ANNE BOLEYN Museum of Art

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「大蛇退治」 油彩 72.7×27.0cm

勝 国彰 Katsu Kuniaki

1967 大阪生まれ
1986 京都市立銅駝美術工芸高校卒業
1993 個展 サラサ 京都
1994 個展 アートスペース自由空間 大阪
1995 個展 アートスペース自由空間 大阪
    個展 里見有清堂画廊 京都
1997 個展 画廊春秋 銀座
1998 個展 画廊春秋 銀座
    フクイ・サムホール大賞受賞
1999 グループ展「幻想の新・千年紀」 ぎゃらりぃ朋 銀座
2000 グループ展「幻夜の刻印」ギャラリーアクシズ 大阪



暗い絵である。それ以上に怪しく、妖しい。戦慄を禁じ得ない何かがある。
こちらにタトゥーを入れた背中を向けた女性が、長い髪を体に巻き付かせうつむいている。顔を見せない女性の足元には、巨大なヘビの胴体と思われる物体がある。
勝国彰の作品は、幻想絵画というよりも、図像学的な解釈を前提とした、ある種のイコンと理解した方が生理的に安心できる。

この理由は、少し回りくどい論理と

なるが述べておかねばならないだろう。
単純に見れば、きわめて怪奇な幽霊画のようなものである。巨大なヘビは、女性の情念、それも嫉妬心、憎悪、怨念とか愛欲、執着といった性質のものの記号であって、女性本体自体の妖怪化を象徴している。上田秋成の『雨月物語』のなかから「蛇性の淫」あたりを絵画化したもの、と理解すれば納得しやすい。そういう絵を描くのも、見るのも好きな人間はいる。
この作品は、女性の裸体をリアルに描いている。さらに女性が背中の彫り物を入れているといえば、嗜虐的な隷属をよしとする女性の濃厚な情念、愛欲を見出さざるをえない。しかし、なぜだろうか? 妖艶さとか淫猥さといった性的なモチーフ、もっといえば生命力でもあるエロス的な陶酔や誘惑をすこしも感じさせない。

よく見ると女性像は理想化されたものではなく、

引力に負けた筋肉のたるみ具合、あまり弾力を感じさせない脂肪を感じるリアルな描写である。皮膚の下の老化、衰え、肉体の中で失われつつある生命力といったものに、この頽廃感が漂うのである。
あまり気持のいい表現ではないが、屍体が腐敗、崩壊していくプロセスを想わせるような、もっと言えば、生きている肉体の中で死が育っていくプロセスを意識させられるようなところがある。

一体、死というのは、

ある日、突然100のものが0になる変化なのであろうか。それとも肉体の中で100からのマイナスのプロセスが進行して、臨界量に達すると、それが死という現象として現れるのだろうか?われわれは、死を宣告されても、細胞レベルではまだ生きていて徐々に、死滅、腐敗、崩壊をしていくわけだから、逆に言えば病気というのは、細胞とかのレベルでは、バランスを失して健康がちょっと損なわれただけの状態ではなく、死からほんの一歩手前だけの状態なのかもしれない。
女性像の足元のヘビの胴体も、動きそうには思えないから、この絵画作品は、このような生と死の弁証法を図像化したものかもしれない。

「蛇性の淫」よりも近いものがあるとすれば、

夢枕獏の『陰陽師』に収録されている「白比丘尼」という作品がそうであろう。
これは、安部晴明が人魚を食べて不老不死となった女性から禍蛇という名の鬼を落とす話である。不老不死の女性は、身を売って生きている。
「年をとらぬと、死なぬということは、子を生す必要がないということだ…子になることのない男の精を三十年も受けていると、その精と、女の身体の中に溜まった、とらなかった分の歳とが結びついて、あのような、禍蛇となるのだ。ほうっておけば、いずれは女自身も、鬼と変じてしまう」白比丘尼は、鬼を落としてもらいながら苦痛と性的恍惚感、歓喜を味わい、また若く美しい女性へと回帰を繰り返す。なんだか勝の絵画作品に一番近い説明に思える。
後ろ向きの女性には、どうか振り向かないでもらいたい。その間に、コールリッジやウィリアム・ブレイクの美しい詩についてでも語っていよう。



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