ロシア紅茶文化散歩道

目次

1.はじめに
2.紅茶はいつロシアに伝わったのか。
3.紅茶はどんな経路で運ばれていたのか。
4.いつロシアのお茶文化は花開いたのか。
5.サモワールはいつ誕生したのか。
6.一家に一台サモワールの時代
参考文献

1. はじめに

紅茶、殊にアフタヌーンティーと言えば、思い浮かべるのは誰もがやっぱり英国だけれど、ロシアも立派な紅茶大国なのだ。紅茶の本を紐解いてみる。メインはどうしても英国の紅茶文化ということになってしまっているけれど、紅茶好きの方々はちゃんとロシアの紅茶文化にも一目置いているようだ。それはどうも英国の紅茶文化にはないサモワールという独特の茶道具があるから故らしい。このサモワールという茶道具は、「サモワール知らずしてロシアを語るべからず」と言っても過言ではないほど、ロシアにちょっとでも興味がある人であれば誰もが知っている大変馴染み深い道具である。ところがこのサモワールがいつ頃どんな経緯を経て現在のような形になり、ロシアの紅茶文化の中心を担うようになったのかを知る人はあまりいないのではないだろうか。紅茶や陶器が好きなくせして、実は長らく私もそんな一人であった。しかしこの所、どうもロシアの紅茶文化への探究心が涌く。紅茶大国の一番手(?)英国に足を運んだからだろうか、理由は定かではないのだが。そこで早速、ロシアの紅茶文化とその中心的存在サモワールについて探ってみることにした。

ところでサモワールと言えば、トゥーラである。В Тулу со своим самоваром не ездят.(=トゥーラへは自分のサモワールは持って行かぬもの)という諺まである程である。 実のところ私は当の地に足を運んだことがあるのだ。サモワールの歴史の詳細を知るにはまたとないチャンスであったのに、その時はトルストイの聖地ヤースナヤ・パリャーナへの一中継地点に過ぎないとあまり関心を寄せていなかった。今となっては実に惜しい話である。私が抱いているサモワールに関する謎は、一度トゥーラに足を運びさえすればすぐにすべてがあっけなく解明されるのかもしれない。しかし、今はそんな余裕もないので、今回は取り敢えず日本ではどんな風にロシアの紅茶文化が紹介されサモワールについて語られているのかをみていきたい。

2. 紅茶はいつロシアに伝わったのか。

一般にロシアに紅茶が伝わったのは16世紀後半であると言われている。ピョートル一世の時代、清の康熙帝と国境画定を行ったネルチンスク条約(1)(1689年)の際に中国側がロシアに手土産として紅茶を用意したのがきっかけとなり、1689年に中国から紅茶の正式輸入が開始されたようである。また別の資料には、1938年に中国からオランダ東インド会社の手によって初めてロシアにお茶が運ばれたとの記述もある。しかし、13世紀前半から15世紀後半にかけての約250年間、ロシアは「タタールスコエ・イーゴ」と呼ばれるモンゴルの侵略・支配下にあり、紅茶ではなかったかもしれないがお茶を飲む習慣自体は、もっと早い時期にモンゴル人によってロシアにもたらされていたのではないだろうか。モンゴル人はロシアで多くの略奪・破壊行為を行ったとされるが、モンゴル人はロシア人の日常生活の様々な面で影響を及ぼし、殊にロシアの食文化には大きな影響を与えたと言われている。ヨーグルトやコッテージ・チーズの作り方もこの時代にロシアにもたらされたとされている。

3. 紅茶はどんな経路で運ばれていたのか。

ロシア語でお茶は чай、である。陸上ルートか海上ルートか、伝播した経路により、呼び名が異なるのはかなり知られた話である。中国の広東語のchaを起源とし、陸路伝播していったのが、ロシア語の чай、トルコ語のcay、ペルシャ語のcha等の「C文化圏」とも呼べそうなグループ。そして、中国の福建語のtayを起源とし、海路を伝播していったのが、英語のtea、仏語のthe、イタリア語のte等の「T文化圏」とも呼べそうなグループである。「C文化圏」に属し、陸路伝播したロシアには、その後も長らく紅茶は中国から陸路で運ばれた。モスクワまでの1万8千キロに及ぶ道のりをラクダのキャラバン隊で16~18ヶ月要して運搬していたようである。このキャラバンによる紅茶の運搬は19世紀後半まで続いた。

少し余談になるが、このキャラバンによる紅茶運搬の歴史を知り、一つの謎が解明された。ロンドンのFortnum&Mason(2)の紅茶リストで見つけた「Russian Caravan」という名の紅茶の名前の由来についてである。そしてその後日本で紅茶の本を色々読むうちに、この「Russian Caravan」という名の紅茶は、Whittard(3)などの他の紅茶会社でも売られていてらしいことも分かった。ラクダによって遥々運ばれた紅茶。この紅茶が持つ何処となくエキゾチックな物語に東洋趣味を持つ英国人は惹かれるのであろうか。

その後、1869年にエジプトのスエズ運河が完成、蒸気船の時代の到来とともに、運搬ルートもスエズ運河からエーゲ海、黒海を抜ける海上ルートが利用されるようになった。そして更に、1916年、シベリア鉄道がウラジオストックまで開通されると、キャラバンの時代は完全に幕を閉じた。

4. いつロシアのお茶文化は花開いたのか。

英国に紅茶を広めるきっかけになったのは、ポルトガルよりチャールズ2世のもとの嫁いだキャサリン王妃だったと言われている。そのキャサリン王妃が嫁入りに際に持参金として持ってきたボンベイの権限や砂糖が、英国における紅茶文化に大きな影響を与えたことは間違いないだろうが、キャサリン王妃によりしばし催されたティーパーティー(社交喫茶)こそが英国の紅茶文化を花開かせたのではないだろうか。キャサリンは子供に恵まれなかったこともあって、宮廷内でティーパーティーを催すことが一つの慰みとなっていたようであるから、ティーパーティーへの心意気はかなりのものだったのでないかと思われる。また、当時流行っていたコーヒーハウスと呼ばれる場は女人禁制であったため、キャサリン王妃の催すパーティーには多くの貴婦人が集まったことであろう。

ロシアにおいてもまた、お茶文化が花開いたのは3人の女帝時代、つまりアンナ(1730-40)、エリザベータ(1741-62)、エカテリーナ二世(1762-96)時代であり、女性が大きく関わっていたのではないだろうか。これはあくまで推測の域をでないのではあるが、アンナが催す舞踏会や宴会はヨーロッパの人の語り草になる程だったと言われていること、従妹のエリザベータは闊達な性格の上に食い道楽だったと言われていること、更にエカテリーナ二世の西欧化政策を考えるにつけ、十分想像されうることである。しかし、その素地を築いたのはピョートル一世であると言える。ピョートル一世以前のロシアでは、上流階級の婦人は別棟の「テレム」と呼ばれる離れに暮し、身近な家族以外の人と接することはなかった。当然、宴会は女性が席をともにする場ではなかった。しかし、この「テレム」はピョートル一世により廃止され、女性たちはかつて被っていたベールを脱ぎ捨て、新しい髪型に最新のファッションで身を固め夫と伴に社交界に登場することになったのである。そんな華やいだ社交の場を通してロシアの紅茶文化は花開いていったのではないだろうか。また、蛇足ながら当時のロシアと英国との関わりという視点から見ると、1773年にエカテリーナ二世が英国のウエッジウッド社にディナーセット952点を注文しているのも興味を引くところである。

5. サモワールはいつ誕生したのか。

さて、いよいよサモワールに話を移したいのであるが、一般の書物で見られるのは専らサモワールの使い方に関しての記述であった。そのため、サモワールの誕生に関しては分からないことが多い。サモワールが誕生したのは18世紀であると言われていが、これはには18世紀の前半であるとする説もあるし、あるいは後半であるとする説もある。中国、あるいはモンゴルの火鍋(ホーコー)を改良して作られたものだと言われているが詳しいことは分からない。確かにサモワールの原理は火鍋にそっくりであるので、火鍋がサモワールの原型であることはほぼ間違えなかろう。「中国の北方にサモワールに似た道具を用いていた民族がいたとも言われている」と紹介しているものもあった。

ところで、幾つかの本を読み進める過程で気になり出したのが、英国の「ティーアーン」と呼ばれる茶道具とサモワールとの関係である。例えば、J・H・ティッシュバインの若い婦人の肖像画(1756)には、左端に申し訳程度に「ティーアーン」が描かれている。このティーアーンにはサモワールそっくりのお湯を注ぐ蛇口が付いていて、その上丸みを帯びた卵型のフォルムをしているのである。この絵を書物で初めて目にした時は、英国でもサモワールがかつては使われていたのかと勘違いしそうになった程である。このティーアーン、英国では18世紀半ばから使われ、しばし文学作品の中にも登場することからも、英国の紅茶文化の一端を一時は担っていたものと思われる。ロシアのサモワールとの関係については、「おそらくロシアのサモワールを真似たものではないかと思われるが、まだ確かなことは分からない」と言及してあるものも一冊あった。もし本当に18世紀半ばから使われているティーアーンがサモワールの真似であるならば、遅くともロシアに於けるサモワールの誕生は18世紀前半でなければなるまい。

また周辺諸国に目を向けると、ポーランドでも戦前はサモワールが用いられていたらしい。それが現在では、大きなティーポットの上に小さなティーポットを乗せる形のものが一般的になっているようである。しかし、サモワールとお茶の入れ方としては同類である。こういったお茶の入れ方は、トルコ紅茶も同じである。写真で見たトルコのポットはやはり2段になっていた。

6. 一家に一台サモワールの時代

長らくロシアにおいて紅茶は嗜好品であり、サモワールを囲んで優雅に紅茶を楽しむことは高嶺の花であった。と言うのも、ロシアでは需要の増加に対応すべく自国生産を試みますがなかなか上手くいかず、専ら中国からの輸入に頼らざるを得なかったからである。自国生産に成功するのは、19世紀半ば頃で、グルジア地方においてであったようである。その後、生産地域は広がり、コーカサス地方、グルジア、アゼルバイジャン、アゾフ海東岸のクラスノダールが主要生産地になった。自国における生産地の拡大、そして先に述べたスエズ運河、シベリア鉄道といった交通網の発達により、紅茶の値も徐々に一般市民が手にできるものになっていったのであろう。それにより、一家に一台、サモワールの時代が到来したと考えられる。そしてその後、ついにソ連崩壊後。主要産地はそれぞれ独立を果たしたので、現在のロシアで飲まれている紅茶は専ら輸入品ということになろう。

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  1. 康熙帝の清朝が南下してきたピョートル一世のロシア軍を討ち、締結した条約。清朝が外国と対等な立場で締結した初めての条約であり、アルグン川とスタノヴォイ山脈を両国の境とした。
  2. ロンドンのピカデリー通りに建つ高級食料品店。ウイリアム・フォートナムとヒュー・メイソンにより、調理済みの惣菜や新鮮な果物を取り扱う店として1707年創業。
  3. 1886年創業以来、現在ではロンドン市内に30近い支店を持つお茶の専門店。

参考文献