の身体まで描きこんでいるのだ。清澄な画面の印象にそぐわない、なんという過剰な表現。
「…たとえば神さまは人間に見えるようなものじゃないけれど、その性質がイメージできるようにリアルな神像にして描きます。本当にそういう姿をしているとは全然思っていないけれど…」とマダブは言う。
われわれは、言葉によって空間を切り分け、概念によって世界を構築しようとする。そして自分を包み込む空間を、その外側から鳥瞰するように構造化した視覚的イメージに押し込めようとする。
マダブは切り分けようもない眼前の世界の生命力を画面上の記号にして埋めつくしていく。なるほど、マダブは「全部虚的なもの、ヴァーチャルなものなんだけど、こう描かないと、私を含めた不可分の全体の生命力がイメージできない」と思いつつ描きこんだのだろう。

スタイルは対極にある

と言っていいほどなのに、なにか伊藤若沖ばり過剰な細密さ、過剰に表現せざるをえない精神を感じてしまう。十号にも満たない小品群。静謐でしかもエネルギッシュな力作にかこまれて、「これはホンモノだ」と私は小さく呟いたのだった。



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