(2009、3、31)

 あらためまして、ばるさんです。

 さて、私は今日付けで劇団を去ることになりました。
人形劇団京芸に21年と2ヶ月間在籍しておりました。

明日からは無職(求職中)になります。(゜o゜)
ただ、わくわくシアターはもう1年間は依頼があれば
劇団作品に私が客演(?)して上演します。
ん〜ん、人形劇団京芸のわくわくシアターもあと1年〜。

これからどう生活していくか、
どう人形劇を続けるか、
まだ決まっていませんが、
どうぞ、みなさん よろしく。

ちょっとこの21年を振り返ってみようかな。
(以下以前はばるさんです参照)
 1987年の人形劇団京芸研究所で学び。
 1988年2月に入団。
 はじめについていた作品は「冒険者たち」。えー、バイトでついていて途中で劇団員に
なったってことです。この作品はトラブルの多い班で
メンバーがよく替わったり、突然体調を崩すものが続出したり。
そのため劇団員になって割りとすぐに、病欠の為の代役をすることになり、
それが人形劇団京芸では初役でした。イカサマ。
 その後メンバーチェンジがあって、しばらくそのイカサマ役をやりました。

 1988年は・・・小豆島で祭典があったのもこの年かな。バイクで観に行ったり、
夏には名古屋・飯田・東京でウニマの世界大会がありましたね。
作品作りから関わったのはポケット劇場パート5の「森のおいしゃさん」「京のほたる火」
4人班で全国の親子子ども劇場の地域公演や近畿の小学校公演などをしました。
場所替え2ステも多かった。
 比較的少ない時期には「森のおいしゃさん」と「あれ、これ なあに?」をもって
3人班で幼稚園・保育園・児童館なども廻り、くつ下人形つくりワークショップも
この時から経験しました。

 劇団外ではパントマイムの講座に毎週通っていましたね。
ん?毎週?隔週だったっけな?
4・5年は続けたんじゃないでしょうか。

 その次の作品は「貝の火」。これは小学校公演作品で8人くらいの班。
出発時点ではまだポケットが続いていたので、2年目からの参加だったかと思います。
ポケットの作品は私が入団する前に決まっていたので、
作品決めるところから関わったのは、この作品からになるでしょうか。
で、私が抜けてからも続いていた。

けれど、この作品の仕込みにあまり関わった記憶がないのは、
きっと若手公演をしていたからかな。???それともポケットの公演。

そうそう、若手は4年目までって事で、
私の前の入団者は3年空いていたので、
4年目の3人と私と4人でギリギリの時期に「雪を渡って」をしました。
それは、もう1年前のことやな。
で次の若手は、私とその次の年に入ってきた3人で「モダン・エンジェル」。

「モダン・エンジェル」は私の書いた大人向けのけったいな話。
それを伏見の小さな小さなホールを借りて公演しました。
「雪を渡って」は若手とは思えないようなしっかりとした仕込みでしたが、
「モダン・エンジェル」の時は、他の3人は何処に工具があるかも分からない
様な状況でしたので、仕込みに苦労しました。

で、3回目の若手はともかく「一人1体人形を作ろう」と「腹話術をやってみよう」
というテーマをもって、最終的にその4体の人形と(この年は新入団なかった)
腹話術で、かつアンサンブルの芝居を構成して上演しました。
「腹話術だよ ほいさっさ」
滋賀県の図書館でも公演させてもらった。

 次が「星モグラ サンジの伝説」「なきべそオオカミ」。
これは4人班で全国の劇場の低例会を廻りました。
実は設営は「ほたる火」よりも楽でしたが、これは場所替えはほとんどなかった。
そこはどう取り組まれるかの違いなのですね。
この作品はとても明るく楽しい話でした。

 若手4年目はメンバー一人増えて、題名忘れたけれど「夢〜」の話。
これも大人向けでしたね。

 それから、「くやしっぽ」「ウォートンのとんだクリスマス・イブ」。
この作品もすでに出発していて途中からの出演でした。
で、私が抜けてまだ続いていました。
 これは8人〜10人くらいの大きめの班。

 たぶんこの時期にこの班の中で「ゆうれいがいなかったころ」「鬼のむかえ」
も上演していたのではないかな。
これはかなり大人向けの作品。高学年向き。
6人班でした。私が入団してまもなくにこの作品は作られました。
「ドラゴン」班を二つに分けて「ゆうれい」と「砂漠」が作られました。
この「ゆうれいがいなかったころ」は後にアトリエ公演「人形桟敷」で
また再演しました。

 あれ?「砂漠の街のX探偵」「言葉のないものがたり」にも
一時期ついて、それは・・・ゆうれいのいなかったより後だと思うけれど。
じゃあゆうれいが貝の火の時で、砂漠がサンジの時かな?
う〜ん、記憶があやふや。

  そして45周年作品「モモ」。これは劇団員総がかりだったので時期限定の公演でした。
2年目には芸術祭の優秀賞を受賞しました。役者20人とスタッフ5名

 「モモ」は3年目もあったのですが、夏の公演のためモモに出演すると
地元の地蔵盆公演をできないのが残念で、私は抜けて
一人で地蔵盆用作品を作りました。
 それが、今も公演している「すると、そこに・・・」「河童にまけたおすもうさん」。
最初はそれだけ。ばるおじさんのわくわくシアターという名は少したってから
つけた名前です。

 それ以前には、大阪の長崎屋であった大人向け企画のために「ニュース・バラエティー」を
作り、その後時々大人向けに公演。初演は「ほたる火」の頃。
 貝の火の中の3人班で「ふらいぱんじいさん」を再演、
併演は新たに「すてきなバスケット」(美術をしました)を作って公演。
でもメンバーの一人が続けられなくなったので公演数は少なかった。
「サンジ」の時には二人で「おら、カッパだ!」を作りました。
ちょうどJリーグが始まってアルシンドの活躍もあったりして、
サッカーしている少年の所にカッパが来るという話。カッパラップで幕開け。

 通常作品ではわくわくの前に「やまんばのにしき」をしました。
この作品は同じ作品を別の美術・メンバーで先に公演していて、
それとは別美術・メンバーで新たに併演作品も作って公演しました。
併演は「ノコギリザメとトンカチザメの話」。
4人班で学校が主で、劇場例会もそこそこ入りました。
この作品の時には、一時期は私も普及部のメンバーとして普及活動にもまわりました。

えーっとこの次は?
どんちゃんがやまんばの次に飴買いの筈やから、
飴買いの最初のうちは私は別の作品についている筈やなぁ・・・。
あっ、そうだ、「へんな子ネコね マーチン」だ。
これは学校向けの10人くらいの編成の作品。
これもはじめはついてなくて、私が抜けてまだ続いていた。

それから、「飴買い幽霊」の最後の年について。
これは「飴買い幽霊」と「ヒロ君のあっというまの大冒険」を役者4人と
スタッフ2名で上演していました。
主演の一人が病気で続けられなくなって、○○→代役→客演→私と廻ってきました。

 この時期にわくわくシアターは「ぞうくんのさんぽ」「ワンワンくんくん」を
新たに作って二バージョンを持つ様になりました。

 そして、「漫才の星になるんや」かな。
この作品はその前に4人班の作品選びの時に候補にあがって、
私は気に入って推していたのですが、その時には落ちて、
再び6人班の候補として、私ともう一人が提出しました。
M1の予選にも出たり、
好きな人はすごく好きという作品でしたね。

「漫才」の時期には併用で私はわくわくも上演していました。
漫才は出発から関わったのですが、
また、この班からも抜ける事になり、その後も作品はしばらく続きました。

 で、私はわくわくシアター独立(劇団内で)となったのです。
つまり基本的に一年中わくわくの公演をするって事で。
そこで新作「きつねのまんま」「空をとぶワンくん」「いたずらうさちゃん」を
作りました。

 ああ、その前に「ぼく ムシになっちゃた」「タコのオクトくん」には
舞台監督としてつきました。

 そして、「しらゆきひめ」「りこうなハンス」の演出。

 いやー、21年ともなると、いろいろな作品に出演したものですね。
まだ抜けている公演や、なんでも発表会作品、講座など
いろいろありますね。

特に印象に残っているエピソードは、
「京のほたる火」はけっこう仕込みバラシが大変で、
なのに場所替えがあったり、会場条件が厳しかったり、
あるステージではありえないバラシ時間しかとれないうえに
メンバーの一人が抜けることになっていて、
主催者は「手伝いますから」と言って手を出されるが、
間違った片付け方をされるし、
まだまだ入りたての私は説明するのがヘタで、
自分が急いでやった方が早いのでキレた・・・。
若かったです。反省。いきなり舞台監督もしてましたから。

「貝の火」では朝小学校に入ったら、
舞台に花が並べてあって、
校長先生が式典で必要だから、動かさないで欲しいと言われて、
けれど、それでは人形が見えないから、説得した。
瀬戸内海のある島では宿でバットに大盛りの蝦蛄をご馳走になったのは
嬉しい思い出ですね。

「サンジ」では役者として一段階登った実感がありました。
役を演じるってことは、その役の芯を掴んでそこに立てばすごく楽であるという
事を知りました。

「ウォートン」の時は男女取り混ぜたグループで、
もうすぐなくなる渋谷のストリップを観に行ったなあ。

役を楽しいと一番感じたのは「ゆうれいがいなかったころ」の作十の役ですね。
桶をかつぐヘタレの役でしたが、力を抜いて、人形の動きを楽しめました。
だからこそ再演したくて「人形桟敷」で実現しました。

「モモ」の時は阪神淡路大震災がありました。
ちょうど稽古場にたてて稽古している時期でしたね。

「漫才」では、ネタを考えて考えて、苦しみました。
M1は結果は出せなかったけど、まったく違う環境のパフォーマンスが経験でき、
最後の時は少し笑いもとれたのでいい経験でした。
KBSラジオでいくよくるよさんの番組にも出させてもらったなぁ。
鹿児島へ行った時に遊びで屋久島へ行ったのも楽しい思い出です。

わくわくは《きつね》を創るのはかなり苦労しました。
「ムシ」の稽古に付き合いながら、稽古後に紙芝居の絵を描いて、
《ぞう》の公演もしながら、空いてる日にうさちゃん・きつねの人形作り
などなど・・・脚本・美術・演技なので、仕込み責任者も自分しか振りようがなく、
最後は倒れました。
演出はしてもらったのと
音楽が大変いい曲を作って下さったので、
幸い大変よい作品になってよかったです。
ああ、仕込みはもちろん他の劇団員にも手伝ってもらって大変助かりましたが、
指示・割り振りも私になるので、そこがきつかったですね。

そうだ、日本全国飛びまわって、前の劇団も合わせて、
ほぼ全県で公演しました。が!一箇所、沖縄・・・
劇団で私が付いていると沖縄がはいらないというジンクスがあって、
私がつく前に沖縄行っていたり、抜けてから沖縄が入ったり、
〜〜〜!!
飴買いの時にメンバーとしては、ついに沖縄へ行くことが出来ましたが、
結局、沖縄だけは芝居していないな、まだ。
ああ、それは心残り。

前の劇団では台湾公演をして、
京芸では「おら、カッパ」で香港へ行き、
タイへは「おとと」(特別作品)で行きましたねぇ。
2006年のシャルルビル・メジェールは観に行った。

劇団のみなさん、本当にありがとうございました。
いろいろお世話になりました。
スタッフの方々、
公演をとって下さったり、企画してくださった方々、
それに観てくださったみなさん、
どうも ありがとうございました。

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