ANNE BOLEYN Museum of Art

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「視床」 木・紙・アクリル絵具 46.3×35.7×7.8cm

長 重之 Cho Shigeyuki

1936 東京生まれ
1968 個展<ピックポケット'68>(村松画廊)
1973 グループ展 京都ビエンナーレ<居留地-1>(京都美術館)
1979 個展<領域-'79>(群馬アートセンター)
1983 グループ展 彫刻のデッサン=空間の中の素描展
    1882〜1982=(イギリス、サンダーランドアートセンター)
1988 グループ展 美術史探索学入門・美術館時代が掘り起こした作家達
    現代美術として映像表現編(目黒区美術館)
1991 ドローイング展(ギャラリー古川) 東京
1993 個展 <ピックポケット>シロタ画廊 東京
1997 かわさきIBM市民文化ギャラリー<さまざまな眼・長 重之個展>
1998 個展 湘南台画廊<視床> 藤沢



彫刻というよりもレリーフのような立体作品である。

一見すると単純な記号的フォルムに

見えるが、細部にはいろいろ破綻があって、逆にこのいろいろな要素の集合体を単純な記号のように認識してしまうわれわれの視覚のシステム自体が問われているのだ。

油断ならない作品である。

「視床」という題名が示すように、これはわれわれの眼球の奥底を図案化したもの。われわれの眼は、自分の眼のカラクリを見ていることになる。夢野久作の「ドグラマグラ」の中で脳髄が脳髄のことを考えるパラドックスが議論されていたが、ここでは眼が「見る」ということの内実に出会うように作られている。しかも「見る」ことのインチキ臭さをも突きつけてくる形で。

光学的に侵入してきた映像は

網膜には映るのだが、実はこの視床下部で情報の集合体に転換される。映像は、この方向の線をなぞる神経細胞、その方向の線は・・と、膨大かつバラバラな情報として脳に取り込まれ、いわば脳の中でバーチャルリアリティーとして再構成される。つまりわれわれは、決して外界のリアリティーを見てはいないのだ。
眼前に見える世界が、実はそのような世界であるという保証はまったくない。ただ自分の脳がそのように認識したというだけのこと。なんとまぁ、この眼前の世界はインチキ臭いのだろうか。しかも、そんなこととは誰も意識もしないのである。

この作品がつきつけるものから

「思い込みとしての世界」「この世界は実在していない」と言う仏教の、とくに中観帰謬論証派つまりダライ・ラマの存在論なんかまで議論が広がってしまうのだが、この作家は大笑いするんだろうな。この作品、木片や紙などのかなり雑とも言える寄せ集めであって、どこが「視床」なものか。

人々が礼拝する仏像を指して

「でも諸君が何と言おうとも、これはただの木材にすぎない」と喝を入れた話が臨済録にあったが、これって、作品をあれこれ論じる者に向ってこの作家が言うことと同じだ。
「この作品の青は情報の色なのだ。なぜかといえば・・」などとも言いたい。でも、警策棒が飛んできそうだから止めておこう。



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