新しい世代のユダヤ系作家とソール・ベロー
                                坂野明子

 私は今、カリフォルニア州立大学サンタ・クルーズ校で、1年間の在外研究生活を送っています。3月末にこちらに来ましたから、すでに8ヶ月が過ぎ、残りの日々を大事にしなくてはと思っているところです。ところで、9月から始まった授業の一つに出席して、あらためてベローについて考える機会を与えられましたので、そのことについて簡単にレポートいたします。
 この授業は学部向けの授業で、タイトルが“Modernity as Jewish Challenge and Catastrophe: The American Experience”となっており、アメリカのユダヤ系文学の流れを概説するものです。ですから、9月、10月は、とりたてて新しい情報が得られたわけではなく、むしろ、すでにおなじみの作家について復習させてもらったような感じでした。ただ、11月に入って、最近の作家たち、ベローの世代から言えば孫世代に近いような作家たちの作品を読むことになり、Abraham Cahanから数えても1世紀以上の歴史となったアメリカ・ユダヤ系文学の変遷について感慨を抱くとともに、そのコンテクストの中にベローを置いてみたら、ベロー文学はどう見えてくるのか、考えさせられました。
 思い切りよく要約すれば、移民の辛い経験を素材にした初期の作品群、同化とそれに伴う精神的葛藤を問う次の世代の作品群(ベローやマラマッドはこの仲間に入ると思います。もちろん、それぞれの作家によって描いたものはかなり違うのですが…)が今までのユダヤ系文学を形成してきたと言えるでしょう。フィリップ・ロスの場合は、第三世代でもあり、作品の形式も多様で、この説明ではずいぶん苦しいのですが。ただ、大きく捉えれば、ユダヤ系であると同時にアメリカ人であること、そのアイデンティティの問題を「自己」のレベルで扱っていて、ベローと同質の部分も多いわけです。
 ところが、今回の授業で読んだ、Rebecca GoldsteinのMazelという作品と、Michael ChabonのThe Amazing Adventure of Kavalier & Clayという作品では、「自己」の心理的、知的分析というようなものはほとんど見られません。むしろ、枠組みとしては「歴史小説」の形式をとっています。たとえば、前者では時間的に言えば、4世代にわたる女たちを扱っていますし、場所的に言えばポーランドのshtetlからニューヨークへの移動を含みます。後者についても、時代は1930年代、主要登場人物の一人がプラハからマンハッタンへ移動するところから物語が始まります。しかも、すぐに想像されると思いますが、両者とも物語全体にホロコーストが大きな影を落としています。さきほど「歴史小説」と言った意味はそのあたりとも関係するわけです。と同時に伝統的なユダヤ神秘主義の要素も多く見られます。
 詳しい説明はここでは避けますが、以上の簡単な説明でも、若いユダヤ系作家たちの文学がベロー文学とはずいぶん違う方向を目指していることがおわかりいただけるのではありませんか。問題意識も、手法も、ベローとは異質です。もちろん、これはユダヤ系文学の変質というだけではなく、アメリカ文学の変質でもあるわけで、いろいろな問題を含んでいると思います。で、あるにせよ、ベローについて新しいコンテクストで考えてみる時期がきたように思います。そうすることによって、今まで気づかなかったベローが見えてくることもあるのではないでしょうか。