ANNE BOLEYN Museum of Art

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「点」 雲肌麻紙・岩絵の具 40.0×32.0cm

福井江太郎 Fkui Kotaro

1969 東京生まれ
1992 多摩美術大学絵画科日本画専攻卒業
1994 多摩美術大学大学院美術研究科修了
    '92セントラル美術館日本画大賞展 銀座・セントラル美術館
1993 第11回上野の森美術館大賞展 上野の森美術館
    第20回創画展 東京都美術館
1994 彩の会 銀座・かわべ美術
1995 個展 同和火災ギャラリー
    第9回青垣日本画大賞展 東京新聞賞受賞
1999 個展 銀座・かわべ美術
2000 長野県佐久市立近代美術館に「歩」が収蔵される
2001 第20回安田火災美術財団選抜奨励展 新宿・東京



ダチョウの顔がこちらを向いている。首だけが長く(それはダチョウなんだから)、胴体がない…何か全体のバランスが変だ。
僕の場合、「あれ、なんだろう? 何かがヘンだ」と引っかかってくるものがあるとき、素通りせずに作品をじっくり見ることにしている。
一見してセピア色の古い人物写真を想わせる。時間の経過だとか物語性を感じ取るのなら容易だろう。でもこの違和感はそんなものではない。
そう、このダチョウの目、人間の目なんだ。
首をかしげた人間。怒りとも悲しみともつかないような、いや、この目はもっと嫌なものを含んでいる。とくに右目に浮かんでいる軽蔑、

嘲笑の視線が問題なのだ。

つい想像してしまうんだな、この作家は、鏡で自分の顔を覗き込みながら、このダチョウの目を仕上げたんだと。自嘲的に自分を見ているといった単純な構造なのではなく、
もっと自分の「存在」の根源を問いただすような、ちょっと性質の悪い視線の交錯を感じずにはいられない。
鏡の中の自分の目は、別人格のようにしてこちらを睨み返してくる。と同時に、覗き込んでいる作家の視線は、自分の本質、正体、もっと言えば存在の深淵にあるものを見きわめてやろうと鏡の世界に攻め込んでいく。

鏡同士を写し合うと、

そこに無限の彼方に伸びる虚像の通路が現われるが、そこは悪魔の通り道だという怪談があったが、どうやらこの作家は、あまり性質のよくない視線と向かい合ってしまったような気がする。ミラン・クンデラの

『存在の耐えられない軽さ』

の書き出しはニーチェの永劫回帰という、時間の経過がどうした、こうしたを無に帰してしまうような問題を取上げていて、「一度で永久に消えて、戻ってくることのない人生というものは、影にも似た、重さのない、前もって死んでいるものであり、それが恐ろしく、美しく、崇高であっても、その恐ろしさ、崇高さ、美しさは、無意味なものである」という身も蓋もない言葉で始まっていた。この人生の恐ろしさ、崇高さ、美しさがまともに取上げる必要のないものであったら、日々の生活の中の楽しさ、悲しさなど…といった自問自答を進めてしまわずにはいられない、そんな文章なのだが、福井は、弾圧された「プラハの春」を経験せずして、どうしてこのようなシニカルな視線に出会ってしまったのだろうか。
この作家には、自分の哲学を展開するだけの教祖タイプでもなく、何かの思想、哲学に惚れ込んでそれにのめり込む信者体質でもなく、さまざまな哲学、思想を知識として集めては相対化し、

自分は一定の距離を置いて

眺めているという、そう、僕たち思想史研究者と同じ体質を感じる。でも、このダチョウの目は、じっくり見ておく価値がある。



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