(2009、9、12)
―人形遣いという存在の認識についての考察―
↑うわっ、カタ〜!
ついつい、こんなカタイ表現をつかってしまう・・・
いやー、人形劇やってると、子どもが「あっ、見えた!」というのを
聞くことがよくあります。
けど、最近わたしのやってる人形劇は人間出ずっぱりでやっているのが多くて、
もともと見えていると、さすがにわざわざ「見えた」とは子どもも言わないんですが、
「小さい子は人形が生きていると思っているのです」とかおっしゃった方もおられたような
記憶があるんやけど・・・
それはちょっと置いて、
実はうちには人形ってあんまりないんですが。
はるちゃんが小さい頃から部屋に置いている人形が1体あります。
それは、ばるさんが高校の頃に(ふる〜〜)
マクビティビスケットで当てたおさるの人形。
↑服は着ていませんが、昨日はるちゃんが着せたがって、
おかあちゃんがはるちゃんの服を着せたそうです。
大きさは乳児と変らないくらい。
私は時々この人形ではるちゃんと遊んでいます。
昨日もウキキ語で小冊子を二入で読み遊んでいたのですが、
私が疲れてやめると、はるちゃんは、私の手をとっておさるを動かせと
せがむのです。
これは、1才前からそんな動きをしていた気がする。
ここから私が感じること、
すくなくともうちのはるちゃんは、
私がおさるを動かしているという事を分かったうえで
おさると遊ぶことを楽しんでいる。
人形劇という虚構遊びの根幹にある
人形と人形遣いという微妙な関係性を
かなり小さい乳児から、感覚的に掴んでいる可能性は否定できない
んじゃないかな。(うわっ、カタイ表現)
あ、
それから最近、絵本の「くだもの」(はるちゃんの誕生記念に頂いた絵本の1冊)
を読んだ時に、
絵の中のくだものを手に取って口に運ぶ仕草をしたと
おかあちゃんがおしえてくれました。
そんな遊びもできるようになってきたんやね。